スワンソング
草森ゆき
スワンソング
ジョセフ・K・ダックマンは凄腕と噂される殺し屋だった。晩年でありながら腕前は一切落ちず、狙撃の技術で右に出る者は一人もいなかった。彼の所属する組織にはジョセフを指名しての暗殺の依頼が常に舞い込んでいた。
ジョセフには自負もあった。狙撃そのものも勿論だが、狙撃に至るまでの過程──狙撃位置の確定、標的の行動把握、天候風向きの精査、瞬間を待ち続ける忍耐──それらを全てパーフェクトにこなしていると感じていた。自惚れではなかった。実際に、ジョセフは業界一のスナイパーだった。
そのため、彼が殺された日の衝撃は凄まじかった。
射殺だと判明した時には、撃ち殺した相手を血眼で探す命令が下された。
やがて見つかったその人物は、誰に何を聞かれても、ジョセフの死に様について口を割りはしなかった。
それは最大の敬意で、配慮で、感謝だった。
20xx年、12月。
ジョセフは降り積もった雪を踏み締め、底冷えした大地の上を歩いていた。当然仕事のためだ。白い息を凍えながら吐き、しかし暫くすれば震えはなくなった。銀世界の森の奥、標的である資産家がスノースポーツを楽しむために建てた別荘に向かい、進んでいった。
当然、警護がいた。ジョセフは茶髪をニット帽に全て入れ込み、木に登った。狙撃は難なく行われた。別荘周辺を巡回していた二名の警備は、折り重なった枝葉の隙間を突き抜けた弾丸に喉笛を貫かれ、声を上げられないまま絶命した。
ジョセフは木を降り、下調べを行っていた周囲を軽く見渡した。予想通り、低木の密集した一帯は雪の塊が生み出されていた。ジョセフはそこへと滑り込み、双眼鏡を覗いた。標的の別荘までは一キロほどあったが、何も問題ではなかった。スキーウェアに着替えた標的が玄関から外へ出た瞬間を狙い、狙撃した。青白い雪の上に熱い血液が舞った。これで仕事は完了だった。
ジョセフ・K・ダックマン。彼の予想外はここからだった。
素早く立ち上がったのは、勘と呼ばれる機構からの警鐘によるものだ。その数秒後、ジョセフがいた低木の密集場の中には銃弾がめり込んだ。雪が四方に跳ね、ジョセフは身を翻した。大樹の裏側へと回り込み身を伏せる。二発目はなかった。音は然程聞こえず、気配は感じられない。だが立ち去っているはずがないとジョセフは思う。
明らかに自分を狙った銃弾だった──。
ジョセフは雪の上に腹這いになり、雑草と雪塊に隠れながら、じりじりと低木の群れから離れていった。
この時に逃げていれば、或いは生き延びたかもしれない。だがジョセフは相手のスナイパーを探し、撃ち殺す選択をした。
標的の警護の一人であれば殺したほうが良い。偶々通りがかった猟師の、正義感による発砲だとしても、やはり見逃す訳にはいかない。
そして何より矜持である。
あのダックマンが別のスナイパーを前に尻尾を巻いたと、噂をされれば名折れどころではなかった。
ジョセフは木の生え揃う、奥まった位置まで移動した。影から双眼鏡を覗き、注意深く観察すれば、木と木の間を素早く過る影はすぐに見つけた。あれだ、とジョセフは胸の内のみで呟いた。小柄に見えたが、身を屈めていただけだろうか。追ってきたということは、やはりおれを狙っている。組織の人間か、そうではないか。どちらでもいい。狙うのであれば、狙い返す。
ジョセフは太陽の位置を見た。昼下がりで、日没までは然程遠くないと判断し、森の奥へと視線を転じた。山へと続く深い森だ。見晴らしのいい平野より、奥に移動する方が望ましい。
そして日没までに全てを終えたい。
冷たい風が吹いた。ジョセフは息を詰め、肉眼で相手の位置を探し始めた。シンとした森が広がるばかりで、気配は特に感じられない。低木の重なる位置、盛り上がった岩場、斜めに生えた木の影と、自分が相手であれば隠れる場所を確認してから、はっとして視線を上げた。
予想は当たり、銃弾が飛んできた。ジョセフは間一髪身を翻し、別の幹の裏へと身を滑り込ませてから、一発撃った。銃弾は木の枝と、針葉樹の硬い葉を揺らした。数秒待つが、相手は降りてこなかった。
