第17話 別居

 憂鬱な気分を少しでも上げたくて、温室に入った。

 異国の植物や果物が植えられているその空間に誰もいないことを確認すると、ベンチに腰を降ろした。


「いただきます」

 膝の上にサンドイッチの包みを広げると、背後でゴソゴソと音が聞こえた。


「……誰かいるの?」

 ひょこんと、オレンジの木の陰から小さな男の子が出てきた。


「あら。可愛らしいお客さんね。お名前は?」

「シャルルです」

「シャルル……もしかして、皇子様?」

「はい」


 殿下によく似ている。なんて可愛いのかしら!


「はじめまして。私はエレナよ。宜しくね?」

「皇太子妃様?」

「エレナよ」

「エレナ様……」

「今ね、お昼を食べようと思ってたの。よかったら、いっしょに食べない?」


 サンドイッチを手渡そうとしたその時、シャルル殿下を探す酷く焦った女性たちの声が聞こえてきた。


「――シャルル様? シャルル様? どちらですか? シャルル様?」

「シャルル? シャルル? っ、シャルル!!」

「母上!?」


 ハッと我に返る。

 こんなに早く、殿下が離宮へと隠す女性と顔を合わせることになるなんて……。


「っ、皇太子妃様。息子が、大変失礼致しました」

「いいえ。シャルル様は何も。一緒にお昼をどうかと思ってお声かけしたのですが」

「えっ!? シャルル、何か口にしたの? 身体は? 何ともない?」

「すぐに医者を呼んでまいります!」


 酷く焦った声でシャルル殿下の体調を気遣い始めたクリステル様と女官たちを見て、会得した。そっか、毒見をしていない食べ物を口にするのはタブーだものね。


「シャルル様はまだ一口も召し上がっていません。毒見もさせず、軽率でした」

「っ、そのようなつもりでは……」

「ご迷惑でしたね、失礼いたします」


 意図せず殿下の愛する女性と皇子に遭遇し、しかも初対面の相手に毒殺を疑われてしまったことに、すっかり心が折れてしまった。


 温室を出て再び中庭に戻ると、お弁当を広げた。

 こうなったら、一人で全部食べてやる! 私のお料理、美味しいんだからっ!


 泣き出しそうになるのを我慢しながら一心不乱に口へ詰め込んでいたら、不意に顔に影が差した。


「そんなにたくさん食べるのかい?」

「え?」


 いつの間にか、気品漂う紳士が目の前に立っていた。


「それ、食べきれないのなら貰ってもいいかな?」

「……」

「ん? ダメ? やっぱり図々しかったかな?」

「いえ。たくさんあるので、よかったらどうぞ」

「本当? じゃ、遠慮なく。……ん、美味い!」

「ふふっ」

「こっちも貰っていいかな?」

「どうぞ」


「はぁ――。お世辞じゃなくて、どれも本当においしかったよ」

「それは良かったです」

「実はさ、騎士団に立ち寄ったら耳にしたんだ。皇太子妃様の作る料理が絶品だと」

「え……」

「3Jsジース、だっけ? 彼らが言っていたよ。『妃様のように明るくて家庭的でユーモア溢れる奥様がいる皇太子殿下が羨ましい』って」

「……どれも皇太子妃には必要のない資質みたいだけど」

「そうかな。そんな皇太子妃がいる国には、平和が訪れてくれそうだけどな」

「っ」

「なーんてね。歳のせいかな、説教っぽくなってダメだね。ご飯、ご馳走様でした」

「……お粗末様でした」


 彼は「じゃ、また!」とウインクすると、片手を上げて去っていった。


 あれは一体、誰だったんだろう? 

