第23話 冬の図書棟

 冬の間、城への客人はめっきりと少なくなる。積もる雪では馬が走らず、もてなしにふさわしい食料も無いからだ。では官僚や使用人はどうするのかと言えば、最低限の人員のみ個室や居住棟が用意されている。具体的には大臣などの重鎮と、王族も含め城の住人の世話をする侍従など。

 ハルヴェルは強いて言えば前者に分類され、それなりの客室を与えられている。部屋を出た瞬間に公私が切り替わる面は油断禁物だが、生活に不自由は感じていない。辺境伯家の身内ともなれば、それ相応の応対が返されるのは当たり前。


 あえて苦情を言うなら、第一王子との時間が増えたことだろう。ウィリエスとの面会日の合間を縫って、ラインヴィルトに公務を手伝わされる時間が勝手に予定されている。せっかく王城に留まっているのだから、というのは好都合な言い分だろうが、行動を探られているのだとハルヴェルは思う。第三王子の外部との接触は、疑いようもなく歓迎されていない。サンドルト辺境伯家が第一王子派に連なったと確定されても困る、不用意に接したくないのだが。


 さて、ウィリエスともラインヴィルトとも会わない今日、ハルヴェルは何の気無しに城内を散策していた。毛皮の帽子とコートにその身を包み、ブーツで地上を歩き回る。砂糖に漬けられた園庭、彫刻作品と化した噴水。吐息は揺らめき、濁った空に消えていく。

 あの姉弟は凍えていないだろうかと考えては、弟しか確認できないことに漠然とした不安を覚える。しかしそれも一瞬で、らしくない変化を誤魔化すように、ザク、ザク、とわざわざ道を外れて雪を踏んだ。小気味よい音は、思考をかき消すのに打ってつけだ。


 城の裏手へと回り、思い出と後悔が詰まった図書棟へ。――どうしてか、明かりが漏れている。

 扉を開けてみれば、いつもの席にセーグルがいた。


「先生。なぜ、こちらに?」


 セーグル司書長は、残念ながら城にとって必須な人材ではない。郊外に家を持っているのは確認していたから、雪が止むまでは会えないと思っていたのだが。

 セーグルは苦笑し、ハルヴェル君こそ、と口を開いた。


「リディエラ様のお気遣いにより、この季節は城内に部屋を賜っているのです」


 身に余る待遇ですね、と心底恐れ多くもセーグルは言う。いつかの年以来、リディエラはセーグルの居場所を毎冬用意するようになった。城から離れる必要がないように、手を尽くしてくれる。それがどれだけありがたいことか、セーグルは身に染みて分かっていた。この地を後にする度、失った存在の大きさが胸を締めつけるから。


「聞きましたよ、第三王子殿下の顧問を拝命したと」

「ええ……ウィリエス殿下ご自身は、友人になることをお望みなのでしょうが」


 ハルヴェルがこぼした一言に、セーグルはやや驚いた風だった。されど、怪訝に向けられた視線には笑みを作る。ハルヴェルはその意図を掴めない。経緯までは知らないのかと思いあらすじを説明しても、セーグルは感慨深そうに笑みを深めるだけだった。

 知り合って五年以上、この表情は何度か見たことがある。主に兄へと向けられていたそれは、愛弟子の成長を喜ぶものだと思っていた。だとすれば、ハルヴェルに注がれる道理は無い。全く成長していないどころか失態を演じてばかりの身だ、祝福されるいわれは何一つ存在しない。


 無意識に、目が書庫へと移る。


「あれから一度も」

「……そうですか」


 何が、とは聞かない。書庫に纏わるハルヴェルの記憶は、リディエラとの時間だけだ。

 埃の光る薄暗い部屋で、時がゆったりと流れていた。感じた視線を見返せば、恥ずかしそうに微笑まれた。たおやかな声で、思い浮かぶ文字を聞かせてくれた。

 手を伸ばせば届く、伸ばさなくては届かない距離で話すのは、有り体に言えば楽しかった。より精巧に言うのであれば、花樹から覗く光のように、何にも代えがたい意義があった。今となっては二度と戻らないかもしれない、それほどまでに希有な輝きを。


 王城に滞在して二ヶ月弱、ハルヴェルは未だリディエラと再会していない。そもそも会おうともしていないのはさておき、ラインヴィルトとトランヴァルトとは城内ですれ違うことを鑑みれば、リディエラにだけ遭遇しないというのは奇妙だろう。

