物語は貴方のそばで

三日月深和

物語は貴方のそばで


 

 

 鳥の囀りが聞こえる中、私はある部屋のドアをノックする。

 小気味いい音を立てたドア板の向こうから反応が返ってくる様子はない。もう一度同じことを繰り返しても結果は同じだった。

 私は預かっている合鍵を使ってドアを開ける。そのまま閉じたカーテンに向かって歩を進めてから勢いよくそれを開いた。

「っ」

 強い日差しが一度に目に入ってくる。あまりの眩しさに顔を顰めると、後ろからみじろぎした音が聞こえた。

 振り向いてベッドに向かう。ベッドのあるじは丸まった猫のように掛け布団を被って日差しから目を守っている。

 私はその姿を見つつ、くるまった体を揺さぶる。

「アーサー様、アーサー様。朝ですよ、起きてください」

 掛け布団から少しはみ出た黒髪がさらに少し布団に吸い込まれていく。どうやらこの時間に起こせと言ったのは彼なのに起きる気が無いらしい。

「アーサー様、起こしてほしいと言ったのはあなたじゃないですか。私も仕事に行きたいので早く起きてください」

 そう言ってまるい猫のような体を揺さぶるもはんおうは渋いばかりで手応えがない。

 本当に寝起きの悪い旦那様だ。

 私はかかっていた掛け布団を一気に引き剥がす。体に絡まってる部分もあってやや手こずったけど、なんとか剥がして傍に置いた。

 布団を引き剥がされた体はなんとか陽の光から逃れようとまた体を丸めている。長い黒髪が広がって美しいけど今はそれどころではない。

「アーサー様! いい加減にしないと怒りますよ!」

 私が声を荒げても駄々を捏ねるように首を横に振るばかりで、正直子供のような頑固さだけしか伝わってこない。

 その様子を見て私は一つ深呼吸をすると、利き手をややふりあげた。そのまま勢いをつけて振り下ろす。そのさきは彼の臀部。

 打ちつけた場所は乾いた良い破裂音を立てた。痛みからか開くのを拒んでいたアーサー様の瞼も勢いよく開く。

「…っ!」

 声を出すのは耐えたみたいだけど、目はもう白黒として面白い。そのまま臀部を摩って上体を起こすと、だらりと重力に従って落ちた黒髪の隙間から真っ赤な目が私をにらみつけた。

「アリア…」

「起きましたね、おはようございます」

「『起きましたね』、じゃなくてさ! もっと起こし方なかったの!?」

「最初に声をかけた時に起きなかったので」

 私がしれっとした態度でいると彼は涙目で私に怒る。

「僕たち新婚だよね!? もっとなんか優しい起こし方があると思う!」

「それはどういったものですか?」

 私の興味のなさを絵に描いたような視線にアーサーさまはやや狼狽えるも、負けじと言い返してきた。

「こうさ、好き合った恋人みたいなさ! 甘い言葉とキスとかっ、毎日働いてる僕にない訳!?」

「働いてるのは私も同じなので無いですね」

「ひどくない!?」

 そもそも契約結婚にそんなものは求めないで欲しい訳で…と、つい考えてしまう。

 私、アリア・シェントはつい先月フェンネル家に嫁いだ。

 それもこれも適齢期を超えて仕事にかまけている娘に見かねた両親が“帰ってきてお見合いするか、結婚相手を連れてこい”と散々脅しをかけてきたからであって、この結婚に、少なくとも私の側からの愛はない。

 たまたま話を聴いていたアーサー・フェンネルことこの町の自警団長のお家が貴族じゃなかったら尚のこと私は生まれ育った村に帰ることになっただろう。

 それだけは感謝しているけど、だけども。

 それが恋人ごっこをする理由にはならないし、やっぱり最初から起きていれば痛い思いはしなかったと思う。

「あとその言葉遣い! 夫婦なんだから対等にしようって約束したじゃないか! 急に改まらないで!」

「寝たふりしてまで恋人ごっこしようとしてた人に言われたく無いですね」

「うっ…」

 一ヶ月も毎日起こしていれば寝たふりか本当に寝てるかなんて嫌でもわかる。寝たふりの時は絶対顔を隠すようにするのだ、この人は。

 確かに仕事柄不規則な生活サイクルになるだろうし、朝は弱いのもわかってるけど茶番に付き合えるほどの仲でも無い。

「寝言は寝ていってください。お義母様が朝ごはんを作ってくださってますよ」

「わかったよ…だからせめて言葉だけでも!」

「はいはい」

 ここ一週間ほどで、このちわげんかは朝彼を起こすときの恒例になりつつある。疲れるのでやめてほしい。

 鬼だの氷だのと駄々をこねながら子供のように罵ってくる旦那様を適当にあしらってダイニングに向かう。

 そこでは私とアーサー…を待つお義父様とお義母様の姿があった。

 言い方を一度戻してしまうと気兼ねない感覚で呼ぶのは気恥ずかしいと考えるけど、今はこっちが本来の当たり前。

「起こしてきました」

「いつもいつも悪いわねぇ」

「全くだよ。ありがとうアリアさん」

「いえ、このくらいなら」

 あの駄々さえなければ。

 そう思いつつ笑って返したつもりだけど目まで笑ってたとは言い難い。

 金糸の真っ直ぐで長い髪を今日も美しく整えるお義母様と、寝癖のついた黒髪で新聞を読んでいるお義父様。今日も仲の良いご夫婦だ。

「貴方も朝は弱いでしょう? 遺伝したのではなくて?」

「はは…無いって言い切れないなぁ」

 強気なお義母様の尻に敷かれたお義父様も見慣れた光景になりつつある。

「…遅いわねあの子」

 いつもならそろそろきてもおかしくない時間になってもアーサーが現れない。おかしいと思い席を立つと、その瞬間ダイニングのドアが開いた。

「「「…」」」

 ドアを開いたのはもちろんアーサーな訳だけど、いつも通り寝間着のまま乱れた黒髪とねぼけた目で現れるアーサーにやや殺意さえ湧いてくる。こっちは毎朝貴方より早く起きて身なりを整えてるというのに。

「アーサーさぁ———」

「アーサー! 貴方その格好でダイニングに来るなと何度! お嫁さんに毎日毎日なんて姿見せるの!」

 私が怒るより先にお義母様に怒られていた。

 情けない、情けなすぎる。

「父様だって僕が子供の頃はこんな感じだったじゃないですか」

「貴方それ何十年前——って違う! お父様はかっこいいから許されるのであって、貴方みたいな凡骨が許されるわけないじゃないのよ!」

「キャンディさんそこじゃないと思うよ…」

 聞き間違いでなければ“何十年前”って聴こえたような気がしたけど、私がもう二十四歳とかだしアーサーもにたような歳とおもえば二十年昔とかって言いたいのかな。

「父様も凡骨ですよ」

「そんなことないわ! 絶世の美男じゃない!」

「そう思ってるの母様だけですよ」

「まぁまぁ食べようよ…」

 個人的に見れば、アーサーとお義父様は方向性の違う美形って感じがする。

 朝の騒がしさもいつも通りと思うと、本当に仲の良い家族だなとも思う。実家のあたたかさが懐かしくなるくらいには。

「お義父さまもこう言ってますし、食べましょ?」

 二人で仲裁すると流石に喧嘩していた二人も大人しくなって食事が始まる。

 軽い朝食をさっくり済ませて出かける支度を済ませる。その頃にはアーサーもしゃんと服装を整えて玄関にくる。

「じゃ、行こうか」

「うん、今日もお願い」

 この屋敷は魔物の出やすい山の中にある。どうしてそんなところに屋敷が建っているかと言うと、フェンネル家は代々ハナウラと呼ばれる町の自警団長を勤めていて、この山を拠点として町を守ってくれているためだそう。

 私は成人してからこの町に来ているので見識は浅いけど、とにかく立地の問題で私は職場の行き帰りを危険に晒されてるので腕の立つアーサーがこうして送り迎えをしてくれてるという訳だ。

「「いってらっしゃい」」

「「いってきます」」

 お義父様とお義母様が見送ってくれるなか職場に向かう。

 こうして横を歩いていると思うけど、アーサーってちゃんとしてればかっこいいのになって思う。長く整った髪は後ろで軽く結んであって、前髪も長いけど両サイドに分かれてるからか重たい印象はない。赤い切長の目も透き通っていて、鼻筋は高く薄めの唇。