ジョセフは同じ場所に銃口を向けたまま、口元に笑みを浮かべた。まったく無意識の微笑みだった。
自分がつい先程、警備を撃ち殺した時の状況を思い出していた。
木の上に登り、別荘の壁から覗いた影を見て、撃った。太陽の位置を考えても、そこが最も狙撃に適した場所だった。
だが今、相手の行った狙撃は違う。木の入り組んだ森の中で影を追う意味はあまりない。動くものがあれば目に入るが、自分は対して動いてはいない。相手の狙撃の腕自体は、決して悪くない。
だからつまり、今の狙撃はただのメッセージだ。
ジョセフの腕前を信用しての、追随だ。
「あなたにはついていけない、一生一人でライフルを愛でていればいい」
これはジョセフが、育てようとしたスナイパーに言い放たれた台詞だ。もう、十年は前になる。年齢を考え、同時に自身の技術を誰かに教える必要があると感じ、弟子をとったが失敗だった。
狙撃位置の確定や、狙撃するまでの長い待機時間を耐えこそすれ、ジョセフ自体が持ちえる正確な狙撃をものに出来る相手はいなかった。血をわけていれば或いは。そう思った日もあるが、ジョセフには妻も子供もいない。孤独でいる方が都合も良かった。たった一人で全てを終えた達成感は、今の今まで殺し屋を続けている理由の大部分ですらあった。
だが今は。
ジョセフは息を吐き、吸い込み、逡巡するが、幹の裏から出て行った。先程相手が撃ってきた位置を見上げ、まだそこにいるだろうかと考えてから、いるはずだとライフルを構えた。
恐らく待機しているであろう、枝葉の重なる部分を避けて、撃った。枝に積もった雪がぱらぱらと落ちた。
幹の真ん中にめり込んだ銃弾の真上にもう一発撃ち込んでから、ジョセフは自分の真横の木の幹を指差した。
賭けではあった。だが放たれた銃弾は、ジョセフの指した位置に当たった。二発目は、二センチほどずれた。ジョセフはふっと息だけで笑った。
再びライフルを構え、数センチ下の位置に、同じことをした。銃弾に銃弾を重ねる。スコープは覗かない。肉眼で、そして積み重ねた経験と、現在の風向きや天候を鑑みて、最適解を銃弾に与えた。理解する必要はないと、ジョセフは心のうちだけで話し掛ける。肌感覚で構わない。たった一回だけでいい。たった一回成功すれば、その経験がおまえを生かす。
二度目の狙撃も成功はしなかった。三度目、、四度目も、同じ場所には当たらない。かつての弟子は五度目で無理だと口にした。今の相手が放った五度目は、ほんの数ミリずれているだけだ。
ジョセフは再度実演し、今度は銃口を下さずに相手のいる位置にぴたりと向けた。本当に撃つつもりはなかったが、緊張感の中での狙撃は経験するべきだと、そうした。成功まで遠のくだろうとは思った。しかし、まったくの杞憂だった。
六度目の、二発の銃弾は重なった。穴だらけの幹から、屑がぱらぱらと溢れていった。ジョセフは銃口を下ろし、空を見た。日暮れがどんどんと近付いていた。一生ライフルを愛でていればいい。脳を巡る台詞に心の中で返事をする。ならおれの最期もライフルと共にあるべきだ。
ジョセフは再び幹に隠れた。そのまま死角を進んでいき、森の奥を目指して進んだ。そのうちに、傾斜が現れた。ちょうどよく木々の重なる位置を見つけるが、そこには潜まずその隣の木へと即座に登った。
弾の補充は進みながら済ませていた。見下ろせば、木の影を移動する相手の姿が一度だけ見えた。やはり小柄で、狙いをつけてみるが上手く死角を選んだらしく、その後の動向は追えなかった。
その動きも、ジョセフを模したものだ。ジョセフは目を細め、ライフルを構えながら、嘆息した。奇妙な感覚が全身を包んでいた。あのスナイパーはおれのような、いや、おれを越えるような腕前の、孤高のスナイパーになれるだろう。その巣立ちを撃ち取ることは本当におれのやるべきことなのか。
今までない悩みだった。ただ、迷いや懸念は銃弾によく現れる。今のままでは狙撃の成功はしない。落ち着くべきなのは明白だ。
一旦ライフルを下ろしつつ、ジョセフは考えを巡らせる。
何をするべきか。何をしてやるべきか。おれを師、あるいは父のように追ってくる相手を、どのように導くべきなのか。子供はおらず、弟子には愛想を尽かされた自分にできる最大の教育は、一体何であるのだろうか。
