第32話 志を同じくする者

 アンジェルに苦言を呈された数日後、ハルヴェルの前方にガルベンが見えた。ここは城門へ向かう回廊なので、偶然すれ違うことは当然ある。そのようなとき、ハルヴェルは決まって気づかない振りをするが、ガルベンは大抵嫌味を放つ。そうなれば立ち止まるしかなく、ハルヴェルは一言二言の応酬をしてから多少強引にでも立ち去るようにしていた。最初から無視をして火に油を注ぎたくはないと同時に、感情的な攻撃を迎撃するためだけに時間を費やしたくもない。

 しかし、この日はガルベンの様子が少し異なっていた。ハルヴェルを認めるとさらに大股で距離を詰め、すれ違う前に細い左腕をがしっと掴んだ。その右手は力強く、ハルヴェルが痛みを覚えるほど。


「突然、何ですか?」

「――脅したのか?」

「はい?」

「殿下を脅したのかと聞いている!」


 ハルヴェルはうろたえた。ガルベンの声は大きい。周囲を確認したところ人影は無いが、聞かれてしまえばあらぬ誤解を受けることになる。

 ハルヴェルは己よりも上にある顔をにらむと、建物の陰になる草地に場所を移した。尤も、本質的な怒りの理由は無意識のうちにあるが。拘束を振り払い、半ば勢い任せに口を開く。


「何を言うのかと思えば。事実無根です。滅多な発言は慎んでもらいたい……!」


 ハルヴェルが血気迫る声色で言うと、ガルベンは少し面食らった。ハルヴェルはいつも最低限の反論をするばかりで、強気に出ることはしない。それが不意打ちに裏切られ、微々たる変化だが頭の熱が冷える。


「違うと言うのなら……――なぜ、第三王子はお前を選んだ?」


 大きな感情に揺さぶられた、声。黄みがかった茶色の瞳は、忌々しげに歪んでいた。今にも伸ばされそうな両手は、骨が浮き出るほど固く握り締められている。厚く広い体の中で、他者の想像にも及ばない意志が今にも爆発しそうだ。


 一方、ハルヴェルは瞬間的に考えた。てっきりリディエラについての話かと思ったが、今はウィリエスの名前を出している。

 アンジェルが突きつけられた言を鑑みるに、ドッグヴァイン辺境伯は第三王子を肯定的に捉えていないはずだ。見下し、側に付いたハルヴェルをも嘲笑する立場を取っている。

 では、その息子であるガルベンはどうだろうか。先程の発言からは、ガルベンが第三王子の歓心を得たがっているかのように感じられる。一体、何がそうさせているのか。


 さぁ、とハルヴェルは答えをはぐらかしつつ、その真意を探ろうと目を凝らす。


「お前は第一王子の手先だろう?なぜ、第三王子のもとにいる?監視でも命じられたか?」

「私は第一王子殿下に従ったつもりはありません」

「では、殿下が俺よりもお前を取ったと言いたいのか?」

「ドッグヴァイン辺境伯は、まだ第三王子殿下と親しくされていないと聞きましたが?」

「第三王子は関係ない」


 俺は殿下のみに忠誠を誓っている、とガルベンは呻った。


 そこで、ハルヴェルはようやく感じ始めた。何かが食い違っている。やはり、ガルベンが話したいのはリディエラについてだ。殿下、という呼称はリディエラにしか使わないらしい。しかし王女と第三王子は紐づかないはずだ、ハルヴェル以外の者には。セーグルの出身を知るアンジェルには鎌を掛けられてしまったものの、リディエラもウィリエスも本当の関係性を無闇に明かすことはしていないだろう。

 まさか、豊穣の夜のあの瞬間にガルベンも感づいたと言うのだろうか。ガルベンはリディエラの側にいた、ダグラクスとラインヴィルトの視線に気づいたとしてもおかしくはない。されど、それだけで二人の親密な仲を察せられるだろうか。


 恐らく、ガルベンの仮説はこうだ。ハルヴェルがリディエラの弱みを握り、ウィリエスをハルヴェルの手元に寄越すよう指示した。本来はガルベンがウィリエスと共にあるつもりだったのが、ハルヴェルの介入によって崩された。

 問題は、何のためにガルベンがハルヴェルの立ち位置を求めているかという点だ。王女の性格に照らし合わせれば、ウィリエスを王女派に組み入れるためだろう。第三王子は関係ない、という言い回しも、第三王子の意思は関係ない、という意味なのだとしたら。


「ウィリエス殿下は幼すぎます、王女派の柱にはなりえません」

「俺は殿下の意にそぐわないことはしない」


 含みがある言い方。少なくとも、王女としてもリディエラはウィリエスを巻き込む気が無いということだ。ということは、ガルベンがハルヴェルに敵意を見せる原因は別にある。

 そこでハルヴェルは、王女殿下はどのようにお考えで、と尋ねた。しかし当然とも言うべきか、ガルベンの口は動かない。さすがに、口にできることとするべきでないことの判別は付くらしい。