 肌は綺麗な白だし、黙ってれば本当悔しいくらいかっこいいのにどうしてあんなにだらしないのか…。

「あ、飛行機」

 アーサーの言葉に釣られて空を見ると、珍しく飛行機が飛んでいる。飛行機なんて空を飛ぶ魔物に襲われやすいから滅多に飛ばないのに。

「本当だ、何かあったのかな?」

「大きな街の方だし、浮かれた貴族の祭りじゃないか?」

「堕ちないといいけど」

 貴方も貴族…と言ったら意地悪だろうか。

「堕ちてから考えよう」

「それでいいの?」

「気にし過ぎも体に毒だ」

 そういうものなんだろうか、と思った。

 でも気にしすぎは良くないというのもわかる。

 なんてちまちまと話しながら歩けば職場にたどり着く。

 着いたのは図書館。

 小さな町の唯一の娯楽を提供する場所。

 私はそこで司書をやっている。

「ここまででいいよ、ありがと」

「あぁ、僕も見回りに行く」

「気をつけてね」

 互いに手を振って別れる。

 私も仕事の始まりだ。

 

 

 ********

 

 

「はいみんな、今日のお話の時間だよー」

 図書館は半分託児所と化している。大人はみんな農作業だなんだと忙しく、手伝いもできない小さな子供がお弁当を持ってこうして集まってく場所になっていた。

 そこで毎日午後に読み聞かせを行うのが私の仕事。それ以外は普通に司書として働いている。

 やや開けたスペースに椅子を置いて子供達を呼ぶと、みんな一斉に集まってくる。

 全員が静かになったのを確認するために子供達を見ると、見慣れた大人の足があった。

 そこから少し見上げると、鼻歌混じりのご機嫌さでアーサーが子供達の中に紛れて座っている。

 もうこれも見慣れた光景だ。

 結婚する前はアーサーも普通に一般の利用者だったというか、常連の利用者だった。

 私からしても“今日も来てるんだな”と言う印象しかなくて、他の司書さんの話によれば何かしらの偉い人だと聴いていた程度の人。

 両親からの見合い話で辟易していた時に話を聴いてくれて、そのまま「結婚する?」と言われて初めて素性を知ったくらいだ。

 私が他人に興味がないのかもしれないけど…そんな面識だったにも関わらず“結婚”をしてくれたことには今も感謝してるしいつ別れても仕方ないと思っている。

 しかし、なぜか結婚してからは子供に混ざって物語の朗読を聞くようになった。大人は参加できないとは言ってないし構わないんだけど、本人に恥はないのかしら。

 まぁいいか、と考えるのをやめて自分の仕事に専念することにした。心の中でため息はついたけど。

「では今日の物語は、『吸血鬼と花嫁』」

 

 

 ********

 

 

 読み聞かせが終わると交代で休憩に入る。

 昼食は近くにあるパン屋さんのもので済ませることが多い。

 それから午後の仕事を済ませて、十七時には図書館を閉館してさらに書庫の整理や他の図書館と交換で取り寄せる本をリストアップしたりと諸々仕事を済ませてから仕事場を離れる。

 大体の仕事が終わる頃には十九時になりかけることもしばしば。図書館の裏口から職場のみんなで外に出る頃にはもう真っ暗だ。

 そして、外に出ると必ずアーサーが私から見えるところにいる。その姿を見るたびになんとなく安心するようになった。

「おまたせ」

「大して待ってないから大丈夫」

 職場の人に別れを告げて屋敷まで歩き出す。

 夜ともなってしまうと道の違いがわからなくてアーサーが居ないとまだ帰れる自信がない。

 またぽつり、ぽつりと小さな話をして帰る。最初の頃はたくさん話した気がするけど、毎日一緒にいると流石に話題も尽きてくものだ。

 でもこの沈黙も嫌ではない。心地悪いと感じたこともない。

 これが信頼と言うのかもしれない。

 なんて考えながら歩けばすぐに屋敷に着く。

 暖かな光の溢れる屋敷を見るといつも安心する。隣に人が居ても、暗い夜道はどこか心細い。

「あ、おかえりなさい二人とも」

「はい、お義母さ———!?」

 声に反応して振り向くと、私たちの後ろに居たお義母様は…なぜか血まみれだった。

「母様、アリアを驚かせないでって言ったじゃないですか」

「そうだったかしら? 良い猪が狩れたから今日はこれを焼くか煮るか…どっちが良いと思う?」

 そう機嫌よく話すお義母様はやっぱり血まみれで猪を引きずっていて、アーサーはそれにため息をつきながらまず風呂に入るように言っていた。するとお義母様はつまらなそうに玄関から屋敷に入っていく。後には人の身の丈を越える猪だけが残されていた。

「これ…どうするの?」

「使用人が捌いて母様が調理するよ。たまにあることなんだけど…驚かせてごめん」

「確かにびっくりした…」

「こればっかりは慣れてくれとしか言えなくて申し訳ないよ…」

 アーサーは心底申し訳ないと言う顔で私を見ている。時として本当にあることなんだな…と私は心を整理した。

「驚いたろうし、一先ず体を流してくるといいよ」

 そう優しく私に言った後で「…僕もそうする」と猪を横目にアーサーがそう言ったのを私は聞き逃さなかった。

「ありがとう、わかった」

 帰宅して荷物を置いたらそのままシャワーを浴びさせてもらった。上がってからアーサーに交代して部屋で書類を軽く確認する。

「えっと…」

 別の図書館からの交換図書の依頼、“先月の電気代が高かったので節電しよう”という注意喚起…他にもいくつか。確認してから髪を乾かす。化粧水もしてリビングに顔を出すと、アーサーが髪も乾かさず水を飲んでいた。

「アーサー、髪乾かしなよ」

「そんなに言うならアリアがやってくれない?」

「私がやったらいいの?」

 売り言葉に買い言葉という感じで返すと、アーサーが目を見開いて私を見たまま動かなくなった。

「…な、なによ」

 沈黙に耐えきれず返す。

 髪乾かすくらいなんでもないと思うけど。

 何もいちゃつこうって話でもないし。

「いや…いいの?」

「むしろ髪乾かすくらいで何言ってるの?」

 そう言葉を返せば、なぜかアーサーは大喜びをした。何度もガッツポーズを決めて無言で噛み締めている。なにそれ。

「ほら、乾かすなら私の部屋行こうよ」

「えっ」

「なに?」

「部屋いくの、初めてだから…」

 何をそんなに緊張してるんだろう。

 たかだか髪を乾かしにいくだけなのに。

「そんなに緊張しないでよ。やましいことするみたいじゃん…」

「あー…うん、そうだよね、ごめん」

「ほら、わかったら行こう」

 私はアーサーの手を取って引きずっていく。彼は放心したような状態で私についてきた。

 部屋に着いて電気を点けて、アーサーをドレッサーの前に座らせてから髪を乾かし始める。その間もずっと放心してるものだから正直何事かと思った。今のアーサーはまるで好きな人の部屋に来たみたい。

 アーサーが私を好きだなんて、あるのかな。

 普段あんなにだらしなくて良い加減なのに、ちゃんとするとかっこいいから職場の人はみんな「素敵な旦那さんね」なんて。アーサーはそんなかっこいい人じゃないのに。

 きっとアーサーは私を子守か何かと思ってるんだと思う。そう思うとなんか気に食わなくて、ついつい冷たい態度を取ってしまう。

「ほら、終わったよ。せっかく綺麗な髪なんだからもっと大事にしなよ?」

「そんなに綺麗かな…」

「私はそう思うよ」

 率直な感想を述べると、アーサーは目を輝かせて振り向いた。男の人でも外見を褒められると嬉しいのかな。

「ちゃんとしてればかっこいいと思う。勿体無いよ」

「そ、そう、かな…?」

 何かわからないけどアーサーは終始そわそわした様子。このままおだてて普段のだらしなさも治れば良いんだけど。

「とにかく終わったからリビング戻ろうよ。ご飯できてるかもよ」

 この家には使用人が何人か居るけどお義母様が毎食料理を作っている。少し前に訊いてみたら「好きな人に自分のご飯を食べて欲しいの」と恍惚とした顔で言われた。なんとなくわかる気がする。