辺りは随分と暗くなっていた。森の奥へ進んだせいもあるが、日没が迫っているためでもある。ジョセフの頬に小さな粒が落ちる。視線を上げれば、ちらつく雪が見えた。いつの間にか、分厚い雲が空を全て覆っていた。凍てついた森の中に、ひたすらな孤独があった。だがそうではないと、ジョセフは思い至った。
ライフルを構え直し、辺りを見下ろした。スナイパーが隠れるであろうポイントをいくつかピックアップしてから、一つに絞ろうとして、首を振った。ジョセフは息を吸い込み、止めた。瞬きは勝手に止まっていた。
迷いなく、撃った。雪の濃い枝葉の密集地帯、斜めに傾ぐ幹の狭間、日没により暗くなった木の麓、自分を狙いやすい木の上。全ての狙撃は的確に、素早く行われた。ジョセフだから出来た芸当だった。逡巡を与えない速度で、一つずつを撃ち抜いた。
ジョセフは待った。その間に雪の量が増えていった。音は雪にも、木々にも飲まれ、冬の息吹だけが密度を増して行った。
今のどれかで撃ち殺したのであれば、相手はそれまでのスナイパーだ。
だがもし、もしも、銃弾を逃れたのであれば。
どさり、と音がした。ジョセフは素早く音の方向へと銃口を向けた。木の上から何かが落ちた音だ。夜の暗さの中では見にくいが、雪の落ちた音ではない。横たわる何かはコートを羽織っていた。ジョセフの撃った位置から落ちてきたものだとも、確認した。
ジョセフは一度強く目を閉じ、凍える息を吐き出してから、瞼を開いて木を降りた。新しく積もり始める雪の上を歩き、コートのところまで進んで行った。その最中だ。一発の銃声が響き渡ったのは。
前のめりに倒れたジョセフは、冷たい雪の上に伏してから撃たれたのだと気が付いた。同時に落ちて来たコートがフェイクだったとも把握して、知らず知らず、笑っていた。笑い声は掠れた。肺が痛く、四肢が引き攣れた。どこを撃たれたかはわからなかった。
どうにか身を翻して仰向けになると、雪越しに軽い足音が聞こえてきた。キュ、キュ、と、一歩ずつ確かめるような速度だった。弾を装填する音も聞こえた。気を抜かない姿勢を、ジョセフは気に入った。
やがて視界に現れた相手を見て、ジョセフは目を丸くした後、ゆっくりと片手を上げて、労った。
「おめでとう、名前を聞こうかな」
軽口に相手は笑った。
「コーデリア・ライト。色々教えてくれてありがと、ミスターダックマン」
あどけない少女だった。ジョセフは息をつき、上げたままの片手を、穴の空いた体ではなく漏れ出た笑いを抑えるために使った。
弟子も子供もいない身だったが、込み上げるものは喜びばかりだった。コーデリアが自分の隣を過ぎ去り、コートを拾い上げる様子を見てから満足して目を閉じる。が、すぐに起こされた。もう眠かったが、ジョセフは目を開いてコーデリアを見上げた。
「ねえミスター。どうしてあたしに、撃ち方教えてくれたの」
ジョセフはコーデリアの目を見つめた。彼女の背後には、放射状に降り落ちる無数の雪があった。最期の景色は随分満ちているなとジョセフは思った。もうほとんど感覚のない右手を動かし、弄ったポケットから取り出した煙草を、ジョセフはすっと差し出した。
「経験は、全てに勝るからね」
コーデリアは煙草を受け取った。なんの変哲もない銘柄だったが、ジョセフが長年愛していたものだった。
雪の降り頻る中、ジョセフは息を引き取った。コーデリアはジョセフの死に顔をしばらく見下ろしていたが、やがてコートを羽織り、煙草をポケットへと押し込んで、立ち去った。
業界一のスナイパーを撃ち殺す経験を糧に、コーデリアは生きていく。ジョセフのいた位置には彼女が据えられ、世代交代は難なく終わる。
彼女が愛煙家である理由も、ジョセフが死を厭わず彼女に技術を与えた事実も、誰も彼もが知らない。
それがコーデリアに出来る最大の悼辞で、ジョセフの
スワンソング 草森ゆき @kusakuitai
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