第20話 弟
ウィリエスが水道に手を伸ばしたところで、ハルヴェルは事のおかしさに気づいた。
「殿下、何をしておられるのでしょうか?」
「あ、え、蜂蜜水を用意しようと思って……」
キュ、とひねる鈍い音。トプトプ、と容器が満ちていく音。あまり好きではないですか、と不安そうな声。
――立ち上がりそうになって、留まった。
「いいえ。お気遣い、ありがとうございます」
程無くして、甘い匂いが部屋を漂った。ウィリエスはそっとグラスを手渡すと、よじ登るようにして椅子に座る。一口飲むや否や、安心したようにその頬が緩んだ。
「殿下、お聞きしてもよろしいでしょうか?」
「あ、はい」
「いつも、ご自分でこのようなご用意を?」
おいしゅうございますが、とハルヴェルは笑った。子供相手だから通用する、取り繕った笑み。この部屋の、否、この塔の気味悪さに目眩がしそうだった。誰も彼もが、ウィリエスへの関心を微塵も抱いてない。ただ生きていれば良いとでも言うかのごとく、本当に最低限の生活環境しか整えていない。
言わずもがな、王族の最低限と人間そのものの最低限は違う。前者は後者を前提とし、些末な動作すらも他人に代わらせるものだ。第三王子たるウィリエスは、それを享受しなくてはならない、使用人に世話をさせるのは王族の義務なのだから。
ところが、この空間においては全てが否定されている。確かに侍従として、兵士としてこの部屋にいる者たちが、一体なぜ微動だにせずいられるだろうか。何より、明らかに人材の質が悪い。侍従の姿勢一つ取っても、庭師のほうがずっとましだ。制服の皺は、ハルヴェルが入ってきた際に慌てて立ったからだろう。壁際で息を潜めるソファーの座面が張りを取り戻す様子は、意識するまでもなく確認できた。
心底不思議そうに、ウィリエスは目をしばたたかせた。
「あ、はい……。――お姉様が、自分で用意したほうがいいと言うから」
されどその答えもまた、ハルヴェルの予想を覆すものだった。
「姉君……王女殿下が?」
「えっと、自分で入れるのが一番安全だからと……あ、蜂蜜もお姉様が持ってきてくれるんです」
ウィリエスはふにゃりと笑った。頭を撫でながら、きちんと飲みなさいね、と言い聞かせる声が好きだ。少なくなった壺を見せれば、偉いわね、と褒めてくれるのも嬉しい。ウィリエスにとってのリディエラは、この世で唯一とも言える家族。一人寂しい場所で暮らしていても、また姉が会いに来てくれる、そう信じられるから怖くない。
「……殿下は、なぜ、私にお声掛けくださったのでしょうか?」
それは、素直な問いだった。ウィリエスが誰からハルヴェルの存在を聞き、臆病な性分を抑えてまで会いに来たのか、未だに何も知らない。
話から推測するに、リディエラはこの場所を定期的に訪ねているようだ。それも、幼い弟を守るような言葉を残しながら。
であれば、ハルヴェルについて話したのはリディエラだろう。保守派の筆頭であるサンドルト辺境伯家なら、ウィリエスを王位争いから隔離できると考えたのかもしれない。あるいは、別の何かをハルヴェルに期待している。どちらにせよ、ウィリエスを守らなくてはいけないことに違いはない。
ウィリエスの表情は、悩ましげに変わった。ちらと周囲を窺い、困ったように俯く。
「あ……優しそう、だったからです。お、お友達が欲しくて……」
「……光栄でございます」
嘘を吐いている。真意は他にあるのに、口にできない理由があるとでも言うように。刹那、青年の脳裏で少女が思い描かれた。
出会ったばかりの頃、何かを耐えるように引き結んだ口元。兄の話を振ったとき、ぎこちなく弧を描いた唇。遠くを見詰める度、何でもないのよ、と誤魔化す声は震えていた。思いを込めた言葉に涙をこぼし、無事を祈るように両手を組み合わせていた。カスミソウのように清らかで美しいかんばせは、ない交ぜになった感情に汚されていた。
誰かが、少年は母親に似ていると言った。愚かで恥ずかしい生き物だと、人間ではないと嘲った。果たして、本当にそうだろうか。ハルヴェルの目には、ウィリエスはリディエラに似ているように映る。幼い文字で心を紡ぎ、たどたどしい表情で本心を隠す、その様はまさに姉のものだ。お姉様、と言う音色には、信頼が溢れている。
今日のところは、蜂蜜水をご馳走になってお暇することにした。また来てくれますか、という寂しそうな声色に、もちろん、と誠意で答える。そうして見せられたあどけない笑顔は、やはり姉のそれとよく似ていた。
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