 未だ落ち着かない様子のアーサーを連れてダイニングに顔を出すと、ちょうど夕食の支度が行われていた。

「手伝います」

 すぐそのまま手伝いに入る。

 ふとアーサーの様子を見たお義母様がしばらく彼を見て私に話しかけた。

「…あの子どうしたのかしら?」

「なんかわからないんですけど…私の部屋で髪を乾かしてからあの様子なんです」

「まっ! そんなことがあったの!?」

 私の答えにお義母様はなぜか嬉しそうな顔をする。口元に手を添えてご機嫌だ。

「あのへた…じゃなかった、へんた…でもなかった、奥手なあの子がねぇ」

 と言いつつまたお義母様は一度アーサーを見る。そしてすぐ私に振り向いて問うた。

「どっちが誘ったの?」

「誘ったっていうか…髪も乾かさないでうろついてるから私が見かねただけですよ」

「きゃあ! アリアちゃんて大胆なのね!?」

「…?」

 大胆と言われてもわからないけど…どこか、アーサーの態度にもやついてる自分に繋がってる気がした。

「いつの間にそんな仲良くなったのかしら? 今日の猪はお祝いね」

「そう…なんですか?」

 アーサーとはこれと言って関係性が変わったりしてないと思うんだけどな…お祝いされることなんてあっただろうか。

 話しながらお皿を出して盛り付けて運んで、そんなこんなとご飯の支度が出来上がる。

 その時丁度お義父様もリビングに来たのでそのまま食事が始まった。

「あ、美味しいですねこれ」

 猪はトマト煮込みになっていた。癖が強そうと思っていたけど臭みもなければくどくなく美味しい。

「でしょう? ちゃんと調理すれば美味しいものなんていっぱいあるのよ」

 何気ない家族の団欒。その中で、アーサーが何気なく言葉を投げた。

「そういえばアリア」

「何?」

 水を一口飲み込んで答える。

「図書館で子供たちに読み聞かせてる話…訊いたことないものが多いけど誰が書いてるんだい?」

 あぁ、そのことかと思った。

 そういえばアーサーには言ってなかったけ。

 

「あれは私が全部書いてる話だよ」

 

 子供に教えを説くような話もあれば、ロマン溢れる恋愛ものや少し長い冒険活劇を書いたりもする。どれも短い時間で完結できるようにしてるので中身は薄いし、同じ話を使い回す日も少なくない。

「毎回絶対ってわけでもないし、そんなに大変なことじゃないよ」

 なんて、少し見栄を張ったかも。

 ネタが思いつかなければ苦痛だし、絶対滑るように描けるわけでもない。

 でも私の言葉に空気がしんと静まっている。何かおかしいことでも言ったかな…。

「ここ一ヶ月図書館でアリアの読み聞かせ聞いてるけど、半分以上アリアの話ってこと?」

「そうじゃないかな。でも普通に童話挟んだりもするよ?」

 何が言いたいのかわからないけど、教育に悪い内容でもあったかな。そうしたら中身を変えないと。

 そんなことを頭の隅に置きながら食事を進めると、お義母様が言った。

「すごいわアリアちゃん! 作家さんの才能があるのね」

「素敵な才能だね」

 義夫婦は喜んでくれた。

 確かにそうだっただ良いんだけど。

「どうでしょう…私のはちゃんと作品と言えるかどうか」

 へらりと笑って返すと、アーサーが言った。

「大丈夫だと思うよ。いつも面白いから誰が書いてるのかと思ったくらいだし」

「そ、そうかな…?」

 改めてそう言われるとなんだか照れる。

 あくまで子供達の楽しみであるようにと書き始めたものなので、まさか大人が聞いても面白いとは思っていなかった。

「どういったお話を書くの?」

 お義母様が何気なく訊いてくる。

「そうですね…色々書くんですが、今日のは『吸血鬼と花嫁』と言うお話でした」

「まぁ“吸血鬼”! 素敵ね」

 空になった皿にフォークを置いてから口元を軽くナプキンで拭いて、あらすじを話してみることにした。

「吸血鬼の花嫁になった女の子が、写真や鏡に映らない吸血鬼と何か思い出を残そうとするお話です。それは吸血鬼より早く死んでしまう自分のせいで吸血鬼が悲しまないようにするためで、最終的には互いで描いた似顔絵をプレゼントしあいます」

 ちゃんとした本にするなら、もっと情感とか入れるんだろうけど、あくまで薄い絵本程度の読み聞かせなので話の中身はあらすじと似たようなものしかない。それは毎度のこと。

 それでも子供達が次の話を毎度楽しみにしてくれているので、気がつけばいくつも話が出来上がっていた。

「女の子が健気で泣けるわね…っ」

「でも吸血鬼って案外鏡に映るよね?」

「え?」

 お義母様が涙ぐむ中、お義父様の何気ない一言に場の空気が若干凍る。まるで吸血鬼を知ってるみたいなその一言に私が耳を疑うと、アーサーが慌てた様子で私に声をかけた。

「ほ、ほら! アリアも知ってるだろ、父様が文献とか研究してるの! それで知ったんじゃないかな!?」

「でもキャンディさんこの間…」

「貴方は少し黙って!」

 私が驚いていると、頼んでもないのになぜかアーサーとお義母様がフォローをしてくる。

 お義父様がどうしてそう思うのかはわからないけど、アーサーの言う通りお義父様は古い文献や民俗学を研究する学者さんだからどこかでそういった記事を見たのかもしれない。

「でも吸血鬼が鏡に映るって気になります!」

「そうかい?」

「気にしなくて良いんだよアリア!?」

「一般的な言い伝えと違うなんて気にならない?」

「僕は気にならないな!」

 話に乗り気なお義父様に対して、乾いた笑いで誤魔化すアーサーの態度は、まるでこの話から私を遠ざけたいと言わんばかりだ。そんなに触れてほしくないのかどうしてだろう?

「そ、それより! お話本当に素敵だったわ。本にしたりはしないの?」

 お義母様の一言にふと固まる。

 本…?

「本、ですか?」

「そうよ。今日聴いたお話がこんなに素敵なんだもの。絵本にしたりもっと長くして児童書にしたり…そうやって広げていくのも素敵だと思うわ」

「そうでしょうか…」

 本なんて考えたこともなかった。

 あくまで私が物語を書くのは子供達の読み聞かせにバリエーションをつけるためで、自分が作家になるためじゃない。

 そんな私が本格的に物語を紡いでいくことはできるだろうか?

「もし伝手が無いなら私にアテがあるわ。チャレンジ、してみない?」

「…」

 少し考える。

 私は今の仕事が好きだ。だからこそ二足の草鞋で器用にやっていけるかなとか、新しいことに挑戦したい気持ちはあるのかなとか。

「僕はやってみても良いと思うな」

 なんて、私の思考に飛び込んできたのはアーサーの声。釣られて彼を見るとその顔は優しく微笑んでいた。

「アリアの紡ぐ物語を僕はもっと見たいと思ってる。結婚してから知った君のこと、もっと知りたいんだ」

「アーサー…」

 屈託のない微笑みに顔が赤くなるのを感じた。照れくさいし目が合わせられない。

「だからさ、アリアさえ良ければやってみないかい?」

「できるかな…」

「勿論。僕もできることはするからさ」

 アーサーの微笑みにはなにか魔法がかかってるように感じる。普段が普段なだけになんかこう…素敵に見えてしまうんだ。悔しいけど。

「わ、わかった…」

 顔から火を吹きそうだ。

 どうしてアーサーのことちゃんと好きでもないのにこんなことを思ってしまうんだろう?

