第31話 父親
不意に、アンジェルの双眸がハルヴェルを捉えた。
「――お前は、王女とどのような関係にある?」
鳥の歌声も、風の足音も、全てが消えてしまった。しんとした空気に、金色の陽光が反射する時間。噴水に張った水に沈んでいるかのように、揺らめく部屋の中で静寂が笑っている。ハルヴェルは、危うく反応しかけた。
「……王家と臣下にございます」
可能な限り小さく息を吸い、絞り出した。嘘は吐いていない。文字を交わした当初から、その枠組みは変わっていない。リディエラが立つ場所に、ハルヴェルの手は届かない。
王女が第三王子のお部屋にお越しになっているそうだ、とアンジェルは言った。要するに、遭遇した経験は無いのか、と。言外に聞かれるや否や、ハルヴェルは脳裏で選択肢を紡ぎ始める。
果たして、どう答えるのが最善か。父親にどこまで明かすべきか。他言はしないだろう、だからこそウィリエスの話をした。しかし、リディエラの件は特異だ。ハルヴェルの想像でしかないが、秘密の重みが数段違う。ハルヴェルが勝手に打ち明けて良いものか、そうして悪い作用をもたらさないか定かではない。されど、言える言葉は限られている。
「一度だけ、ウィリエス殿下が倒れられた日にお会いいたしました。しかしながら、王女殿下もご体調が優れないようでございまして」
「確かに、秋頃からお姿をお見せになっていないらしいな。第三王子に対し、王女はどのようなご様子で有らせられた?」
「ご心配なさっていました」
ハルヴェルの口数は自然と少なくなる。一言でも余計なことを口にすれば、ほころびが際限なく広がると分かっているからだ。
ドッグヴァイン辺境伯に悪態を吐いたときとは打って変わって、ハルヴェルの体温は急速に冷えていく。にも関わらず、体の奥底は焦りに焼かれている。まるで、針山の上空で綱渡りをしているかのような気分だ。
リディエラを守りたい、助けたいという思いが、皮肉になってしまわないか恐ろしくて仕方が無い。今この瞬間、踏み出した一歩が、リディエラの首を絞める綱を引いているかのような錯覚に陥る。
この一年続く暗中模索の状況により、ハルヴェルの心は常に疑いを住まわせていた。それは日を追うごとに、何かを選択する度に着々と膨張していっている。
一体、どれほどの時間が経っただろうか。一秒にも半刻にも感じてやっと、心を見透かそうと企むヘーゼルアイはまぶたの裏にしまわれた。
「ドッグヴァイン辺境伯家と王女の距離が縮まっている。王女が第三王子の保護をお求めにならないとも限らない」
そうなれば、ドッグヴァイン辺境伯家はそれなりの対価を得る。それは武力かもしれないし、権力かもしれない。国王が歯止めを掛けると信じたいが、ハルヴェルからすればダグラクスの思惑こそ不可解だ。
しかし同時に、リディエラがドッグヴァイン辺境伯家にウィリエスを任せる場合、十中八九そこにはダグラクスかラインヴィルトの意思が絡んでいる。戦争を疎む少女だ、か弱い弟を放り込むような真似は決してしたがらないだろう。
やはり、ハルヴェルがウィリエスから離れないでいるのが目下の最良だと言える。もちろん、ラインヴィルトの危険性も軽視してはいけない。
「第三王子を王位に据えるつもりは?」
「断じてございません」
「その言葉を覆すな。現在、国の中枢は揺れている。第三王子とて王族だ、何に巻き込まれても奇妙ではない」
「肝に銘じます」
話は終わったとばかりに、アンジェルは腰を上げた。トラウザーズのしわを上品な動作で伸ばし、その長い足を堂々と踏み出す。そこに田舎者の愚鈍な雰囲気は皆無だ。数百年の歴史を負う背中はたくましく、一片の陰りも無い瞳は他者をすくませる。ハルヴェルも例外ではなく、アンジェルのために扉を引きながらも呼吸が苦しい。
一年という空白、そして王都での日々をもってして、父の影は一回りも二回りも巨大に見えるようになってしまった。将来自分が同等の存在にならなくてはならない重圧は、改めて感じてみれば吐き気をもよおすほどに大きい。
しかし直後に、リディエラと関わることはそれをどれだけ上回るのかと戦慄する。厚い睫毛から落ちた涙に、一体どれほどの恐怖と後悔が内包されていただろうか。袖を掴んだ指先に、一体どれほどの悲嘆と切望が内包されていただろうか。
あの日、少女はウィリエスを導くようにと言った。青年の勘違いでもうぬぼれでもなく、ウィリエスを守るようにと暗に願っていた。されど、青年はこうも考えてしまうのだ、弟ただ一人を思う少女を守る存在は、果たしてこの世界にいるのかと。
「あぁ、ちなみに」
「はい」
「王女と第三王子の間柄に関する噂は出回っていない」
「……」
これは敵わない、とハルヴェルはとうとう降参した。
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