 噂を聞くに、リディエラは秋頃から部屋に籠もりがちだそうだ。すなわち、ラインヴィルトの策略に嵌まって以来。一方で商人が招かれる頻度は多くなり、交渉の場もいっそう豪奢な応接間に変わった。金銭の浪費は相変わらず、むしろひどくなっている。巨大な武器庫を満杯にしたいのか、荷を運び入れる使用人の姿が後を絶たない。無論、冬が始まってからは途絶えたが。


 一つ、嫌な予想がある。リディエラは、ウィリエスのように閉じ込められているのではないか。父ないしは兄の機嫌を損ねたがゆえに、己の足で歩くことを許されなくなったのではないか。

 されど、この仮説では矛盾が生まれる。外部との接触を禁じることが可能なら、なぜ誰も乱費を止めないのだろうか。ハルヴェル一人との接触のほうが重大だとはとても思えない。過激派ならともかく、王族からの疑いを買うほどサンドルト辺境伯家は無能ではない、ハルヴェル個人も。リディエラは、ダグラクスは、ラインヴィルトは、一体何を考えているのか。


 ふと、セーグルは目を細めた。


「幼い頃のリディエラ様は、子守歌や寝物語を教えてほしいとよく言っておられました。今思えば、第三王子殿下に早くから会っておられたのでしょうね」


 記憶をたどるかのように目を閉じる。こっそりと通うこの場所で、リディエラは理由を誤魔化しながら教えを請うた。泣いてしまったとき、寝かしつけるとき、生まれたばかりの子にはどう接すれば良いのか。また、その子の母のためにできることはないか。

 ダグラクスが赤子を持ったのだと察していたセーグルは、複雑な心境ながらも知識を与えた。リズリエラを見放しておいて他の女性と新たな子を設けるなど、部外者だと分かっていても到底受け入れられなかったが、リディエラが愛するなら自分も尽くそうと考え直した。

 リディエラは段々と活力を失っていった。あるときから、人が変わったように演じるようになってしまった。時折、今度は体が弱い子供の育て方を聞いては、泣いてしまいそうになりながらも安堵の表情を浮かべていた。


 火が弱まった暖炉に、新たな薪をくべる。今日は殊更に寒いですね、とセーグルが言えば、ハルヴェルも頷いた。


「第三王子殿下がどのような方か、聞いても?」

「そうですね……。ふとした表情や仕草が、リディエラ殿下に似ておられます。姉君をとても慕っておられるようで」


 ハルヴェル、と嬉しそうに呼ぶ姿一つ取っても、ウィリエスはハルヴェルがリディエラに抱くのと同じ感情を呼び起こす。一度泣かれてしまえば、悲しみと焦りがない交ぜになった。解き明かせないもどかしさ、解決できない歯がゆさが、ハルヴェルの肺を満たした。

 誰よりも側にいる、そのことに間違いは無いだろう。しかし、守ることや救うことはできていない。ただいるだけ。ただ聞いているだけ。それでは意味が無いのだと、後になって思い知った。そのような愚かな行いは、繰り返したくない。


「近いうちに、ここへお連れしたいと考えています。尤も、許可が下りる可能性は低いですが……」


 ――はっとした。

 半ば独りごちながら、右手を顎に当てて尋ねる。


「そういえば、リディエラ殿下はいかようにこちらへ……?とても……何と言えば良いのか……」


 普段と装いに大差があるうえ、不格好なドレスだった。自身の部屋から図書棟まで、誰の目にも留まらずに移動するのは無理だろう。見て王女だと気づく者は多くないかもしれないが、真実をさらけ出さずに済むかは博打だ。ハルヴェルが知らない、隠された通路でもあるのだろうか。

 すると、セーグルは困ったように目を逸らした。口止めされているのかとハルヴェルが問えば、ハルヴェル君には構わないでしょうが、と言いつつも暗に回答を拒まれる。秘匿して然るべき手段ではないが、そう易々と明かせるものでもないのだろう。もしリディエラが隠れてここまで来ていたのなら、その方法でウィリエスを連れてこられないかと思ったのだが。第三王子殿下には恐らく不可能でしょう、と言われてしまえば、無理に聞き出す気にはならない。


 いくらかの世間話をした後、ハルヴェルは図書棟を後にした。セーグルと話す度、不思議と頭の中が整理される。今するべきことは、ウィリエスの居住環境の改善と、リディエラの状況の確認だ。

 ときにウィリエスは、ここしばらく姉が会いに来ていないとも言っていた。ハルヴェルの言葉に過敏な反応を示したのはそのせいだろう。できることなら、二人が会える時を作りたい。行動に移すなら、手遅れになるよりずっと早くに。

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