第36話 道を示す者

 ――サク、と土を踏む音。


 ハルヴェルが振り向いたとき、カーニャは誘うようにその姿を現していた。


「……弁明が?」

「いいえ、悪いのはこちらでございますから」


 カーニャの頭は深く下がった。蒲公英色の布地に描かれるは、白い花々。決して派手ではないものの、麗らかな季節にふさわしい華がある。彼女がその蠱惑的な指先を差し出したなら、色鮮やかな蝶がためらい無く留まるだろう。ハルヴェルは不意に、この女性が得体の知れない人間に感じられた。理屈はない、ただ、直感的に。


「第三王子殿下はお元気でしょうか?」

「ええ」

「それはようございました。――お薬が効けばよろしいのでしょうが」

「……」


 一拍、ハルヴェルの呼吸が止まる。

 カーニャの声は、この近距離でなくては聞こえないほど小さなものだった。されど、しかとハルヴェルの鼓膜に届いている。

 弧を描いたままの細い双眸に、体が硬直してしまう。辛うじて、さりげなく周囲を見回した。付近には誰もいない。安堵すれば、かえってカーニャへの警戒心が大きく膨らんでいく。


 ウィリエスが服薬していることは、確実に公にされていない。病弱なところは根も葉もない噂を防ぐために、と言うより望まぬ王子を厄介払いするために明言されたが、それ以上の弱みをさらす必要は皆無だ。また、恐らく第二妃が箝口令を敷いている。

 カーニャは一介の伯爵家息女だ、ハルヴェルを差し置いて秘密を共有されているという状況がありえるだろうか。あくまで推測だと言い逃れできる絶妙な言葉選びとは言え、わざわざ疑いを招くような発言をカーニャがするだろうか。

 一瞬の思考の末、ハルヴェルはしらを切る選択肢を選ぶ。


「さぁ。私は顧問に過ぎませんから」

「治療には……ええ、治療でございます。サンドルト様のお立場では、関わりがたいでしょう」


 扇で口元を隠しながら、カーニャは小首をかしげた。思わせ振りな口調で、ハルヴェルが抑えている猜疑心を引き出そうとする。未婚の男女であることを鑑みてか、節度ある距離にたたずんでいるにも関わらず、心の裏側まで覗き込むような目。

 既視感を覚え、ハルヴェルは思い当たった。この清らかな女性は、第一王子と同類だ。他者を冷徹に見極め、相手の機微を推察して立ち回る。こちらが和やかな雰囲気に騙されてしまえば、一瞬のうちに貪られる。

 二人を比べて異なるのは、第一王子は己だけが優位に立つように振る舞い、カーニャはハルヴェルに隙とも言える情報を与える点。豊穣の夜の予兆はルアンから与えられたが、それさえもカーニャの仕込みだったのではないか。ならば、カーニャがそこまでしてハルヴェルに手掛かりをもたらすのはなぜか。


 不意に、カーニャの視線は下方を向いた。行き着くのは、人の手によって咲かされた花々。生まれたままの姿さえ失い、季節が終わるまで生かされる。不自由はないだろう。光も水も、生きるために必要不可欠な全てが約束されている。されど、望む自由は決して与えられない。


「武器庫を訪問されたことはございますか?」

「いいえ。実質、あれは王女殿下の私物でしょう?」

「ええ、対外的には」


 カーニャの表現に、ハルヴェルは引っかかりを覚えた。王城内の施設だ、所有権は国王にあると言いたいのだろうが、それにしても恣意的な言い回しだ。


「どのようなものであっても、必ず所有者がおります。私はフロータス伯爵のものであり、嫁げばルアン様のものとなりましょう」


 ハルヴェルは視線で先を促した。本題をはぐらかすような話だが、聞かなくてはならない気がする。最後まで聞けば、道しるべを得られる気がする。曇天を開くのは、どこからともなく吹いてくる風だ。


「では、こちらの庭はどなたのものでしょうか?聞くまでもなく、陛下のものでございます。王城にいるうちは、私も、サンドルト様さえも……全て、例外なく、陛下のものでございます」


 その声色には、異を唱えさせぬ力強さがあった。扇を閉じ、意思をたたえた瞳でハルヴェルを射貫かんとしている。まるで、真実を全て握っているかのような口振りだ。赤と緑にまみれた庭を背景に、滑らかな輝きはやけに浮き出る。絵画を抜け出したままの美は、ハルヴェルの目を覚ますためだけにある。


「私とルアン様は似ております。過日の『花』に、いつまでも憧れと理想を抱いて……」


 ルアンにとっての「花」は、ラインヴィルトだろう。陶酔した様子で語る、危うい輝きを持つ双眸を思い出した。同時に抱いているのは、王女への嫌悪と侮蔑。ラインヴィルトの王位と治世を望む、忠実な臣下。

 では、カーニャにとっても彼だろうか。胸中でそう自問すれば、ハルヴェルにはなぜか違うと感じられる。カーニャの視線の先にあるのがあの王子だとは、どうしてか納得できない。


 ――ここまでにいたしましょう、とカーニャは幕を下ろした。耳を澄ませると、回廊の奥からかすかな足音が届く。


「長話を申し訳ございませんでした。よろしければ、またお相手なさってくださいませ」


 そよ風に、バラの豊潤な香りがたっぷりと抱えられる。むせかえるような匂いに紛れ、害虫がバラの根元へとはう。汚し、食い荒らし、肉体も尊厳も壊してしまう。

 衰えた身に熱は宿るだろうか。虐げられた願いに色は灯るだろうか。明けない夜が無いならば、明けても日が当たらない陰は何を期待すれば良いだろうか。実らない努力が無いならば、努めても叶わない幻想に価値はあるだろうか。枷が付いた手足で、己を守ることはできるだろうか。

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