第26話 握られた命
それは突然であり、必然のことだった。
慣れた足取りで、ハルヴェルはウィリエスの部屋を訪れた。華々しい王族の居住区画を通り抜ける間、視線を受けることはすでにない。誰もが受け入れたように、ないしは諦めたように各々の日常へと青年を組み込んでいる。
もうすぐ春だ。弱っていく冬とは対照的に、春が生まれる。短い畢生に狂い咲かんと、一年振りの熱と色をばらまく。それは命を削りながらの悲願であり、欲を持たない決意そのもの。暖かく、赤く、世界を異に染め変えていく。ただ息を潜めているだけの冬は終わるのだ、真新しい太陽とまばゆい新緑が目を覚ます。
扉の前まで行けば、守衛はノックもせずにハルヴェルを招いた。暖炉の熱気が肌に触れ、早く、早くと冷えた体を急かしている。足を踏み入れ、姿を探すために視界を揺らす。
――子供が倒れていた。
「殿下!ウィリエス殿下!」
外れてしまいそうなほど、ハルヴェルは両目を見開いた。駆け寄り、ぐったりとした体を抱き起こす。
呼吸は浅く、体温は高い。時折咳もしている。風邪と言うには重症だが、医学の覚えがないハルヴェルには診断できない。そうなれば、向かうべき場所は侍医のもとだ。可能な限り揺らさないよう抱き上げ、扉を振り向いた。
しかし、続き部屋の寝室からパタパタと複数人が現れ、立ち塞がった。
「サンドルト様、寝室へ」
「医師は呼んだのか?」
「……いつものことでございます。とにかく、ベッドに寝かせてあげてください」
「『いつものこと』?要するに、医師は呼んでいないと?」
「王妃のご指示でございます。このままでは殿下も冷えてしまうでしょう、お早く」
侍従の二人は代わる代わるハルヴェルをなだめた。他に、もう一人がてきぱきと水や布を用意している。彼らは一様に迷惑げにしていたが、上位者の反抗には焦っているようだった。
追及したいことはいくつもある、命令したいことも。されど、このまま立ち往生して害を被るのはウィリエスだ。ハルヴェルは苛立ちながら、その心中を故意に醸し出しながらウィリエスを寝室へ運んだ。
ベッドに横たえ、侍従の手から奪った布で柔らかい肌の汗を拭う。額は火傷するほど熱いのに、指先はぞっとするほど冷たかった。
侍従たちに言いたいことが三つある。一つ目に、なぜウィリエスを床に放っていたのか。倒れてそのままの体勢だったのだろう、子供はうつ伏せで力尽きていた。何よりも先に抱き上げ、せめてソファーに寝かせるべきだ。二つ目に、なぜ寝所の用意が調っていなかったのか。ハルヴェルが入室した際にいなかった侍従は、全員寝室にいたらしい。ウィリエスの不調がいつものことならば、常にベッドを作っておく義務がある。最後に、なぜハルヴェルを通したのか。通すなと言いたいわけではない、むしろ通されなければウィリエスを助けられなかった。それでも、主が弱っている場に第三者を入れるなど有事を手招いているようなものだ。
今回の最善は、ウィリエスを速やかに介抱し、侍医を呼び、ハルヴェルも含めたその他の者を入室させないことだった。それができない侍従のもとに、それが推奨されない部屋に、ウィリエスの身の安寧があるはずはない。
「薬は?『いつも』はどうしている?」
「特に何も……」
「『何も』?医者も呼ばず、ただ自然な回復を待っていると?それも第二妃が?」
ハルヴェルはわざとそう呼称した。先の会話から、ここの侍従たちは第二妃に手引きされた者である確率が高い。そう仮定すると、第二妃は第三王子の軟禁に一枚噛んでいる。国王ないしは第一王子に強制されたかどうかは不明だが、どちらにせよ第三王子の味方ではない。すなわち、その小間使いである侍従たちの対応を黙って受け入れるわけにはいかない。
問い詰められた侍従は頷いた。正か偽か、どちらが第二妃あるいは自身の保身に繋がるか判断しかねたように、どもりながら肯定を返した。
「第二妃には医療の心得が?」
「さぁ……」
「あるのか、無いのか聞いている」
「お、恐らく無いかと……」
「――侍医を呼べ」
ウィリエスの顔色を観察したまま、ハルヴェルは毅然と言い放った。
灯火が息絶えるとき、それは決して静かなものではない。風に舞う灰の中、大きな口で空気を食む。最後の最後、熱と力を振り絞り、強大な見せかけを作り出した一瞬の後に死ぬ。何者も、死に際は生前に勝って美しい。
ハルヴェルの鋭利な眼光に怯み、侍従はうろたえた。しかし、他の侍従と目配せするだけで動こうとはしない。それがハルヴェルの機嫌をいっそう損なっていると分かってはいるが、どうにも外部の人間を呼べない事情がある風だ。
「聞こえなかったか?医者を呼べと命じている。それとも、第二妃が私の命令は聞かぬようにとでも?」
「いえ、そういうわけでは……。ただ、王女以外はお通しできないことになっておりまして……」
第二妃の命かと尋ねる声に、そうだと小さな声が返る。そのことに、ハルヴェルは愕然とした。
ウィリエスがハルヴェルを選んだあの場面は、最善策だったのだ。周囲が第三王子に少なからぬ注意を向け、国王の権限をもってしてももみ消せない瞬間。自他共に波及する影響を覚悟していたかは謎だが、小さな手で何かしらのきっかけを掴むための最良な機会だった。姉も自分も監視されているならば、その強制力がなりを潜める第三者の前で状況をかき乱すまで。
最初から、ウィリエスにはこの塔で生きる道しか許されていなかった。そこになぜハルヴェルを巻き込んだのか、正確には分かりようもない。だが、この優しい少年のことだ、誰かを助けようとした結果ではないのか。ハルヴェルが理由を尋ねた際、ウィリエスはリディエラと同じ悲しげな微笑みを浮かべていた。リディエラの守りたいものがウィリエスならば、ウィリエスの守りたいものもまた、最愛の姉ではないのか。
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