第13話 失意の中

 作物の実りと対照的に、木の葉は弱っていく。紅葉と言えば聞こえはいいが、所詮は朽ちるための準備だ。耐えようとすれば色なき風に虐げられ、諦めれば虫の肥やしにされ、いともたやすく散っていく。始まりがどれだけ鮮明だろうと、終わりは決まってうら悲しい。


 ハルヴェルが図書棟に行くと、セーグルは瞠目し、すぐさま切迫した様子で駆け寄った。


「ハルヴェル君、一体何が……いえ、その前に言づけを伝えなければ……」

「――先生、申し訳ありません」


 あの瞬間から、ちょうど七日。悶々と時間を消費した後になって、ハルヴェルはようやく再訪を決心した。

 外から眺めて気づいたことに、ここには本当に人が寄りつかない。外れにひっそりと建っているせいか、誰にも見えていないかのようだった。

 文字通り、この建物はリズリエラ正妃の物であり、セーグルの心の住処であり、リディエラの中庭だった。常に自身を奮い立たせなくては生きていけない少女の、断じて奪われてはいけない安息の地だった。にも関わらずリディエラが二度と来ないというのは、どうしようもなく悲しいことだろう。そして、それを招いたのが自分ではないと言うことが、ハルヴェルにどうしてできるだろうか。


 リディエラ様は、と震える、セーグルの声。


「申し訳無いとおっしゃっていました、ひどいことを言ったと……」

「……本当に……」


 王族らしくない、とハルヴェルは胸中で呟いた。

 いつも、いつも、リディエラはあまりに素直だ。掴んでいなくては消え去ることが恐ろしいのに、触れては壊れてしまいそうで、嘘の一つも言えなかった。口からこぼれていたのは、いつだって無機質で、無関心な文字。唯一話せた心の内は遅すぎて、別れの前兆だったのかとさえ思う。もっと早くに何かを言えば、この結果は変わっていたかもしれないのに。


「私は……」

「……」

「……いえ、何でもありません」


 今日は失礼します、とハルヴェルは頭を下げた。しばらくここに来なかったのは、リディエラが二度と来ないことを事実にしたくなかったからだ。気づかないまま、知らないままでいれば、これ以上悪い現実はかたどられないと勘違いした。

 そしてついにここに来たのは、もしかしたらリディエラがいるかもしれないという浅慮があったからだ。何を言うべきかも分からないまま、会えば何かが変わると愚かな考えを抱いた。手遅れであると気づいていながら、まだ手を伸ばす余地があると信じ込んだ。あの日の涙を夢にしたくなくて、あの日の叫びを真実にしたくなくて。


 外はすっかりと秋めいていた。いっそ冬になってしまえば、そうして季節がもう一巡してしまえば、と無責任に投げやってしまう。残りの一年は、とてつもなく長く辛いものに感じられる。王都に来たときとは違う、後悔にさいなまれた感傷だ。リディエラに出会わなければ、出会うのが王女だけであったならば、もっと穏やかに日々の経過を望めただろう。

 これが最後だ、と、ラインヴィルトの声が脳裏で反芻された。よもや、国王を前にして終わらせるという意味だったのだろうか。ハルヴェルの思考は、全てが見当違いだったのか。


 ――ザァッ、と吹きすさぶ風。


 はたと顔を上げた先には、苺色のドレスを着こなす女性が一人。気づけば、ハルヴェルは王城の門扉まで来ていた。見ない振りをして通りすぎることもできるが、一応親交がある人物なので、目を合わせてから立ち止まった。


「こんにちは、フロータス殿。今登城したところでしょうか?」

「こんにちは、サンドルト様。ええ、豊穣の儀の準備で参りました」


 真性の淑女は、裏側を感じさせない顔で微笑んだ。

 豊穣の儀では、選定された貴族息女が神に感謝と供物を捧げる。太陽と穀物を模した黄金色の装束に、豊潤を意味するブドウの冠。教皇の祈りだけが聞こえる荘厳な大聖堂で、穏やかな冬と新たな春の訪れを願う。縁を結んだブランジルス侯爵家の後押しもあり、カーニャはそのうちの一人に選ばれていた。


「お会いできて良うございました。いずれ伝達人が参りましょうが、ルアン様が豊穣の儀の七日前はいかがかと」

「……あぁ」


 先日の件ですね、とハルヴェルはやや間抜けな反応をした。比較的に質素な食事が供される豊穣の夜を目前にして、豪勢な食事を振る舞う気は無いだろう。しかし、それでも会食は会食だ、翌日は酔いと胃もたれで疲弊する確率が低くない。だからと言って冬はすぐそこまで迫っているから、豊穣の儀の直後にはできないだろう。忙しくはなるものの、会食の日取りとしては妥当なところだ。

