第27話 再会

 ウィリエスの頭を撫でたハルヴェルは、誰の顔も見ずに口を開いた。


「あぁ、急用を思い出した」

「……?」

「殿下を丁重に扱うように」


 侍従も兵も、ウィリエスでさえも、第二妃の命に拘束されている。この場で唯一の例外は、ハルヴェルただ一人。

 ならば、自ら動けばいい。ここにウィリエスを残すのは気が進まないものの、「いつものこと」で今日まで生きながらえてきたのだ、四半刻程度であればさほどの危険性は無いだろう。勝手なことをしている自覚はある。しかしだからと言って、やきもきしながら変化を待つつもりは毛頭ない。


 ふと、思う。この思考は、貴族らしさから逸脱している。貴族のあるべき姿から、人間的なものへと変質してしまっている。

 王族を守ることが責務の一つだと訴える感情と、爵位の継承、ひいてはサンドルト辺境伯家の存続への支障を危惧する理性。誤魔化しと論理が、体の主導権を争っている。

 足を踏み出し感じるは、安定した未来へと続く道の外側。草の根をかき分けた先に、一体何が待つというのか。


 ――バタンッ、と扉が開け放たれた。


 波打つ陽光に映える、青々とした若木。やけに輝いて見えるかと思えば、雨粒をたたえていた。


 予期せぬ、けれど待ち望んでいた来訪者に、ハルヴェルの双眸も色を変える。


「――ハルヴェル……!」

「リディエラ殿下!」


 文字を交わさずとも分かった。精一杯駆けてきたのだろう、息も絶え絶えなリディエラの手を取り、ハルヴェルは寝室に戻る。

 明らかに不健全な弟の姿に、姉は躊躇なく膝を突いて額に触れた。熱があるのを認めると、両手を毛布に滑り込ませ小さな手を握る。祈るように、すがるように目をつむる。


「ウィリエス、ごめんなさい、私のせいね、ごめんなさい……!」

「リディエラ殿下、侍医をお呼びいたします」


 侍従たちを退室させたハルヴェルは、リディエラの隣にしゃがんだ。このような事態に再会を喜ぶ愚者ではない。すると、今にも泣き出しそうなリディエラは首を振った。


「いいえ、ここにいてあげて。医者がどうにかできることではないの……」

「ですが……」

「お願い」


 柔く、少女の片手が青年の袖を掴んだ。震えるその指先に、青年は息を呑む。

 初めてだった、こうして触れられるのは。二回目だった、こうした弱い姿を見るのは。一度目は悲しくも嬉しそうに、今はただ悲壮に。

 だから、青年は頷いた。立ち上がるための力を抜く代わりに、触れたい衝動を抑え込んだ。


 まだ、と二人共信じている。まだ何一つ終わっていないと、静かな部屋で耐えている。雪は止んでいないが、永久に降り続けると確定したわけでもない。いつかは晴れ、気温が上がり、緑が芽吹く。眠り、覚めれば花が咲き、蝶も蜂も舞う。


「ウィリエスは……これまで、元気にしていたの?」

「ええ。リディエラ殿下にお会いしたいと、常々おっしゃっていました」

「まだ子供ね。けれど……私も」


 会いたい気持ちについてなのか、子供であることについてなのか。きっとどちらもだろうと、ハルヴェルは深く問わなかった。


 今日のリディエラは香水を付けていない。図書棟で会っていたときと同じ、ほのかな甘い香りだけが漂っている。容易く手折られてしまいそうな、花瓶に生けられては不格好になってしまうような花。忘れたくないから触れたいのに、失いたくないから触れたくない。指先から伝わる温もりが、どうか永遠であるようにと。


 本当は、とリディエラはこぼした。ウィリエスは、しばしば体調を崩すのだと。特に、冬場はベッドから起きられない日のほうが多いのだと。

 だが、今年は違った。リディエラが来ない代わりに、ハルヴェルが日を空けずに訪れていた。おかげでウィリエスは毎日を健やかに生きることが叶い、リディエラも窓から毎日弟の様子を見ることができた。今日訪れたのは、姿が見えないことに嫌な予感を覚えたからだ。


「寂しかったのね、私は良くて二週間に一度だもの。ハルヴェルがいたから、この子は大丈夫だった」

「ですが、私はウィリエス殿下の不調に気づくのが遅れました」

「無理もないわ。それに、決してあなたのせいではないのよ」


 私のせいなの、とリディエラは顔を伏せた。流したままの髪が、さらりと揺れる。

 横顔を隠され、ハルヴェルの心に渇きが生じた。今回も、ハルヴェルは何も知りえない。分かりたい、助けたい、その思いだけが募っていく。手を伸ばせば届く距離にいる一方で、見えない隔たりが邪魔をしている。誰よりもリディエラの側にいるはずなのに、誰よりも遠い気がする。醜聞も身分も取り払えたなら、一体どれだけ楽なことか。


 パタン、と外のドアが開く音がした。訓練された足音が二人分、真っ直ぐに寝室へ入ってくる。ただの兵ではない、騎士という称号を持つ強者たち。ハルヴェルには何の反応も示さないが、内心では下世話な危惧をしているだろう。

 彼らは何の温度も宿さない双眸で、リディエラに帰還を求めた。さすれば、彼女は従うしかない。ウィリエスの額に口づけを落とし、立ち上がる。


「顧問らしく、ウィリエスを導きなさい」


 少女は、偽りの姿で青年を呼んだ。涙に濡れた瞳は、もう見えない。水紋一つかたどらない湖の上、細く高く幹を伸ばす樹木のごとく、一人きり。鳥も留まらない、魚も暮らさない、形影相弔う姿。

 その隣に、寄り添えるよう。


「仰せのままに、王女殿下」


 深く頭を垂れ、ハルヴェルは誠の忠誠を表した。

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