「お熱いところ悪いけど、話は決まったかしら?」

「! は、はい」

 お義母様の言葉に意識が逸れる。

 その瞬間、アーサーが一気に不機嫌な顔をしたような気がした。

「じゃあ改めて訊くわ。まずは一冊、目指してみる?」

「…はい!」

 私の返事に、お義母様はにやりと笑った。

「良かった〜! なら今日は二つの良いことのお祝いね!」

 お義母様はそう言って席を立つと「ちょっと待ってね」と言ってキッチンに向かった。使用人の人たちがやってきて食器を下げると、交代でお義母様がお茶とコーヒーとお菓子を持って帰ってくる。

「本当は独り占めしようと思ってたけどお祝いだからみんなで食べましょ!」

 机に置かれたトレーには美味しそうなフルーツケーキが乗っていた。一緒に置かれているコーヒーはお義父様の分だと思うので、私たちは紅茶だと思う。

「町の人に頂いたの。大きな街でしか売ってないんですって」

「わぁ、私まで頂いて良いんですか?」

 ブランデー漬けのドライフルーツのたっぷり入ったパウンドケーキはとても美味しそうで、入ってるドライフルーツの量から考えても高い品であることがわかる。

 こんなものを頂いて良いのかな?

「良いのよ。今日はお祝いだもの」

「ありがとうございます!」

 これは気分が上がる。

 嬉しいなぁ、大事に食べよう。

 アーサーに淹れてもらった紅茶を渡して配られたデザートに向き直る。

 一口食べるだけでドライフルーツの甘さとブランデーの香りが広がってとっても美味しい。

 お義母様にお菓子の感想を伝えつつ、その後も雑談に花が咲いて時間は過ぎていく。

 

 

 ********

 

 

 作家を目指してみよう、と決めてから一週間が経った。

 一口にそうは言っても私には頼りになる人脈がない。なのでお義母様の言ってた通り彼女の人脈を頼ることにした。

 お義母様が翌日には電話をかけて“その人”に私を繋いでくれたので話はとんとんと進み…。

「気がつけば私は新しい原稿を書いている、と…」

 呟いて一つため息をついた。

 どうにも慣れない。そわそわする感覚だ、自分のために物語を書くと言うのは。

 お急ぎふくふくろう便で“その人”に送られた私の物語のいくつかはすぐ読んでもらえたのか、昨日お義母様の下に電話がかかってきた。

 “その人”は出版社で編集をやっているクロエさんと言う人で、優しげな印象の声とは裏腹に本に対して情熱を持った人という印象。。

 クロエさんは私の描く物語を素晴らしいと誉めてくれた。その上で、児童書と絵本の二つの賞に応募してみないかとも。私は最高の機会を逃せる訳もなく「やります」と半ば勢いで返事をしてしまい…ネタが思いつかず職場の休憩時間にため息をつく今がある。

 趣味で書いていたような今までとは違う物語を描けなければいけない気がしてしまって、悩む。

 実際本を読むのは大好きだし物語もたくさん読むけど、私が書くような…こう、薄い絵本のような話ではなくて、実際に売られているものはいろんな要素を詰め込んで一冊の本として“成り立たせて”いる。

「私にそれができるのかなぁ…」

 思わず机に突っ伏してしまう。

 それこそ挑戦的というか、やることに意味がある訳だけど…できるかどうかが気になって気になってネタを練ることもできない。

 幸いどちらも賞の締め切りまではまだ時間があるので、まずは絵本の原作部門から話を考えている。

 個人的には最近描いたいくつかから選びたいと思うんだけど、どれもピンとくるようで何か足りない気がしてしまって決めあぐねている。

 児童書の部門に関しては一から考えようとしているのでそれこそ“からっきし”と言った様子で、今は考えないようにしている。

 ただ悩んでも答えは出ないので今は直感が大事なのかもしれない。

「直感かぁ…」

 そういえば明日休みだったな。

 

 

 ********

 

 

「アリアが僕と出かけたいって言うのかい!?」

 リビングでソファに座るアーサーはまるで天変地異でもみたような顔で側に立った私に返す。そんなにおかしなこと言ってないと思うんだけどな。

「休みの日は本を読むか家事で僕に構ってくれないアリアが!?」

「そこまでじゃないと思うけど…」

 そんなに突き放していただろうか。

 確かに契約結婚に近いこの関係で休みにデートなんて理由もないので誘ったことはないけど。

「…どう言う風の吹きまわし?」

 驚いたかと思ったら今度は訝しんで私を見る。そんな風呂に入れる前の猫みたいに怯えなくても良いじゃない。

「賞のこと考えてたら煮詰まっちゃって…明日は休みだし山でのんびりしようかなって」

「それだけなら母様でも良いじゃないか。女同士で仲良くしてきなよ」

 なんて返してくるアーサーはとても不機嫌そうだ。自分で言った言葉に自分で不機嫌になるなんて器用な人だな。

「私たちこれでも夫婦でしょ、誘ったらいけないの?」

「…っ」

 私の言葉にアーサーはなぜか顔を赤くする。怒らせてしまったかな?

「行きたくないならお義母様を———」

「行きたくないとは言ってない!」

 不快な気持ちにさせたなら嫌だと思って諦めようとしたのに食い気味に否定されてやや驚く。アーサーは顔を真っ赤にしたままそっぽを向いてしまった。耳まで赤い。

「…行きたいけど、誰でもいいみたいな誘われ方は嫌だ」

「…」

 珍しい、と思った。

 いつもはもっと冗談まじりに言葉を返すくせに。まるで好きな人といるときみたいな…。

「…!」

 そこまで考えて、私もなぜか顔が赤くなってしまった。アーサーが私を好きなんて、そんなはずは…それを考えるにはお互いを知らなすぎるし。

「どうなの、誰でもいいのかい?」

 こちらを向いたアーサーはまだ少し顔が赤くて、私もまだ顔が赤くて。

「あ、いや、誰でもって訳じゃなくて」

 言葉が詰まる。

 どうしてこんな、今更…。

「アーサーと出かけたかったのは、本当だから…」

 視線が合わせられない。心臓が高鳴って、まるで私じゃないみたい。

 視界の端で、アーサーが満足そうに微笑んだのが見えた。私はまた胸が鳴って、恥ずかしいような気持ちになった。

「わぁっ!」

 視線を合わせられないままでいると、急に腕を引かれてソファに乗せられる。

 勝手に嬉しそうなアーサーと目があって、恥ずかしくなってまたすぐ視線を逸らした。

「アリア」

 彼が私を呼ぶ。まるでその声は蕩けるようで。

「アリア、こっち向いて」

 視界の端で彼が嬉しそうに笑っている。目を合わせられない。

 私はアーサーを知らないし、アーサーだって私のこと知ってる訳じゃないのに。どうして、どうしてこんなに恥ずかしいって思うんだろう。

「大丈夫、何もしないから」

 少し息を整えてから視線を彼に向ける。

 すると彼は私の頬に手を滑らせてまた微笑んだ。

「…っ」

「僕がいいって言ってくれたの、嬉しい。明日楽しみにしてるよ」

 そう言って、彼は。

 私の頬に、軽くキスをして。

「…っ!!!」

 満足そうに去っていった。

「〜〜〜〜〜〜〜〜っ!!」

 なに、それ。

 なにそれなにそれ!!

 そんなことしたことないくせに!

 急にそんな、そんなことされたら…。

「どうしていいかわかんないじゃない…」

 今日この後夕食の時だって顔を合わせるのに、明日だって一緒に出かけるのに。

 こんな真っ赤な顔じゃ何もできない。

 それなのにどうして、あんな普段だらしないアーサーになんて、どうして。

 

 …知らないうちに好きだったかも、なんて。

 

 

 

 ********

 

 

 翌朝。

 顔を合わせづらい私に対して、その日の食卓では衝撃が走る出来事が起こっていた。

「「…」」

 どうしようどうしようと緊張する私をよそに義夫婦が唖然としてダイニングに入ってきた息子を見ている。

 私の隣に座った彼はいつもの寝間着に乱れた髪ではなく、整った服装にいつもより綺麗に手入れをされた髪で食卓に現れた。

「!」

 私はそのギャップみたいなものにも胸が鳴って少しだけ緊張する。

「…お、おはよ」

「うん、おはようアリア」

 ぶっきらほうに挨拶をする私に微笑んで彼は答える。

 そういえば昨日は起こしてって言われなかったのに普通に朝起きてきたし、服装は整ってるし、もしかしてやればできるんじゃないの?