 私って一応、皇太子妃よね? 敬語を使われていい立場よね?騎士団に立ち寄るってことは、騎士か帝国軍の方かしら。

 それにしてもあの声、どこかで聞いたことがあるような……。



 その日の夜――

「今日はエレナと夕食を共にする」

「妃様でしたら、夕食は不要だと連絡がありましたが」

「なに? 夕食だけは料理長に作らせていただろう?」

「それが――」


 2階にある家族用の食堂を覗くと、エレナが弁当箱を目の前にいくつも並べて、黙々と食べていた。目を細めている様子から、また何かに怒っているのかと思ったが、よく見ると目に涙を浮かべている。


「――あれはどうした?」

「妃様の執務室のメンバーへお弁当を手渡したそうなのですが、誰も召し上がらなかったようで」

「弁当? そんなことをしているのか?」

「少しでもお役に立ちたいとおっしゃって。皇太子妃教育の合間に、お茶くみから書庫の整理まで、雑用を買って出ているようです」

「そんな暇があったら、少しでも皇太子妃教育を進めさせろ」

「それが……」

「なんだ?」


「セヴラン先生と女官長いわく、教えることがないくらい優秀だと。改善すべき点があるとすれば、帝国語の敬語遣いくらいだそうです」

「っ、そんなに優秀なのか?」

「王国の貴族学院では首席だったそうです。あちらでの王太子妃教育はほぼ終わらせていたとも聞きますし――」

「加えて、あの女豪傑として名を馳せたアン夫人自らが教育を施したのであれば――」

「そうでございますね……」



「――ナ?」

「……」

「――レナ?」

「……」

「エレナ?」

「えっ? あ、はい」

「夕食はそれか?」

「はい」

「自分で作ったのか?」


 こくんと頷く。


「わたしにも一つくれ」

「っ殿下!? 毒見がされていないものを召し上がるのは――」すぐさま彼の側近が苦言を呈する。


 私は、名目上とはいえ、彼の妻なのに。殿下の側近にすら、信用されていない。


「毒など入れてないだろう?」

「毒が入ってたら、私は死んでますよ。……一度、ほんとに死にかけたけど」

「っ、」

「用事がないのなら、放っておいて」

「どうして弁当など作った?」

「役に立ちたくて」

「何もしなくていいと言っただろう?」

「やめてよ!そういうの、すごく、傷つくの」

「執務官にお茶を淹れたり雑用をこなすのが、皇太子妃の仕事だと思っているのか?」

「そんなこと思ってない! でも、王国では――」

「ここは帝国だ! 王国じゃない。いい加減、こっちのやり方に慣れろ!」


「……宮殿ここに、私の役割はないということですか?」

「そうだ」

「毎日何もせず、ただ綺麗に着飾ってニコニコ笑って過ごせと?」

「それが、女性の幸せだろう?」

「馬鹿にしないでよ!」

「今のエレナに、公務を任せられると思うか?」

「たしかに今は敬語も覚束ないし、学校も卒業していない私には、学もないけど。でも少しくらいならお手伝い――」

「皇太子妃の執務なら、イヴェットが完璧に務めてくれている。不足はない」

「殿下の夜のお相手も、イヴェット様が務めてくれてるの?」

「……いくら皇太子妃でも、彼女を侮辱する発言は許さない」


 彼が本気で怒った様子を見て、少しだけ安心した。

 殿下にとって、イヴェットさんは信頼に足る人物なのだと分かったから。

 そういう人が公務を代行してくれているのなら、大丈夫だろう。


「殿下のお心は、クリステル様が慰めてくださっているのですか?」

「っ、彼女のことを、誰から聞いた?」

「そんなに怒らなくても。偶然、温室でお会いしただけです」

「おいっ、護衛は何をしていた?」

「大変申し訳ございませんっ!!」


「公務も不要、伽の相手も不要。だったら、何をすればいいのよ」

「離宮で過ごしたいのなら、そう手配する」

「他にも離宮があるの!?」

「帝都から離れた森の中にある。そこでなら、心静かに過ごせるだろう」

「殿下が訪ねてくることは?」

「ない」

「顔を合わせることは?」

「なくなるな」

「分かりました。そちらへ居を移します」


「公式行事など、どうしても妃の出席が必要な場合には、出てきてもらうことになる」

「その時は、綺麗に着飾って貴方の隣で馬鹿みたいに、ニコニコ幸せそうに笑っていれば良いんでしょう?」

「っ」

「予算や使用人は、今の範囲内で私に権限をいただけますか?」

「いいだろう」

「1日時間をください。その間に荷物をまとめるから」

「離宮は長い間使われていない。住める状態になるまでは宮殿ここにいればいい」

「だったら、自分で住める状態にします。わたし、料理だけじゃなくて掃除も得意なので!」

「……」

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