 この時期の花は専ら色味が渋い、と頭の隅で考える。いくらハルヴェルと身分が同等でも、招かれた以上手土産の花束は必須だ。ルアンとカーニャは婚約の仲にある、ブランジルス侯爵家には、これまでフロータス伯爵家から数多のそれが届いているに違いない。用意にはそれなりの慎重を要するだろうか。


 花は好きよ、枯れ際は悲しいけれど、と言った少女には、贈ることができなかった。好きな花を聞くことさえ、しなかった。うかつに聞いてしまえば、拒まれてしまいそうで。


 ――驚いたような視線に、意識が戻る。


「……何か?」

「失礼いたしました。不躾なことを申し上げますと、何か愁い事がおありなのかと思いまして」

「……そう、ですか」


 夏に会話をしたときも、カーニャはわざと切り込んだ。ここぞという場面で思わせ振りな表情を作り、相手に語らせる。他の息女の憧憬が厚いのも、こうして相談に乗ってきたからだ。そう悟ったハルヴェルは、すんでのところで同意を相槌に切り替えた。


 自覚は、ある。どうにも、あの日以来調子が狂っている。否、もっと前、最初の瞬間から、ハルヴェルは自身が徐々に変化しているのを感じていた。

 静かな領地でただ文字と相対していた日々の自分は、一体いつからいなくなってしまったのだろうか。王都に来ることを煩わしく思い、何の問題にも巻き込まれないように願い、可能な限り早く帰ろうと考えていた自分は、いつから。


 一緒にいれば似ると言う。両親からも祖父母からも、側にいるから余計なところまで似た、と兄の面影を愛しそうに重ねられてきた。都度、自分は兄ほどの変人ではないと不満を抱いたものだが。

 きっと、今の自分はリディエラの影響を受けているのだろう。思えば半年以上だ、そう不思議なことでもない。印象と真逆に穏やかで寂しい少女の、雲間から漏れる日光のごとく淡い表情。ねぇ、と他愛無いことを尋ねる、静かで優しい声。戸惑いがちに向けられる微笑に誘われたのは、一度や二度ではない。喜色をにじませる目元を直視できなかったのも、数えられるほどでは。


 ハルヴェルは、カーニャに愛想笑いを手向けた。


「長話をしましたね。滞りなく終えることを祈っています」


 元より打ち明けるつもりは毛頭無いが、これ以上踏み込まれれば、いらぬ言葉を発してしまいかねない。カーニャは敏い、もし第一王子の言も加わるのであれば、ハルヴェルとリディエラの関係に感づくだろう。いっそ明らかになってしまえとやけになるほど、ハルヴェルは落ちぶれていない。

 すると、カーニャは潔く引き下がった。頭を下げ、同じく愛想笑いを返す。


「私のほうこそ出過ぎた真似をいたしました、お詫びいたします。どうぞ、穏やかな午後をお過ごしくださいませ」


 そのしゃんと伸びた後ろ姿は、満開のユリを想起させた。決してうぬぼれではない矜持を背負い、真っ直ぐに道を歩む。


 この世に生まれた多くの人は、その道を自ら選ぶことなど叶わない。しがらみがあるからこそ自由を持つ者、生まれながら檻に囚われ死んでいく者、その二種の違いはあれ、誰も彼もが用意された道を行く。

 ハルヴェルには、前者の自覚がある。貴族だからこそ自由が与えられており、貴族だからこそ望む自由が無い。がんじがらめの糸に封じられた手では、茨の先に進めない。力任せに糸を引きちぎってしまおうなどと、純情で馬鹿なことは決心できない。


 空の下に出ると、暗鬱とした雲が重なっていた。今にも雨が降りそうなので、ハルヴェルは重い足を無理矢理動かした。王城の記憶が心を責めるなら、さっさと家に帰ればいい。最初から、何をしようとしていたわけではなかったはずだ。会っているうちに会いたくなった、ただ、それだけのこと。そこからどうにかしようと、指の一本さえ動かさなかった、だから導かれた当然の帰結。最初から、自分にはどうしようもなかったはずだ。

 しかし、飽かずに考えてしまう。何かできたのではないか。セーグルができないことも、貴族である自分ならできたのではないか。書庫に通う以上に、するべきことがあったのではないか。答えが出ない自問を繰り返し、浮かんで消えない記憶に触り、あの場所の香りとあの時間の温度を反芻する。己の運命がまだリディエラのそれと交わっているのではないかと、やはり詮無きことを考える。


 ふと思い出すのは、いつかの少女の言葉。ハルヴェルの二年という期間に、なぜか重きを置いていたように思う。まだ互いを警戒していた頃だ、別れを惜しむほど親密ではなかった。そして同時に、別れを催促した様子でもなかった。この言葉の意図は、一体どこから。

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