「どうしたのよ貴方…」

「アーサーが朝起きてくるなんて…」

 個人的には義夫婦の驚き方の方が驚きだけども…そんなにだらしなかったのか、この人。

 そう考えると、少し落ち着きが戻ってくる。戻ってくるっていうか、呆れて冷静になる。

 …好きだったかもとか幻覚だったかもしれない。

「そういう日もあるよ。悪い?」

 不機嫌そうに返すアーサーに義夫婦は開いた口が塞がらぬ様子だ。

「悪いっていうか…」

「初めてじゃないか…」

 お義母様がやや泣きそうなのが心に痛い。

 それにしてもどういう風の吹き回しだろう、ちゃんと起きてくるなんて。

「アリア」

「?」

 かけられた声に横を見ると、ご機嫌に笑うアーサーがそこにはいた。

「早く食べて出かけよう? お昼はどうする?」

「お、お昼は一応用意したけど…」

「本当かい!? 楽しみにしてるよ!」

 本当にどうしたんだろう。

 まるで今日を一年も前から楽しみにしてたようなこの喜び様は。

 正直お昼も大したもの用意してないし、がっかりさせないと良いけど…なんて、浮かれた様子を隠さず朝食を食べ進める彼に対して思ってしまう。

 でも、楽しみにしてもらえるのは悪くない。

 少しだけ嬉しくなって、私も朝食に手をつけた。

 食べ終わって食後の紅茶で胃を休めたら出発する。

 玄関まで見送ってくれた義夫婦に挨拶をして屋敷を出た。

 外はまさにピクニック日和、晴れ渡る空が気持ちいい。

「それがお昼?」

「うん」

 アーサーは私が持っているバスケットを指さして言う。トランク式のバスケットには今日のお昼と簡単な食器が入っている。

「荷物もあるのに重いんじゃないか? 僕が持つよ」

「いいよ、悪いし」

「こっちこそ、僕は何も持ってきてないんだから任せてほしいな」

 そこまで言うなら、とバスケットを渡す。私の鞄も持つと言われたけど流石にそこまでは申し訳なくて断った。

 木々の中をふらついて開けた場所に出る。小川の流れが見えるそこは、少し涼しく感じた。

 アーサーが安全だと言うのでそこで休憩することに。

「んーっ、歩くのは気持ちいいね」

「アリアは運動が好きなのかい?」

「そうでもないよ」

 小川のそばにシートを敷いてその上で休む、伸びをした時に吸い込む空気が美味しい。

「どっちかって言えば、たまにするから良い…って感じかな」

 乾いた笑いで視線を逸らす。

 運動はどちらかといえば苦手だ。

「良かった、僕も苦手だから」

 そう言ってアーサーはまた微笑む。

 こんなに笑う人だったっけ?

 私はまた恥ずかしくなって大きな声を出した。

「ほ、ほら! そろそろ行こう。今日は山頂でお昼だよ!」

 立ち上がってワンピースの端を叩く。慌てて鞄を持って彼をシートから追い出した。

 そそくさとシートを片付けて歩き始める。早足で歩く私の横にアーサーがつくと、彼は楽しそうににやりと笑った。私はそれに訝しい視線を向ける。

「な、なによ…」

「いーや? アリアが僕を意識してくれるのが嬉しくて」

「なっ…意識なんてしてない!」

「本当かい?」

 意識なんてしてないったらしてない。

 私がどうこうじゃなくて、アーサーがいけないんだから。

 早足気味に山を登っていると流石に疲れてくる。だんだんと歩調は下がっていって、頂上に着く頃には息が切れていた。

「はぁ、はぁ…着いた…」

 山の麓から街までも中々遠い気がしていたけど、慣れない山道を進むのは勝手が違う。もう膝は震えているし疲れ果てている。お昼を食べたら少し寝てから帰りたいくらいだ。

 時間が許すならそうしようかな。

「お疲れ様」

 そう言って私の前を歩くアーサーは息一つ切れていない。汗もかいてない。

 私ばっかり息を切らせて恥ずかしいくらいだ。

「う、裏切り者…っ」

 彼の服の裾を掴んで屈んだまま恨みの視線を向ける。アーサーは驚いて一瞬体を跳ねさせた。

「運動苦手って言ったじゃない…!」

「苦手なだけでスタミナが無いとは言ってないし、この山は毎日見回りしてるから慣れてるんだよ…」

「やっぱり裏切り者ぉ…っ」

 我ながら理不尽とわかっていても恨まないではいられない。私に体力がないだけなのは、わかってる。

「はぁ…まぁいいや。お昼にしよう」

「シート敷くよ」

 広場のようになっている頂上でまたシートを敷いてくつろぐ。ここでとうとうバスケットを開けた。

「はい。何が好きか分からなかったから、あるもの詰めてきちゃったけど…」

 今日のお昼は自分で作るサンドウィッチ。

 バスケットにはクロワッサンがいくつかと挟める具材が数種類入っていて、自分で好きなものを挟んで食べられるようにした。

 今まで親交がない中での急な結婚だったものだから、私はアーサーが何が好きで何が嫌いかも知らない。だからできるだけ無難な具材を詰めてきたつもりだけど…。

「あ、このハムは町の?」

「うん、私が好きで入れてみたの」

「僕も好きなんだ」

「本当!? 美味しいよね」

 思わぬ共通点が嬉しい。

 町の肉屋さんで買えるこの少し高いハムは給料日のお楽しみだった。フェンネル家では常用しているのか冷蔵庫を開くといつも入っているので実は嬉しかったりする。

「さて、クロワッサン開くから好きに挟んで」

 一緒に持ってきたナイフでクロワッサンを開いてく。クロワッサンのサンドウィッチ、あんまり見かけないけど好きなんだよね。

「僕こういうの初めてだ」

「そうなの?」

「わからないからお手本見せてほしいな」

 ただ挟むだけだしお手本も何もないと思うけど。まぁいいか、と一先ず適当に挟んでみる。

 ハムと、チーズと、レタスでシンプルに。挟んだものを渡して自分の分も作る。

 私のはポテトサラダ入れちゃお。

「アリアの作ったサンドウィッチ…」

 自分の分を作り終わって横を見るとなぜかアーサーが感動していた。

「どうしたのそんなに感動して…」

「だってアリアの料理だよ…っ」

 アーサーは目に涙を溜めてまで感動している。彼は私をなんだと思ってるのか。

「まさか、アーサーは私が料理できないって思ってる…?」

「違うの?」

 そこで一回引っ叩いた。

「一人暮らしだったんだから料理くらいできるわよっ!」

 フェンネルの家に来てからはお義母様がずっとお料理を作ってくださるから言いづらかっただけで!

 煮込みだって作れる!

