第30話 サンドルト辺境伯

 サンドルト一家は、断じて不仲ではない。代々政略結婚で繋いできたとは言え、家庭という一組織として不足ない形を築き上げている。当代の家長、すなわちハルヴェルの父親たるアンジェルも、息子二人には人並みの関心をもって接してきた。良くも悪くも早々に独り立ちした兄のほうはさておき、弟のほうは非社交的な嫌いがあるものの、有能な後継者だと期待している。王都へ送り出したのも、致命的な失態は演じないという信頼があったからだ。保守派を牽引する辺境伯家という自負は、息子たるハルヴェルにも備わっていると確信していた。若者らしからぬ慎重さと疑い深さを、アンジェルは誰よりも高く買っていた。


 と、何の感情も乗せない声色で述べられてしまえば、ハルヴェルに立ち向かう術は無い。


「異論は?」

「いえ、ございません」


 アンジェルは溜め息を吐いた。息子と同じ、アキシナイトを思わせる直毛がさらりと揺れる。

 よく似た二人であるというのに、絶対的な序列がそこには存在していた。貴族の子は、原則的には父親に逆らえない。生きるため、ないしはより豊かに生きるため、男親の権威は絶対的に優先される。ハルヴェルはそれを理解しているゆえに、アンジェルに楯突くことをしなかった。尤も、ハルヴェルのその思惟には父親への敬意もあるのだが。どこまでも理知的に判断を下す人物だと言えるから、ハルヴェルはアンジェルの言をまず受け入れる。いちいち噛みつくのは拙い。


 人払いを済ませた客室は、嫌に静かだった。居住まいを正す衣擦れと、窓の外側から届く鳥のさえずり、木々のさざめき。この親子は元々沈黙が多かったが、今に限っては重力が増していた。そこに漂うのは怒りではない、呆れだ。ハルヴェルは先手を取ることができると過信していた己に対し、アンジェルはハルヴェルを過信していた己に対して呆れている。

 否、後者においては甘いかもしれない。アンジェルがすべきだったのは、ハルヴェルを信じる以上にあらゆる想定をしたうえでよくよく言い含めることだった。セーグルの存在を、その信頼ゆえに危惧していなかった。

 言い方は悪いが、長男をたぶらかした人物だ、次男にもその手が伸びると予感しておくべきだった。アンジェルはセーグルを嫌っていないものの、意図せず他人の懐に入ってしまうこの老人を殊更好んでもいない。恐らくセーグルとの接触で歯車が狂ったと、ハルヴェルから事の全容を聞かずとも容易に想像できた。


「登城してすぐ、ドッグヴァイン辺境伯と会った。お前が第三王子の犬に下ったと、心底不快な言葉を吐き捨ていった」


 ハルヴェルは、耐えた。しかし、アンジェルに促されて口を開く。


「……異論は?」

「申し上げます。僭越ながら、私はウィリエス殿下の顧問として王城におります。犬、などという卑しい言い回しは、ウィリエス殿下にふさわしゅうございません」


 ハルヴェルにしては珍しく、直接的な表現。尤も、犬はどちらだと言わないだけましだが。怒りで震える声は、彼がいかに第三王子を敬慕しているかを物語る。

 その裏に秘されるは、透明な王女への情性。春をその身に宿す少女は、いつからか青年の心に波紋を生じさせていた。ただ日常の回帰を待つだけの青年に、星々の輝きではなく夜明けを渇望させた。麗らかな光に包み込まれた春が、この先も永久に生きていられるようにと、何者にも蹂躙されぬようにと。その愛し子である少年もまた、その小さな足と無垢な双眸で、息吹の旅路を追いかけられるようにと。花が摘まれてもなお色を失わぬ花園のごとく、爛漫な幸福に満たされるようにと。


 アンジェルは、瞠目しかけた。と言うのも、次男がこれほどまでに強い執着心を見せるのは初めてだからだ。

 幼い頃より、ハルヴェルは物にも人にもどこか冷めていた。兄が突発的に実家を出たと聞いても、さようでございますか、と事実を認めるだけだった。良く言えば利発、悪く言えば従順。苦い良薬を黙って飲み下す子供のような、貴族としての素質を生まれながらに兼ね備えた息子。アンジェルが長男の家出をあっさりと援助したのも、いっそハルヴェルのほうが辺境伯に向いていると思ったがゆえ。

 それが、王都に来たことでここまで変わるとは。やはり兄弟か、とアンジェルは苦いのか甘いのか判然としない感慨を覚える。


「第三王子はどの立ち位置にいる?」

「部外者と言っても過言ではないかと。第一王子殿下も王女殿下も、ウィリエス殿下を組み入れようとはなさっていません」

「お体が丈夫でないと聞いたが、ご容態は?」

「第二妃がご用意なさった薬を飲まれています。普段は至って健康なご様子で有らせられますが、晩冬に倒れられた際は高熱が数日続きました」


 聞き、アンジェルは思案する仕草を見せる。ハルヴェルと同じく、第二妃が第三王子の体調に介入しているのが解せない。ラインヴィルトの失脚は考えがたいことに加え、リディエラを除外すれば次いでトランヴァルトが王位に近い、わざわざウィリエスを生かす必要はないはずだ。

 王家と貴族の繋がりを保つ駒にするとしても違和感がある、どうして一侯爵家の出が国政に口出しできようか。ダグラクスの寵妃と言っても、その地位は待遇や愛情の表れであって権力を与えるものではない。ウィリエスの処遇を決められるのは第二妃ではなく、ダグラクスだ。

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