第16話 灰色の空
その日は、3
「エレナ様って、本当に公爵令嬢だったんですか?」
「え? そうよ。どうして?」
「普通、こういうのって侍女の仕事じゃないですか?」
「私は自分の好きなやり方があるの。彼女にもそれを覚えてほしくて、見本を見せてるだけ。今だけよ」
そう言いながら、ベッドメイキングを終えてソファーのクッションの位置を自分好みに整え直すと、新しく入った侍女へ「こういうふうにしてほしい」と伝えた。
「でも、ほんと、エレナ様はそういう所、ちゃんとしてますよね? 僕の恋人なんて、朝起きてもベッドなんて整えたりしませんよ」
「……ジャン。あなた、恋人がいるの?」
「はい」
「『はい』って。結婚前なのに、一緒に住んでるの!?」
「そんなの、平民じゃよくあることですよ? 同棲した方が経済的にも楽だし、大好きな彼女とも一緒に過ごせるし」
「そうなの!? ちょっとその話、詳しく聞かせてくれる!?」
「え? 構いませんが……エレナ様が知ったところで、何も得ることないと思いますよ?」
それがあるのよー。
離縁後の生活に備えて、市井の生活実態――それも男女の色ごとの――を知っておく必要が!
ジャン先生による市井講義を聞き終えると、凝りもせずまた執務室へ顔を出した。
お昼時だというのに、今日もみな、食事もとらずに一心不乱に仕事をしている。一応、豪華な昼食がワゴンに乗せられて置かれてはいるが、こんな食事では片手間に食べる事は出来ない。
それから毎日執務室に顔を出しては、頼まれてもいないのにお茶出しと、午前と午後のおやつと、食事の配膳などをして皆を観察した。
私の執務を主に代行してくれているのは、イヴェットさんだ。
イヴェットさんは侯爵家の出自で、聡明な頭脳に美貌を兼ね備えた彼女は、もっぱら殿下の公妾だと噂されている。侍女たちがそう話をしているのを、偶然聞いてしまったのだ。
議会の開催中は、とにかく忙しそうだった。
3日連続、昼食がワゴンの上に乗ったまま夕方まで手つかずだった様子を見て、皆にお弁当を持っていくことにした。各自の好みはだいたい把握できていた。
「良かったらお昼をどうぞ。仕事しながらでも片手で食べられるものばかりですから」
「――毒見は済んでいますか?」
「お料理をする時間があるくらいなら、皇太子妃としての公務を一つでも覚えていただけると助かります」
皆の反応は様々で、そして散々だった。
身体全体で、『迷惑だ』というオーラを発していた。
食べてすら、もらえなかった。
「美味しいと思うんだけどなぁ」
レオポルドや3
あの手厳しい能面の女官長でさえ、私の手作りのお菓子を「美味しい」と言って頬張ってくれるのに。
翌日。またお弁当を手に執務室を訪ねた。
「今日は毒見を済ませてます。皇太子妃教育も、急いで進めていますが、しばらくの間、ご迷惑をかけるわね」
結果は――やはり同じだった。加えて、辛辣なことも言われてしまった。
「妃様は料理長の仕事を奪うおつもりですか?」
「私達に取り入ったところで、殿下の寵愛は得られませんよ?」
「皇太子妃教育はどうなされたのです?今の妃様の帝国語では、とても殿下の隣に立ち公務をこなすことなどできません。敬語と常態語が入り混じっておりますよ?」
皇太子妃教育なら、ちゃんと受けている。別にサボっているわけじゃない。敬語遣いが課題なのは分かっているけど、なにせ自分と話をしてくれる人は限られているのだ。実践なくして語学の修得をするのは、難しいのよ。
それに――殿下の寵愛を得ようだなんて、初めから思っていない。
でも――たしかにこれは、料理長の仕事だ。私が出しゃばるところじゃない。お弁当を用意するのは、今日で最後にしよう。
お弁当を抱えるようにして持ち、宮殿の中庭に出た。
灰色の秋空を見上げて、「空が落っこちてきそう。まるで、私の心みたいだ」と思った。
「青く澄んでいる王国の秋空とは、全然違う……王国とは――ぜんぜん」
あの頃――ランスロットとの婚約が成立して間もない頃。
王太子妃教育のカリキュラムが書かれた紙と分厚い本を手に屋敷へ戻り、翌日の予習をしていたら、いつの間にか隣に立っていた祖母が、パタンと私が読んでいた本を閉じてこう言った。
「さぁ、ヘレナ。収穫祭の準備をしましょう!」
「でも、まだ明日の予習が――」
「必要ないでしょう? 会計学も、経営学も。公爵領の実務を私と一緒にこなしているヘレナなら。それよりも、明後日は色んなお客様が我が家にいらっしゃるのよ?それこそ、市井の方から他国の公爵まで」
祖母は、カリキュラムの書かれた紙を一瞥すると、「ふんふん」とペンでバツ印を付けていき、私に言ったのだった。
「明日、教育係へ伝えておいで。これらの科目は不要です、と」
祖母の教えは、机上の理論よりも実践重視だった。
お料理も掃除も、ベッドメイキングも。使用人の仕事を見よう見まねで実践し、その後は祖母の采配を間近で見ながら、指示の出し方や指導の仕方を学んでいった。
――帝国に来てからも、初心に戻り、自分のできるところから何かを始めようと思ったのだけれど。たしかに、あの頃と今とでは、立場というものが全く違う。お料理も、お茶汲みも――皇太子妃のする仕事じゃないことは、分かってる。
それでも、何かをしていたかった。
じゃないと、自分の存在価値が、消えてなくなりそうで怖かったから。
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