「そうだったんだ…」

 そんなことでショックを受けないでほしい。

 もう一回叩いた方が良いだろうか。

「じゃあ今度食べさせて」

「何食べたいかによる」

「アリアが得意なやつがいい」

 そう言ってアーサーはまた屈託なく笑う。

 悪くないような、気恥ずかしいような、そんな気持ちが心を占めた。

「…考えとく」

 まだ“作る”って決まったわけじゃないのに、アーサーはまた勝手に喜んでいた。

 昼を食べ終わって、山頂からの景色を眺めながら作品について考える。

 今日の経験を何か活かせないかな。

「…アリアは何に悩んでるんだい?」

 控えめにアーサーが尋ねてくる。

 私は少し考えを整理してから口を開いた。

「えっと…絵本の題材にする作品をここまでに書いたものから選びたいのと、児童書の題材」

「絵本の方の候補は?」

「最近書いた人魚の話か吸血鬼の話で悩んでる」

 人魚のお話は、泡になった人魚が鯨に生まれ変わって人生の大事なものについて考える話。個人的にはこの話と最新の吸血鬼の話が気に入っている。

 アーサーは私の言葉から少し考える間をとった。それから問うてくる。

「その二つはどうして気に入ってるの?」

「そうだな、教訓とかじゃなくて好きで書いた話だからかな」

 他にもそう言う話はあるけど、個人的によくできたと思うのはこの二つ。

 確かにこの二つは子供たちの食いつきも良くて、案外好きで書いた話の方がみんなも好きなのかもしれないなんて思った。

「より好きなのは?」

「うーん、悩むけど…吸血鬼の話が好きかな」

 先立ってしまう悲しみをなんとか埋めてあげられないかと苦悩する主人公に感情移入できて好きだった。人間の夫婦だってどちらかが先に死ぬかわからないと思うと尚更。

「良かった、僕もその話が好きなんだ」

「そうなの?」

「うん。吸血鬼が最後まで思い出を大事にできるといいと思ったから」

 その言葉に、何か道が開けたような気がした。アーサーが私の背中を押してくれたように、感じたから。

 気持ちが軽くなった。

 そう思ったら、児童書の方もなんとなく構想が浮かんでくる。

 あぁしたい、こうしたい。

 そっか、これが物語の楽しさなんだ。

「ありがとう」

 気がつけば彼にお礼を言っていた。

 アーサーが私の作品を好きだと言ってくれるなら、なんでもできる気がしたから。

「…!」

 彼はなぜか固まって言葉を返さなかった。驚いたような表情に疑問を示すと、彼は慌てて顔を背ける。

「お、お礼を言われるようなことはしてないよ」

 太陽が落ちてきて夕陽が見える山頂では、顔を背けられてしまうとアーサーの表情はよく見えなくて。それでも声音は照れているようで、私は少し笑ってしまった。

「な、何かおかしな事言ったかいっ?」

「ふふ、そうじゃないの。嬉しくて」

 アーサーはいつも私のことを考えてくれている。それが嬉しくて、私は何も返せなくて。申し訳ないなって思うのに、この時間が続けばいいと思ってしまう。

「…帰ろう。賞のお話、決まったから」

 胸がすっきりとしている。

 今日ここにきて良かった。

「…うん」

 アーサーはまた小さく微笑んで私の手を取った。ここまでなんともなかったのに、初めて心が、少し通じたような気がした。

 

 

 ********

 

 

「うーん…」

 休憩時間に書きたいシーンの構成を考えて。仕事に帰ってから執筆する生活をもう二週間続けている。

 絵本の方は元になってる話がある分形にするのは早かったけど、児童書の方は悩むところが多い。

 絵本は吸血鬼の花嫁の話を、児童書は誤って山で迷ってしまった少年二人の冒険劇を書くことにした。

 題材はもちろん住んでいる山。少年二人のモチーフは私とアーサーだ。この間の登山の経験を生かそうとこういう話になった。

 キャラクターの細かい話し方や動き、全体の展開のテンポの良さなど考えることは多い。

 でも、これだけ悩んでもそれが楽しいと思うので後悔はしていない。今回の賞に受かっても受からなくても、とにかく自分の力を試したい。

「この展開だとちょっと危ないかなぁ…」

 今悩んでるのは主人公たちが元いた村に帰るためにまずは高いところに行こうと進む部分。崖登りをするのは創作だから許されるか、それとも危険と考えるか…見栄えは登った方が良いけど、真似する子供がいたらよくない。

「一回登るので書いてみるか…」

 書いてみてやっぱちょっと…と思ったらやめよう。

 悩んでは書いてみて見直して、その繰り返し。少しずつ物語を増やしていく。

 世界が日々広がっていくみたいで楽しい。

「あ、もうこんな時間」

 もう休憩も終わりだ。

 仕事に戻ると、一人の子供に声をかけられる。

「アリアおねえさん」

 その子は普段は大人しい子で、二つ結びが可愛い女の子。でも滅多に話しているのは聞いたことがない。

「どうしたの?」

 しゃがんで女の子と視線を合わせる。

 その子は恥ずかしそうにしながらも言葉を紡いでくれた。

「…あのね、おねがいがあるの」

「なにかな?」

「こんど、よんでほしいおはなしがあるの。ほんがみつからなくて…」

 本が見つからない、と言うことは私が書いた話だろうか。基本的に私の書いた話は図書館にはない。もしかしたら他の図書館でみたお話かもしれないけど。

「ようせいさんがまほうつかいとぼうけんするおはなしがききたいの…せんせいがまえにおはなししてくれたやつ…」

 その話は確かに私が書いた話だ。

 他の図書館にある話だと取り寄せの可能性もあるから助かった。

「いいよ。明日はそのお話にしようか」

「ありがとう」

 そう言って女の子は嬉しそうに笑った。私も釣られて笑顔になる。

「あのおはなしはどうしてほんがないの?」

「あのお話は私が書いてるからよ」

「ほんにできないの?」

「…できるか今度聞いてみるね」

 私が本当に賞に受かれば、その可能性だって出てくる。そしたらこの子のためにもこの話は入れようと思った。

 仕事が終わって今日もアーサーと帰る。

 最近は賞に作品を出すと職場の人に言ったせいか早めに帰らせてもらえることが増えた。

「執筆は順調?」

 横を歩くアーサーが訊いてくる。

 私は少し困った笑いに乗せて答えた。

「手探りで…って感じかな。あまり長いお話は書いたことがないから、シーンを増やすのが難しくて」

「僕が何か手伝えれば良いんだけど」

 アーサーの声も少し困っているように聞こえた。でもこればかりは仕方ない。執筆は自分の想像力との勝負だから。

「いつも声かけてくれるでしょ? 助かってるよ」

 私は思ったより何かを始めると熱中してしまうみたいで、夕食やお風呂を忘れたことが…そのせいか最近ではアーサーが何かと声をかけてくれている。

「アリアは書き始めると止まらないからね」

「本当、正直自分でも驚いてる」

 なんて言いながら笑い合う。

 アーサーはピクニックの日以来まただらしなさが戻ってしまったけど、なんだかんだと居心地がいい。お互いの波長が合うのか、彼が私に合わせてくれてるのか、それは分からないけど安らかで嬉しい時間。

 帰ったら先にお風呂を済ませてまた執筆に入る。休憩時間に悩んでたシーンを一先ず書いてみて、それ以前の原稿と擦り合わせながら書き進めていく。できたらそこまでを読み返して、誤字や脱字や表現を修正しながら確認していく。

「んー…」

 やっぱ崖を登るシーンはあった方がかっこいいな。落ちかけた友達の手を繋いで助けるシーンは熱い。このまま入れていこう。

 そこまで考えてノックの音が聞こえたのでドアの方に意識を向ける。少しだけ遠くでアーサーの声がした。

「アリア、晩ごはんだよ」

「今行く!」

 今日は聴こえて良かった。たまに呼ばれてるのに気付かなくてアーサーが荒れた部屋の中まで入ってきてしまうことがある。

 正直今は原稿や修正といった紙が散乱しているのであまり入ってきて欲しくはない。

「大丈夫? 随分追い込んでるみたいだし少し仕事休んだら?」

 アーサーがここ数日よく私の心配をしてくれる。自分で気づかないだけで疲れてるのかな。

「そんなに酷い顔してる?」

「楽しそうだけど…疲れてる感じはするから心配かな」

「…そっか」

 心配されるくらいの事なら休めるか訊いてみようかな。もし倒れたら意味がない。

 夕食を済ませて今日は早めに休むことにした。休んでいるはずなのにあれやこれやと想像が膨らんで休んでる気がしないけど、早く形にしたくてうずうずする。

 それでも今日は寝なくちゃ。

 思いついた案を軽くメモ書きしてその日はむしろ頑張って寝た。

 

 

 ********

 

 

