第37話 逢瀬

 春は死んだ。陽気を抱き締め続けることも、花々が歌う静寂を守ることも叶わなくなった。たがを力任せに壊した太陽は、秩序を忘れ思慮も浅はかに日照りを引き起こす。叫ぶ雨音は暴虐な恵み、引き裂く雷光はまばゆい暴力。荒れ狂う自然で生き残るは、隆々とたくましく強大な大樹。幼い同類が生き残ることを許さず、全てを我が物と企む忌まわしき悪。


 図書棟の扉を開ければ、セーグルはいつも待っている。もはやハルヴェルとリディエラしか訪れないこの場所で、かつての主の記憶に浸るかのように、何かを諦めたがゆえの穏やかな笑顔で座っている。


 しかし、この日は違った。ハルヴェルが現れた瞬間、セーグルは弾かれたように振り返った。


「先生……?」

「ああ、ハルヴェル君。君は第三王子殿下の顧問でしたね?」

「え、ええ」

「今すぐ、こちらへ」


 セーグルはハルヴェルの背を押した。足を進めたのは、公用の扉とは別のそれ。装飾が少ない小さな板で、明らかに使用人用だ。忘れ去られたこの建物にもあるとは意外だが、図書棟の裏を通って洗濯場へ繋がっていると言う。ここは死んだ正妃の指示で建てられた、もしかすると己が抜け出すつもりで扉を余分に設けたのかもしれない。よく整備されているのか、引っかかることもなく無音で開いた。


「右手を真っ直ぐ行けば、城の裏手へ出ます。今は往来が少ない頃ですから、中に入って適当に歩いてください」

「はい?適当に、と言われましても……」

「――今なら追いつけるでしょう」


 そう言われてしまえば、誰のことか嫌でも察してしまう。


 初めてリディエラを目にしたときの衝撃は、一年経った今でも鮮明に思い出せる。

 俗世から最も遠い人でありながら、俗世に最も縛られた人。白磁の肌を縁取る髪は絹のごとき艶を持ち、厚い睫毛に遮られた瞳は宝石にも負けぬ清澄を見せていた。不格好な衣装に身を包んだ姿は滑稽なのに、薄暗い書庫にいると翼を落とされた天使にも見える。

 自由を持たない少女は、喜びも悲しみもその表情で雄弁に語る。手を伸ばせば届く距離にある声が、目を向ければ不思議そうに紡がれる文字が、ハルヴェルにはとても得がたく尊いものに感じられた。そして、それは事実だった。香りも、微笑みも、ふとした仕草も、全てが希少で掛け替えのないものだった。


 アプローチとして用意された階段を下り、土の上へ足を踏み出す。セーグルの指示通りに進めば、立ち並ぶ物干し竿が見えた。シーツがゆらりとはためく合間を縫い、人の気配に注意しながら城内へ。明かりは十分だが、見つかる心配は無さそうだ。


 四日間催される祈念の夜のうち、リディエラが姿を現したのは初日だけだった。数日後に聞いたウィリエスの話では、控えの間にも来なかったらしい。

 ハルヴェルが部屋を訪れると、ウィリエスは涙目で弱音をこぼした。お姉様は僕を嫌いになってしまったんでしょうか、とありえもしない想像をして抱き着いた。最愛の姉の不在は、ただでさえ弱い心に拍車を掛ける。そのようなことは決して、と否定するハルヴェルさえも、終わらない悪夢に身が焼かれる思いでいる。

 つくづく自分勝手だ。王都に来なければ知らなかった、来たとしてもセーグルに謀られなければ気づかなかったにも関わらず、我が事のように苦しんでいる。それを冷静に俯瞰するはずの己は、すでに微塵も抗おうとしていない。感情にさいなまれる理性を放任して、事態を好転させるために頭を回している。会いたい、会わせたい、笑ってほしい、ただそれだけのために。


 通路を歩き始めて間もなく、強い明かりが漏れる扉を見つけた。頭の中で描いていた方角の限りでは、正真正銘城内の廊下に通じているはずだ。ここから出て運悪く誰かに見られれば、何をしていたのか悪いように勘繰られてしまう。そもそも、当初の目的であるリディエラに会えていない。ハルヴェルは数秒迷った末、体を反転させた。


 果たして、その判断は正しい。


「――ハルヴェル……?」


 小さな声がした。風にかき消されてしまいそうなほど、不安と期待が詰まったか細い声。

 ハルヴェルが焦って踵を返せば、曲がり角の陰に少女はいた――ただし、洗濯女中の格好で。


「でっ……!」


 落ち着いた緑の目。ハルヴェルを確認すると見開き、安心を伴って潤む。金髪はきっちりとまとめてあるが、輝きが失われるわけではない、どう見てもリディエラ本人だ。

 慌てたハルヴェルは、これまでの我慢が嘘のようにリディエラの肩を抱き、手近な部屋に自分諸共押し込んだ。


「殿下……リディエラ殿下で有らせられますね?」

「え、ええ……」

「何を考えればメイドの格好などなさるのです!」


 ハルヴェルは叱った。と言うのも、信じられない思いで開いた口が塞がらないからだ。リディエラは、黒色の地味なドレスの上から薄汚い白色のピナフォアをかぶっていた。減りこそすれ無くならない気品はさすがとしか言えないが、だからこそ危険だ。下手に目を引けば、正体を暴かれるか最悪どこかへ連れ込まれる。

 前者ならまだましだ、王女という虚構を崩し王女派を錯乱させるに留まる。しかし、後者はどのような言い分があれ絶対に許されない。非論理的なことを言うならば、ハルヴェルが許さない。この怒りの要因はそこにある。リディエラが自ら低俗な者たちの餌となっているなど、この部屋から出したくない程度には受け入れがたい。

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