第40話 脱出Ⅱ
気が緩むと疲れが存在感を増す。ハルヴェルは、セーグルを応接間へと案内した。侍従が用意するワインを飲みながら、セーグルに話題を振る。
「そういえば、兄を呼びましょうか?飛んで帰ってくると思いますが」
ハルヴェルの兄は、心底セーグルを敬愛している。実家にいると分かれば、何を差し置いても帰ることは想像に難くない。問題はその帰省がいつになるかという話だが、少なくともウィリエスが健康に成長するまでは王都に戻らないつもりだ、数年は待てるだろう。尤も、その前に事態は変わっているだろうが。ウィリエスを救出したことが、鬼と出るか蛇と出るか。
ワインの揺らめきを無心に見詰めながら、ハルヴェルはセーグルの苦笑を聞いた。
「お気遣いはありがたいですが……私は死ぬまで王都にいる心づもりですから、彼から会いにきてくれるのを待ちますよ」
「故国へは帰らないのですか?一度も?」
「ええ。……できることなら、リズリエラ様と同じ場所で終えたいのです」
「……そうですか」
嬉しくはないが、その気持ちはハルヴェルも分かる気がしてしまう。唯一と定めた存在の死は、埋まらない穴を心に空ける。記憶は永遠ではない。月日の経過と共に薄まり、欠けていく。果たして、生前の声や色を寸分違わず覚えていられるだろうか。肖像画は、忘却を受け入れ真実を曲げるためのものだ。模造品は偽物であり、本物の現し身ではない。髪の艶も瞳の輝きも、本物の美は筆で再現できない。
ウィリエスを連れ出して良かった、とハルヴェルは思う。何よりそれがリディエラの望みであったし、ウィリエスが生きる環境をずっとましにできる。引き換えに姉とは会わせられなくなってしまったが、いつか王城へ帰る日までの辛抱だ。
あとは、戦争が起こされる前にリディエラを助けなくては。リディエラが、己の助かる道を考えてくれなくては。
しばらく、二人はとりとめの無いことを話した。セーグルがグリーティス王国へ来たときの記憶や、ハルヴェルの兄の思い出。
そうこうしているうちに、侍従がハルヴェルにウィリエスからの呼び出しを告げた。身を清め終わり、うつらうつらとしつつも寝室で待っていると言う。
ウィリエスの部屋はハルヴェルの隣に用意した。兄の部屋を王族に貸すのはためらわれたが、ウィリエスから目を離したくない以上仕方無い。元より、本人たちも気にするような性格はしていないと分かっている。もちろん、模様替えと言えるほどに調え直させはしたが。
ハルヴェルが入室すると、ウィリエスはソファーに座ったまま船を漕いでいた。ベッドに入っていて構わないのに、待ち人が訪れるまで何としても起きていたかったらしい。
「ウィリエス殿下、お待たせして申し訳ございません」
「……ん……」
うぅ、とウィリエスは呻きながら顔をこすった。次いでゆらゆらと両手を伸ばし、立ったままのハルヴェルを掴む。
ベッドまでお運びいたしましょうか、とハルヴェルが苦笑を噛み殺しながら尋ねると、はい、と微睡んだ声が返る。とうとうハルヴェルは小さく笑ってしまったが、睡魔に食べられかけている少年が気分を害する様子はない。ウィリエスは黙って抱き上げられるのを待ち、甘えるようにしがみついた。
「私にお話がおありでは?」
「……うん……?」
「明日でよろしいのでしたら、本日はお休みなさいませ」
「……ふぁい……」
返事はあるものの、呂律が回っていない。ウィリエスは余程眠いのだろう。それもそのはず、この一ヶ月、十歳の子供には厳しい強行軍だった。休憩にゆとりを持たせたと言っても、それは大人にしてみればという話、ハルヴェルさえも重い疲れを感じている。体力も筋力も無いウィリエスからすれば、泣いてしまってもおかしくないほど苦しい道のりだったはずだ。実際は泣きもむずかりもしなかったのだから、ウィリエスは一般的な子供よりずっと大人びている。
シーツの中に入ってしまえば、ウィリエスはあっという間に寝息を立て始めた。すぅ、すぅ、と広い間隔で繰り返される呼吸は、ウィリエスが生きているということを確かに証明している。いつものようにその小さな頭を撫でながら、ハルヴェルはほっと息を吐かずにはいられない。
リディエラも、同じ経験をしていたのだろうか。眠い一方で温もりを求めるウィリエスに、微笑んで体温を分けたのだろうか。
お姉様、と請われれば、リディエラはきっとありったけの愛情を込めただろう。お姉様、と泣かれれば、リディエラはきっとこの世の誰よりもウィリエスの側にいたがっただろう。そして、それは実現されなくてはならない、現実がそうでなくてはならない。ウィリエスが喜ぶとき、悲しむとき、悩むとき、その隣には最愛の姉がいなくてはならない。
きっと不可能ではないと、ハルヴェルは思う。否、信じている。いつか叶えられなくてはならないと、ハルヴェルは確信している。
しかし、それがいつになるかは分からない。どちらかの命が尽きるのが先かもしれない、という悪い想像が脳裏をよぎる。理想を目の前まで連れてくるためには、一体誰に、何を差し出せば良いのだろうか。
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