「…で、できた!」

 カーテンから朝日が差し込んで、鳥の鳴き声が聴こえる。

 でも机のランプはまだ光ってて、激しい矛盾がある部屋でやっと原稿は完成した。

 職場で二週間休みがもらえなかったら間に合わなかったかもしれない…と考えるほど思ったよりスケジュールは押していた。

 手書きの原稿だから一回清書しないといけないし大変だった。こんどタイプライター買おうかな。

 一先ず明日までは休みだ、完徹してしまったし今は寝たい。

 ふらつく足でベッドに向かう。

 そのままベッドに倒れ込んで死体のように寝た。

 しばらくして起きると外はもう真っ暗で何時間寝たのか考えたくない。

 一先ず原稿をまとめ直して部屋を出る。

 本当はぼろぼろで部屋から出たくないけどお風呂に入るためだ仕方ない。

 人目を気にしつつシャワーを浴びて部屋に戻る。まだ少し濡れた髪をタオルで拭きながら部屋に向かっていると、アーサーに出会った。

「あ、アリア。原稿はどう———」

「聞いてアーサー!」

 彼の声かけに食い気味で返してしまった。でも今は嬉しくて仕方ないので自分で自分を見逃すことにする。

「原稿できたよ!」

 嬉しさのあまり自分でも笑ってるのがわかる。今日は運がいいな。

「本当かい!?」

「うん!」

 二人して廊下ではしゃいでしまう。

「ぜひ貴方に読んでみて欲しいの!」

 これを伝えたくて実はアーサーに会えたらと考えていた。何より一番に伝えたかったのがあるけど。

「いいのかい?」

「勿論、貴方に読んで欲しいの」

 私の作品を好きだと言ってくれた貴方に読んでほしい。それくらい嬉しいことだから。

「それは光栄だな。原稿は部屋?」

「うん。持っていくからリビングで待ってて」

「わかった。その前に髪乾かしておいで」

「アーサーにそう言われると複雑…」

 普段は彼の方がだらしないのに、なぜ私がそんなことを言われるんだろう。

「それは言い返せないな…」

「まぁいいや、とにかく待っててね!」

 私は走って部屋に向かった。

 アーサーが何か言っていたようだけどよく聴こえていない。

 部屋に着いたら急いで髪を乾かして原稿をリビングに持っていく。

 お茶を用意していたアーサーに渡して読んでくれる時間は緊張しながら待った。

「…」

 胸が、締め付けられるように高鳴ってる。こんなに緊張するのは初めてかもしれない。

 アーサーが作品を読み切るまでに二時間はかかった。それだけじっくり読んでくれたし、何度かページを戻って確認したりしながら読み進めてくれたのが見えて嬉しかった。

 最後の一枚を捲って、読み終えたのか彼は一つため息をつく。

「ふぅ…」

 ソファの背もたれに体重を預ける彼に対して、私は恐る恐る口を開いた。

「ど、どう…かな?」

 彼の返事に緊張する。

 緊張しすぎて、彼の唇が開く瞬間がやたらゆっくりに見えた。その様子に息を呑む。

「面白かった!」

「!」

 開口一番嬉しい言葉!

 それだけでも安堵する。

「子供二人だけで山を抜けるのは大変だったと思うのに、主人公が最初友達を励ましてて、後半になると今度は友達が主人公を励ましてて…支え合ってる感じが伝わってきたし、山を登って山頂から朝日と村を眺めるシーンは最高だった。崖を登るシーンはハラハラしたし、最後は無事二人とも戻れて本当に安心した」

「本当!?」

 どれもこれも私が伝えたかったシーンだ。

 子供達が支え合って困難に立ち向かい一つ一つ乗り越えていくところ、山頂から見える景色は唯一無二で、崖のシーンはドキドキハラハラして読んで欲しかったし、何度も野宿しながら二人で村へ帰れたのは物語だからかもしれない。それでも、最後は絶対ハッピーエンドにしたかった。

 どれもが良かったと思ってくれる人が何人いるかはわからないけど、どれか一つでも誰かが良いと思ってくれたらいい。

「すごい、見せ場全部わかってる」

「たまたまだよ」

 そうやってまた私たちは笑い合う。

 そうしてるとお義母様が通りかかった。

「あらどうしたの二人とも、仲良しね」

 なんてお義母様が言うから、なんとなくそれにも嬉しくなった。

「アリアの作品が完成したんだ」

「お義母様も良かったら読んでもらえませんか?」

 私たちの言葉にお義母様も表情を弾ませてくれたのが見えた。私はまた嬉しくなって笑ってしまう。

「ぜひ読ませて欲しいわ! アーサー、原稿貸して」

 お義母様がソファに腰掛けて原稿を読み始める。アーサーと同じようにじっくり読んでくれたのが伝わってきたけど、その速度は速い。

 お義母様は一時間ほどで読み終えたけど、後半はなぜか涙ぐんでいた。

 最後の一ページを読み切る頃には、ちり紙で涙を拭いている。

「面白かった〜〜! 子供達だけで山なんて危なくてハラハラしたけど、主人公もその友達も心が育ってちゃんと強くなってて感動したわ〜〜!!」

 漫画みたいに滂沱するお義母様にやや驚きながらも、その感想はありがたく頂くことにした。

「ありがとうございます」

「これを賞に贈るの?」

「そのつもりです。明日発送しようと思ってます」

「そっか…」

 お義母様は読み切った原稿に手を置いて優しく微笑む。その慈愛に満ちた微笑みに見惚れていると、アーサーが私の手を取った。

「?」

 意図しないふれあいだったのでやや疑問に思う。すると彼もまたふわりと笑って。

「お疲れ様、アリア」

 そう言ってくれた。

 私はその嬉しさを笑顔で表す。

「ありがと!」

 なんだか晴れやかな気持ちだ。先に出来上がった絵本の賞に送る原稿と一緒に明日編集部に発送したら一区切りがつく。

「明日の発送にはアーサーも着いていくのよね?」

「それくらいなら一人で行こうと思ったんですけど…」

 出勤の時と違ってすぐ帰ってくるし一人でいいかなと思っていたんだけど。

「だめよ! 最近魔物の出現が増えてるもの。アーサーを連れて行って」

「わ、わかりました…」

 仕事の行き帰りや普段アーサーと出かける時には害のない魔物しか見ていないので、そう言われてもいまいちピンとこない。

「何があっても絶対よ! 人生が輝いてるときに死んじゃうなんて勿体無いわ!」

「わ、わかりました…」

 

 

 ********

 

 

 昨日は念に念をおされてアーサーを護衛につけるって言ってしまったけど、流石にちょっと行って帰ってくるだけなら大丈夫な気もして…。

 一応アーサーの部屋にノックはしてみたけど昨日遅くに見回りだったせいか反応がなかった。義夫婦は彼が起きてから発送に向かうようにって言ってたけど、今日起こすのは忍びない。

 そっと裏口から屋敷を出る。

 使用人にもみられないようにそーっと、そーっと…。

 まだ午前中だし、きっと大丈夫だよね。

 確かに油断かもしれないけど、アーサーは起きれないだろうし、お義母様は実家に出かけるって言ってたし、お義父様は学会だしでみんな私に時間を割く余裕がない。それならちょっと町に行って帰ってくるくらい私でもできるということを示さなくては。

 原稿の入った封筒を抱えて歩き出す。

 歩き慣れた道を進んでいると、自分の足音でない音が聞こえた。

「?」

 立ち止まって振り返るけど誰もいない。

 警戒しないわけではないのでやっぱり怖くないって言ったら嘘になるけど、今の所襲ってくるような魔物にも出会っていないのでそのまま進み続ける。

 体感で十五分ほど歩いた。街までは後半分というところ。

「!」

 目の前を何かが飛び出してきて思わず身構える。

 薮から音を立てて出てきたのは…。

「スライム…?」

 下級魔物のスライム。

 人畜無害で死体や腐ったものを溶かして食べる性質がある。目に見える部分は模様という単細胞の生き物。

 病原菌を持ってる場合があるから直には触れないけど、柔らかく跳ねてる様は愛らしい。

「わ〜、かわいい」

 そういえば、スライムにすら出会うのは珍しい。

 この山には魔物を絶えず生み出す泉があるらしくて、それを潰すのも生態系に問題が出てしまうので代々自警団長のフェンネル家がこの山に住まいを置いて見守ってるそう。

 その効果なのかはわからないけど、本当に魔物に出会わない。驚くくらいに。

 おかげで最初はあった警戒心が和らいできてるのは事実だ。

 しゃがんでスライムを観察していると背後から重たい足音が聞こえて警戒する。

 振り向いた先に居たのは…。

「…!」

 熊。

 そう熊だ。

 私の身の丈の二倍はあろうかという熊がそこにいた。

 魔物が出るような場所で自然の生き物が出ることは少ない。どこかから流れてきたのかもしれない。

 後ろでスライムが跳ねる音がする。多分逃げてるんだと思う。

 私も逃げないといけないとわかってはいるけど、野生の生き物は魔物であれなんであれ背中を向けて逃げ出してはいけないことは子供でも習うことだ。背中を向けたらその瞬間殺されかねない。

 熊は微動だにせず私を見下ろしている。それでも手先の爪は鋭く、口元はエサを求めている。この季節にしては細い身体がそれを物語っていた。

「…っ」

 一歩後ずさる。このまま離れられればいいけど。

 熊は何か呻いている。

 嫌な予感がした。

「!」

 その時、熊が軽く手を振り上げて。

 

