[ PAGE3 ] ネンヘンとヤクユの素敵な夜に
ネンヘンは窓を見ていた。正確には窓の外、遠くに浮かぶ雲がかった月を、窓越しに眺めていた。ベッドの上で、枕に頭を預けながら。ふわふわした手触りのお気に入りの寝巻に身を包んで。でも、ナイトキャップは外してしまった。ちょっと暑苦しかったからだ。別に、暑い時期というわけではないし、空調が強すぎるというわけでもない。なんとなく、体が火照っている感覚がじんわりと、続いているだけだ。やけに目が冴えて眠れない夜だった。これはきっと、隣にヤクユがいるからだと、純粋に推理した。ヤクユはネンヘンのガールフレンドだった。ころころと表情が変わり、笑う時はぱっと花が咲いたようににっこりと頬を綻ばせる。素直でいながらも人を傷つけないように言葉を選ぶ。ネンヘンは彼女にべた惚れだった。そんなヤクユが、なんと今日は泊まりに来てくれたのだ!眠れるものか、ヤクユなのだぞ!
二人は10代で、歳の割りには奥手で、恋愛の経験というものが全くない。互いに互いがはじめての彼氏であり彼女である。また、ヤクユにしてみれば、遊びにきただけのことだったのかもしれない。だって彼女は、ネンヘンと楽しく遊ぶだけ遊んだ後、そうそうに布団に滑り込んで寝るなんて笑ってから沈黙した。
だがネンヘンとしては、とてもじゃないがおちおち眠りこけていいような時間ではなかった。自分のすぐ右隣には大好きなヤクユが今もほら、きっとすうすう眠って…。ネンヘンは、ヤクユが今、眠っているのか起きているのかもわからなくて、少し困っていた。ヤクユが寝ていたらと思うと、起こしてしまったら悪いから、身じろぎ1つとれずにいたのだ。かといって自分が眠るという選択肢には懐疑的だった。ネンヘンは自分の寝相を心配する。万一、ヤクユから布団を奪うようなことがあってはいけないし、ドカドカ足や手でヤクユにぶつかってしまわないかも心配だった。あとちょっと布団の中が二人の体温で暑く、寝るに寝られる状況でもなかった。そうでなくても寝られるもんか!今隣にいるのは、あのヤクユなのだぞ!ネンヘンは自分が叫び出したいような気持になっていることが一寸おかしくなって、笑いそうになるのを必死でこらえた。ああ、ナイトキャップを外していてよかった。きっとつけていたら頭まで汗だくになっていただろう。
その時、ヤクユが動いた。今まであおむけに寝ていたところ、こちらに寝返りをうったらしい。と視界の隅の情報を目玉という斥候がが告げてくれる。ネンヘンは勇気を振り絞って自分も寝返りをうつふりをして、ヤクユの方を向いた。ヤクユは起きていた。その綺麗な瞳は開かれ、ネンヘンの目を射抜いた。ネンヘンはこみ上げる感情の濁流を莫大な自制心で保留し、言葉を探す事に努める。だが先に口を開いたのはヤクユだった。
「寝れないね」
それだけだった。たったそれだけだったが、そう言ってふふっと笑う彼女を、心底いとおしいと思う。ネンヘンはそっと自分の頭をヤクユの頭にあてる。二人の呼吸が近い。そこだけに今、1つの幸いが生まれるというその時。
白かった。何が起きたのかわからなかったが、「え!?何!?…白い!」とまず思った。次いで、轟音。腹の底に響く極めて低い音が自分を、空間を、世界を震わせている。
(一体なにがおこった!?…ヤクユ!!)
目の前の華奢なぬくもりをネンヘンはきつく、きつく抱きしめる。愛する彼女を守りたいという、半ば本能的な行動だった。そのままその何かが過ぎ去るのを待った。
そう時間がかからないうちに、次第に音と振動は弱まり、白かった景色に輪郭が浮かび上がってくる。ああ、あの白は窓から差し込んだ光だったのだな、とそれを眺めながら思う。ネンヘンは自分がこういう時に気丈で比較的冷静にいられるということをその時はじめて知って、そんな事を考えている自分にまた少し呆れるような、感心するような、微妙な心持になった。
ひとまず、視界がある程度戻ってから、目の前のヤクユをみやる。ヤクユも自分の事をのぞいている。彼女は無事そうだ。ネンヘンは彼女や自分、そして部屋の中も特に変わりないことを認めてから、窓を見に行こうとした。立ち上がろうとしたところでつんのめる。ヤクユが自分の手を握っている。不安そうだ。ヤクユの掴む手を上から覆い、努めて微笑んで礼を述べてから「大丈夫、ここにいて。」と声をかけてる。そうして彼は、彼女がその手を外すかどうかを待った。ヤクユはしばし目を伏せてためらったが、やがてそのか細く小さな手をネンヘンの手から外し、自分をくるむ布団の下へともぐりこませた。ネンヘンは、何が起きたのか、窓のそば、それもこの建物の真下の街路や遠くまで見渡せる場所まで移動した。
窓のそばに向かう数歩の中で、ネンヘンはすぐに気づいた。窓のすぐそばに、普段はない何かがあった。それは画像編集ソフトで雑に景色を単色の白で塗りつぶしたような「出来の悪い光景」だった。また、まだ耳鳴りが残る中にも、何かの音が聞こえていることにも気づくことができた。近づく。一歩ずつ、一歩ずつ、ゆっくりと、息をころして近づく。音はどうやら、人の声らしい、それも会話のようだ、とネンヘンは気づく。もう間もなく窓の傍に辿り着く。パジャマの衣擦れの音がしやしないかひやひやし、足を置いたり離したりする度に悲鳴めいた軋むをあげる床が憎らしい。幸い、特になにも起きることはなく、窓のすぐそばまでたどり着いた。そして恐る恐る、窓の外、目の前の路地を俯瞰する。
白いなにかが光っている。何度見てもそれは、三次元空間に突然二次元的な単色が鎮座しているようにみえ、不気味であった。それは人より何倍も縦にも横にも大きく、身を呑真中にからにゅっと生えるようんあった。そしてその光をうけて、人影がたじろいでいるのを見つける。人影は千鳥足でフラフラしながらも、端末をとりだしてしきりに操作しているようだった。白い光でくっきりと見える。それこそはホルス刑事であった。
アンムヌ手稿 音絵青説 @otoeaoto
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