第38話 別れ
だが、リディエラとてそれは承知のうえだ、一応。
「ち、違うのよ」
「何が違うと?」
「セーグルに会いたかったの。いえ、あなたにも会えれば良かったけれど……」
「……」
リディエラはばつが悪そうに言った。眉尻を下げ、心底申し訳無さそうに言った。実際、ハルヴェルがここまで怒るとは思っていなかった。
そのような姿を見せられてしまえば、ハルヴェルも毒気が抜かれるというものだ。同時に、冷静にもなる。ウィリエスには無理だというセーグルの言葉を初めて理解した。使用人の振りをして図書棟に通うとは、あの小さな体躯のウィリエスにはできない芸当だ。尤も、リディエラも身長はさほど高くないが。若くして働く者が少なくないおかげで、近づきすぎなければ誤魔化せるのだろう。
仕切り直しの咳払いを挟んだうえで、ハルヴェルはリディエラを見詰めた。理由をお伺いしても、と問えば、リディエラははっとしたように息を吸い込む。
「ええ!ウィリエスを城から出してほしいのよ」
それは、予想外の頼みだった。青年のスフェーンが瞬く一方、少女のディアスポラは悲願と信頼で輝く。久方振りに向けられた視線は、ハルヴェルの心を少し満たすだけだ。楽しそうな笑顔は、もう半年以上見ていない。
軟禁された第三王子を連れ出すと言っても、方法は限られている。奇しくも、ハルヴェルはちょうど考えていた。しかし、父の助力を得られても成功するかどうか。第一王子が見逃すとは思えないし、ハルヴェルの予想が正しければ、国王はまず許さない、人質が解放されるなら、リディエラが道化を演じる必要もないのだから。
「……心苦しい限りでございますが、お約束はできかねます」
「今ならできるわ。陛下と大臣の話し合いに、王女派からも何人か参加しているの。保守派も賛同すれば、陛下は許可せざるを得ないはず」
「許されたとして、リディエラ殿下に危険が及ぶのでは?」
「私なら大丈夫よ」
「根拠は?」
「……私が今死ぬのは、愚策だもの」
ハルヴェルの胸中に、かっと火が灯る。リディエラの言い草はあんまりだ。生かされたまま見る地獄などいくらでもある。
確かに、リディエラが死んでは王女派の主張は一気に通らなくなるだろう。第一王子派と王女派が対等に対立していられるのは、ラインヴィルトとリディエラの権力が等しいからだ。
二人共、敵方の貴族を一方的に弾圧することはできない。この勢力図は、恐らくダグラクスの理想だ。ウィリエスは、これを保つための人質。
しかし、人質がいなくなっても言うことを聞かせる手段はある。
ハルヴェルは拳を握り締めた。もし己にもっと力があったなら、リディエラとウィリエスの二人を同時に救うことができたのだろうか。もっと早くに王都へ来ていたら、ウィリエスが囚われる前に助けられたのだろうか。もしも、もしも過去を変えられたなら、もっと別の結果が。
――お願い、と手と手が触れ合った。爪が食い込むほど丸まっていた右手は、気づけば小さな両手に包まれている。
「ガルベンやセーグルより、あなたのほうが上手くできると思うの。もちろん、あなたに危険な目に遭ってほしいわけではないのよ」
「……私は……」
「どうかお願い。あの子が安全に生きてくれるなら、私も救われるから……」
少女の声も手も、割れてしまいそうなほど震えている。亀裂が生じたカップのように、注がれた水を辛うじてたたえている。ほんの少しでも力を加えれば壊れてしまうそれは、放っておけば良くない事態を引き起こす。水は溢れ、小さなかけらが飛び散り、どのような手を使っても二度と直らない。世界にたった一つだろうと特別な思い入れがあろうと、失ったものは決して手元に戻らない。土に埋められ、無価値な代替品が現れる。
柔肌をこすらぬよう、ハルヴェルは両手でリディエラのそれに応えた。
「承知いたしました。この身に代えても、ウィリエス殿下をお助けいたします」
今は、それだけしか言えない。あの薄暗い部屋から弟を逃がす、それしか約束できない。かなり無茶なことを言っている自覚はある。それでも、やるしかない。それでリディエラが救われるなら、否と返す余地はない。
リディエラは何か言いたそうにしたが、ありがとう、とぎこちなく微笑んだ。ハルヴェルとウィリエスを天秤に掛けて、どちらにしてもハルヴェルが死ぬなら仕方無いとは言えなかった。それだけリディエラにとってはハルヴェルが大切であるし、ウィリエスもまた大切だった。比べるものではない。都合が良くて許されるならば、ハルヴェルにとってのリディエラとウィリエスもそうであれと思う。
どちらからともなく部屋を出た。ハルヴェルは外へと続く回廊へ、リディエラは城内へと続く扉のほうへ。
あの夏の終わりから、道は分かれてしまった。されど、望む未来は変わっていない。ただ、大きさが異なるだけだ。実現した願いの先にもう一つを求めるか、未練を果たして終わってしまうか。
別れは突然だ。猶予は刻一刻と削られている。春は、夏との出会いを期待しない。
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