「はいそこまで」

 

 何かに吹き飛ばされていった。

「!?」

 派手な音を立てて吹き飛ぶ熊の方から人影が現れる。

 私が警戒していると、そこからはなぜか彼が現れた。

「あ…アーサー…?」

 熊を何かで吹き飛ばした挙句、アーサーは涼しい顔で私の方に寄ってくる。

「僕も連れてって母様も言ってたじゃないか」

 そう話す彼は私の手を取ってどこか悲しげで。そのまま原稿の入った袋を私からとりあげた。

「ちょっと! 返してよ!」

 背の高い彼が腕を上げてしまったら私には届かない。それでも奪われた袋を取り返したくて足先で立って腕を伸ばす。

「だーめ。これは僕が持っていく」

「なんでよ!」

「アリアがいけないじゃないか、護衛も無しに山に出るなんて」

「…っ」

 確かにそれは私が悪い。

 諦めて足を戻すと、アーサーの後ろに大きな影が見えた。

「危ない!」

 彼を庇おうと腕を伸ばした瞬間。

 アーサーの後ろ回し蹴りの踵が熊の顎に綺麗に当たった。

 熊は再び倒れてそのまま沈黙する。

 私は驚いて呆然とした。

 ただわかったのは、アーサーが確実に人間じゃないと思ったことだけ。

「あーあ、見られちゃった」

 そう笑うアーサーは悪どい笑みを浮かべて熊を見ている。

 少しだけ、怖くなった。

「貴方…何者?」

 一歩後ずさると、彼はまた私に向かって悲しげに笑った。

「帰ったら話すよ。今はこれを郵便屋さんに持って行こう」

 なんだかその顔が、私と別れると言ってるみたいで。

 私もどこか悲しくなったけど、ひとまず頷いて町に向かった。

 無事に郵便局で原稿を発送した後、屋敷に戻って来た。するとアーサーはずっと落ち込んだ顔をしていて、なぜか同じく帰って来ていたお義母様を呼んだ。

「…アリアにバレた」

 お義母様に向かってそう言ったアーサーはずっとソファにうずくまって泣いていて、お義母様はそれを呆れた顔で見ていた。

「えっと…どういうことなんですか?」

 私が控えめに問うと、お義母様が口を開く。

「この情けない息子と私が吸血鬼ってバレたと思ってるのよ、この子は」

「吸血鬼!?」

 なんか思ってたのと違う。

 もっとこう、吸血鬼って昼夜逆転してて血が好きで闇の人って感じだと思ってたのに…。

「吸血鬼って結構間違った…というか悪戯行為が広がってるのよ。鏡には映るし銀の杭じゃなくても死ぬわ」

「そう、なんですか…」

 確かにアーサーは鏡に映るしにんにくも苦手だけど食べる。傷の治りも人並みだけど…まさか吸血鬼ってこういう感じが当たり前なの?

「ダーリンは人間だけどね」

 そう話すお義母様は両手を頬に添えて悦に浸っている。

「じゃあアーサーは半分人間なんですか?」

「吸血鬼の親からはたとえ他種の血が混ざっても吸血鬼しか生まれないわ。この子は正真正銘吸血鬼よ」

 それであんな力が使えたんだ。

 どう足掻いても蹴りで熊を倒すなんて人間技じゃないもの。

「はぁ…」

 ひとまず納得したけどアーサーが泣いてる理由はわからない。

「アーサー、なんで泣いてるの?」

 私が話しかけても彼は返さない。相当落ち込んでるみたいだ。

「大方、自分が人間じゃないってわかったからアリアちゃんが怖くなって逃げ出すとでも考えてるのよ」

 そういうとお義母様は「だらしないわね」と言ってアーサーを一回叩くと去っていった。

 そして私は考える。

 アーサーが人間じゃなかったら、この関係は終わりなのかと。

「…」

 違うなって、思った。

 それからアーサーに話しかける。

「アーサー、アーサー」

 軽くゆすって声をかけるけど返事はない。

 こうなるかなとは思っていたのでそのまま続ける。

「私、アーサーと別れたりしないよ」

 そう言うと、アーサーは少しだけ反応した。

「アーサーが吸血鬼だからって怖いなんて思わないよ。私を助けてくれたでしょ?」

 そこ待て言って、彼が顔を上げる。

 アーサーの顔は涙でぐしゃぐしゃで、それでも私を見ているのがわかった。

「…アリア」

 鼻水を啜りながら彼が私の名前を呼ぶ。

 私はなんだかそれがおかしくて、ほんの少しだけ笑った。

「大丈夫だよ、安心して。別れたりなんてしない」

 蹲っていたアーサーを抱きしめる。

 そういえば、自分から何か行動するの初めてだったな。

「うぅ…ありあ〜…」

 彼は私の腕の中で泣き続けている。

 本当に彼が私を好きかは言われたこと無いけど、少なくとも多分私は、彼が好きなんだと思う。

 そんな気がした。

「やっぱアリアが好きだ…」

「!」

「アリア…アリア…」

 呟きながら彼は私の胸に頭を擦り付けている。慌てて引き剥がすとアーサーは恍惚とした顔で未だ擦り付けるように頭を動かしていた。

 思わず盛り上がった気持ちが一気に冷めるのを感じた。

「変態…」

 この一言にアーサーは心からショックを受けたような顔をする。

「どうして!? 胸のささやかなアリアも好きだよ!」

「好きなんて初めて言われたし、変態と付き合うのはごめんよ!」

「こんなにアプローチしてたのに届いてない!?」

「知らない!」

 ばっかみたい。好きとか知らない。

 絶対に私からは言わないんだから。

 何にせよ、吸血鬼だからとかは関係ない。両親を安心させ続ける為にも、この関係は続けなくちゃいけないんだから。

 でも変態なんて知らないわよ!

 

 

 ********

 

 

 編集部に原稿を届けて、完全に賞の応募が締め切られてから三ヶ月。

 今日が結果発表の日…らしい。

 何かしらで賞が取れていれば、クロエさんから電話がかかってくると聞いた。

 電話の前で緊張しながら待つこと二時間。

 待っていた電話が鳴った。

「はい、フェンネルです!」

 食い気味に電話に出てしまった。相手がクロエさんであることを祈る。

「あ、アリアさんですか?」

「はいそうです」

「お疲れ様です、編集部のクロエですー」

「は、はい」

 良かった、クロエさんだった。

 つまり…何かしらの賞に、受かったと、思いたい。

「今回ですね、絵本の賞は残念ながら落ちてしまったんですけれども」

「はい…」

 絵本はダメだったか…。でもまだ児童書がある。大丈夫、大丈夫…。

 深呼吸をする。

 時間にしたらほんの一秒もないような間が何秒にも感じてしまう。

 

「児童書の方がですね、佳作という事で出版が決まりましたー」

 

「本当ですか!?」

「はいー。お疲れ様でした」

「ありがとうございます!」

 その後は授賞式や今後の打ち合わせという事でスケジュールや会場を教えてもらった。

 一旦区切りがついて電話を切るとゆっくりと振り返る。

「アーサー…」

 やばい、今にも泣いてしまいそう。

「アリア…?」

 彼は私の反応に合否を確かめあぐねている。

「受かったよアーサー!」

 喜びのあまり彼の懐に飛び込んだ。

 思い切り抱きしめて感情を伝える。

「…良かったじゃないかアリア!」

 アーサーが抱きしめ返してくれる。なんだか嬉しい。

 もう私は涙が止まらなくて、彼の腕の中で泣きじゃくった。

 それをアーサーは優しく受け止めてくれて、ますます泣いた。

 義両親にもそのことを伝えると、二人ともとても喜んでくれた。

 嬉しくて、久しぶりに実家に手紙を書いた。

 明日届けに行こう。もちろんアーサーを連れて。

 これからが怖くないって言ったら嘘になる。仕事との折り合いもあるし、描き続けられるかとか…。

 でも、それよりもわくわくする。

 アーサーが隣に居てくれるなら、できる気がする。

 それなら歩き出してみよう。

 

 私の冒険は、まだ始まったばかりなのだから。

 

 

 

                  終

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