第39話 脱出Ⅰ

 ガタガタと揺れる馬車の中。青年は、しがみつく少年を守るように支える。暑さを逃がすために窓を開けても、カーテンのせいで風はあまり入ってこない。馬で駆けたほうが遙かに速いが、人を抱えて乗馬する経験は積んでいないので仕方無かった。


「夕方には我が邸に着きます。我慢できますか?」


 質問に、少年はこくこくと頷いた。


 ハルヴェルがリディエラと約束を交わした日から、三か月が過ぎた。自然はすっかりと夏に染まり、青草の匂いが肺を満たす。南に向かうため避暑とは真逆の行為だが、乾いた土は馬車の車輪が捕らわれずに済んだ。


 ハルヴェルが王女の意思を明かすと共に協力を仰ぐと、意外にもアンジェルはすんなりと承諾した。曰く、戦火を呼ぶ気はさらさらないと。元々手配してあった献上品を運ぶ従者が帰るのに便乗し、ウィリエスを逃がす算段をした。

 しかしその手腕よりも驚くべきは、サンドルト辺境伯家が第三王子の後見となった結果だ。それは、実質保守派からも手を引くことに他ならない。王位継承問題から一歩退き、ウィリエスの療養の場となることを決断した。貴重な紙の生産地として唯一無二の価値を持つ、サンドルト辺境伯家だからこそ可能な選択だ。

 決して少なくない王女派の参列者が賛同し、根回ししておいた保守派の一部も肯定し、第一王子派の少数も頷いてしまえば、反対する道理は国王に与えられない。王女が残ることで妥協したか、ダグラクスは翌朝という突然の出立も許可した。


 王城からサンドルト辺境伯家までは、船や馬を度々乗り換えても二十日以上掛かる。今回は慣れないうえ体が弱いウィリエスを連れているので、一か月以上を要する見込みだった。

 早馬で知らせた貴族の屋敷に一晩泊まり、翌朝には慌ただしく移動を再開する。皮肉にも、同伴者がほぼいないことは時間や路銀の節約に貢献していた。荷物も最低限しか積んでいない。ウィリエスが体調を崩してしまわないかと懸念していたが、そのような事態は引き起こされないまま終えられそうだ。


 たどり着くや否や、ハルヴェルはウィリエスを抱えて邸内に急いだ。


「浴室と寝室の支度を。殿下、ご体調はいかがでしょうか?」

「あ、だ……大丈夫です」


 額に触れる限り、ウィリエスに熱の症状はない。その小さな身を屋敷の侍従に預ける際は不安げに手を掴まれたが、リディエラが託した老齢の侍女が歩み寄ると体の力が抜けた。

 リディエラは、己に付いていた侍女と騎士を全員譲った。とは言え、信頼できる者のみなので四人しかいない。いずれも、リズリエラに付き従ってグリーティス王国へと来た者たちだ。聞けば、リディエラが扮装に使う古着はこの侍女が用意したのだと言う。味方がいたことに安堵したのは、ハルヴェルも彼らも同様だった。


「ハルヴェル君」

「先生」


 セーグルはやつれた様子で微笑んだ。リディエラの頼みで、ハルヴェルはセーグルも連れて帰ってきていた。代わりの人質にセーグルがなることを防ぎたかったのだろう。

 リディエラは、身内に対して優しすぎる。身内を失うことに、嫌な現実味を感じている。それは自身にも言えることなのだと、どうすれば分かってくれるだろうか。


「明日、父に手紙を出します」

「手紙、ですか?」

「ええ。恐らく陛下もご覧になるでしょうから、下手なことは書けませんが」


 到着を知らせるだけなら、使者を飛ばすだけで事足りる。しかし、今回重要なのは第三王子の扱いだ。わざわざ高価な紙にしたためることで、こちらが王家に対して献身的なことを証明する。あくまでダグラクスの目論みには感づいていない体なのだ、引き籠もっていれば良いという話にはならない。

 そして、あわよくばその知らせを王女も確認できれば本望。ラインヴィルトなら必ず読むだろうから、王女にだけ読ませないということにはならないだろう。現状を知らせ、多少なりとも安心させたい。リディエラが口にした通り、リディエラ自身が助かる道だけを考えてほしい。


 ふと、セーグルは辺りを静かに見回した。ここは変わりませんね、と独り言のように言う。釣られ、ハルヴェルも視界を動かした。未だに玄関ホールにいるわけだが、一年半前の景色と変化はないようだ。

 燭台に照らされる床は、よく手入れされているおかげか染みの一つも見当たらない。窓は尖塔の形にそびえ、朝日が昇れば強い光を取り込むだろう。ウィリエスが消えていったほうを見やれば、弓なりの天井がずっと続いている。何一つ、記憶と異ならない。十年以上過ごした場所は、ハルヴェルの心中に意図しない人心地を生んだ。

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