 思考を広げた末、ハルヴェルは慎重に口を開く。


「私は、ウィリエス殿下を旗印にしようとは考えていません。顧問として、汎用的な物事を教えるのみです」

「それは、殿下にそう頼まれたからか?」

「我がサンドルト辺境伯家は保守派ですよ。王女殿下はもちろん、第一王子殿下とも親しいつもりはありません」


 いい加減しつこい、とハルヴェルが言外に苛立ちを込めたおかげか、ガルベンは一応黙って受け入れた。


 ハルヴェルが思うに、ガルベンは父であるドッグヴァイン辺境伯とは行動理念を異にしている。推測でしかないが、ガルベンはウィリエスを道具として扱うつもりがない。ウィリエスを求めるのは王女のためだ。もし王女とリディエラがその点に関して同じ意見を持っているのなら、ハルヴェルとガルベンは相反する立場にはない。


「あなたは……いえ。王女殿下は、ウィリエス殿下について何をお望みで?」


 どくどくと脈打つ心臓を感じながら、ハルヴェルは声を発した。いつの間にか、日陰がいっそう暗くなっている。日が傾いたのかと空に視線をやると、雲が何層にも重なっていた。強くはないが無力でもない風に吹かれ、太陽を遮り蒼天を塗り潰す。雨が降る前に、話を終えて帰らなくては。


「私も可能な限り尽力しましょう」

「……第三王子の安全をお望みだ。……お前が、保守派だからか?」

「と言うと……?」

「お前は一線退いた場所にいるから、殿下はお前に何も言わないのか?」


 切なげな瞳の奥で揺れる、感情。年相応の、まだ青い期待と理想。


 ――あぁ、同じか、と、ハルヴェルはやっと分かった。


 ガルベンは、本当にリディエラを敬愛している。王女としての顔だけでなく、リディエラが見せるウィリエスへの慈愛も含め、主君として仰いでいる。

 そのリディエラが望むから、ウィリエスを守ろうと考えた。ところが、実際にその役目を負ったのはハルヴェルだ。だから、己では役に立てないと悟った。己には他に重要な役割があるからだと思い込むのは惨めだった、リディエラがウィリエスを尊く愛していると分かるから。


 思慕の相手が己以外を頼るなど、どれほど悲しく残酷なことだろうか。無論、相手に悪意が無いのも、適材適所という言葉も知っている。それでも、助けるのは自分でありたい。身勝手にも、自分自身の手で不幸から引き上げたい。側にいられる、誰からも糾弾されない理由が欲しい。


 ポツ、とハルヴェルの頬に雨粒が落ちた。灰色に染まった空から、現実を思い知らせる水滴が次々と降ってくる。リディエラは雨に打たれていないだろうか、ウィリエスは体調を崩していないだろうか、とハルヴェルは頭の片隅で、けれど確かに心配してしまう。


「以前、王女殿下は誰よりもあなたを信頼してあらせられると言いましたね」


 正確には違うが、意味するところは同じだろうと決めつけて確認を取った。ガルベンは戸惑ったが、一拍空けて肯定を返す。

 ハルヴェルが今から並べる文字は不安定だ。幸い、雨が降り始めた中屋根の外に来る者はいないだろう。息継ぎをし、辛うじて聞こえる程度の声を発する。


「王女殿下のお側にいるのは、あなたです。私ではありません。……私は、いられません」

「何を……」

「あなたもまた、ウィリエス殿下のお側にはいられません」


 この文字列は、決意だ。助けたい存在を助けるために、幸せになってほしい存在を幸せにするために、理屈を並べ立て取捨選択をする。手に届く場所と届かない場所、掴める手と掴めない手、それらを冷徹に区別する。

 悪い言い方をすれば、諦めているだけだ。しかし、失うものは最低限に抑えられる。自身の立場を、自由を、力を自覚しなくては、叶えたい理想は何もかも夢物語に終わってしまう。それがどれほど無様なことかは火を見るよりも明らかだ。ハルヴェルはとっくに、このまま何も変えずに王都を去ろうとは思っていない。


 サァ、と霧雨が髪を濡らす。重くなった前髪の隙間から、ハルヴェルは理想の体現者を見据えた。それに気づいたガルベンも、力強い双眸で理想の体現者を見詰め返す。

 雨の下では長い、信頼を築くには短い沈黙。友好を結ぶためではない、互いの違いを今一度確認するための時間。手を組むつもりはない。慰め合うつもりもない。二人の関係は不変であり、理解を示すことも歩み寄ることもありえない。

 ただ、望む未来が対極にないのなら、互いを蹴落とすことはしない。それぞれが足を踏み出し、それぞれが手を伸ばすだけだ。そこに理由や建前はいらない。ただ一心に、理想を現実に羽化させる。未来は、現実から手招きしなくては現れない。

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