第35話 気づき

 祈念の夜が滞りなく終わり、春は残り香を漂わせるのみとなった。通例、集まった貴族は徐々に領地へ帰り始めるのだが、ハルヴェルの父も含む幾人かは今年に限って例外だ。理由は明らかにされていない。しかし、辺境伯が漏れなく招集され話し合いが行われていることから、戦争が近いのではという噂が流れている。それは王女の働きかけによるものかもしれないし、別個の問題かもしれない。ただ、穏やかでいられないのは確かだ。


 昼下がり、ハルヴェルは王城の庭園に来た。冬には無かった色とりどりの花が咲き乱れ、人工的な美を形成している。

 小さな羽を一心に扇ぐ蝶と、短い足で蜜をかき集める蜂。人を前にして、春の命は吹けば飛ぶほどにか弱い。この光景に心が癒されるのは、己の絶対的な優位を確信できるからだ。壮大な自然など、切り取ってしまえば容易く破壊できる。

 それでもハルヴェルが熱心に眺めるのは、ウィリエスに話して聞かせるためだった。ウィリエスの部屋からは、最低限に調えられた草地しか見えない。花束にした実物を持っていくつもりではあるが、渡しておしまいでは味気ないだろう。夢の中に現れることを期待して、可能な限り客観的な言葉を並べ立てるつもりだ。いつか外に出られたとき、未知への恐怖よりも既知への感動を覚えられるように。


 ――突然、程近くから女性の話し声がした。今、ハルヴェルは回廊付近の生け垣を鑑賞している。声の主である二人は、偶然すれ違っただけのようだ。壁が邪魔をして姿は見えない。


「犬を呼び寄せるのがお得意なのね。蝶はさっさと放して差し上げたら?」

「あら……優しい人。あなたに放された蝶は、アネモネよりもユリを好むのでしょうね」


 一人目は聞き覚えがない声だが、二人目はカーニャのものだ。香水で美醜を誤魔化しているという言葉遊びに、大きさと匂いだけの花は取るに足らないと返している。蝶、とは十中八九ルアンのことだろう。侯爵位と伯爵位には越えられない壁がある、見初められたカーニャは羨望の的だ。


 ここを離れるか、留まるか。立ち聞きは褒められたことではないが、恥ずべきことでもない。どれだけ高尚な人物だろうと、聞き耳を立て情報を集めるものだ。花の香りを堪能する振りをして、もうしばらくここに立っていても構わないだろう。公共の場で話すほうの落ち度だ。


「シンデル殿こそ、犬と戯れるのがお好きでしょう?無邪気に転げ回る様がかわいらしいわ」


 ハルヴェルは脳内の名簿をめくった。シンデルという名は、王女派に与する伯爵家のものだ。話し相手はその娘だろう。確か、婚約者はすでに決まっているはず。敵対勢力にも関わらずルアンを欲しがっているのか、カーニャを傷つけるために口にしただけか。


「犬?汚らしい。土まみれなのはあなたでしょう!」


 違う。カーニャが言及した犬とは、王女派のことだろう。第一王子に遊ばれている動物に過ぎないと、心の底から馬鹿にしている。ハルヴェルの予想を超え、カーニャは王女派と徹底的に馴れ合わないつもりのようだ。口調はいつもと同じく穏やかだが、侮蔑的な言葉を恣意的に選択している。侯爵家に買われた動機には、この秀でた機転も含まれているのだろう。

 一方、シンデルはカーニャが意図するところに気づけない。笑われたのは王女派そのものだというのに、シンデル個人をけなされたと勘違いしている。第一王子派ではなくフロータス伯爵家のみをおとしめるのは、言い負かされたも同然だ。


 ふふ、と含み笑いが空気を揺らす。愛想とおかしさを混ぜ込んだ、鼻につくような吐息。巻き添えを食らえばひとたまりもない、とハルヴェルは素知らぬ振りで花弁へ顔を寄せた。

 まだつぼみのバラが並んでいる。毒々しい、真っ赤な肌で空を見詰める花。光を傷つける影のごとく、幾重にも重なるに連れぞっとするほど黒い。ぐしゃりと握り潰してしまわぬうちに、ハルヴェルは視線を横に逸らした。


 シンデルは敵わないと悟らざるを得なかったのだろう、怒りに任せた足音が段々と遠ざかっていく。結局、何をしたいのか分からない会話だった。ガルベンと同じくシンデルが短気なだけかもしれないが、王女派は余程鬱憤が溜まっているのだろうか。

 思えば、第一王子派は政に上手く組み込まれている傍ら、王女派が目に見えて活躍している話は聞かない。これは平時だからこそとも言えるが――王女派は、負けがほぼ確定している。


 見上げれば、雲一つ無い青。不自然にさえ思えるほど、真っ青に塗られた天球。

 ――第一王子は、すでに王位を手に入れたも同然だ。


 瞬間、ハルヴェルの中で霧がいくらか晴れた。


 なぜ、今まで疑問に感じなかったのか。第一王子派と王女派がここまで対立して、一体誰が得をするだろうか。リディエラが過激派を抑える意味は確かにあるだろう。しかし、全体の利益で言えば微々たるもの。戦争の種火を保持するより、彼らの不服が解消される別の方法を考え出すほうが建設的だ。

 そして、ラインヴィルトの立場はすでに盤石となっている。加えて、リディエラが王位を望んでいないと知っているはずだ。現状がラインヴィルトの筋書き通りだとすれば、わざわざ己の足下を切り崩していることになる。

 そもそも、リディエラを孤立させる動機がはっきりとしない。ウィリエスを引き離し、ハルヴェルを切り離し、リディエラを孤独に陥らせたところで何に繋がるだろうか。

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