第10話 計略Ⅱ
ハルヴェルが思考を現実に戻したところで、ラインヴィルトも再び歩き始めた。呼ばれた応接間があった棟とは対角線上の棟に入り、廊下の角を東へ曲がり、随分と行ったところで階段に足を乗せる。
その瞬間、ハルヴェルの頭の中に一つ浮かんだ。
応接間があったのは、南東の棟。
応接間を出た後は、西側へ歩いた。
西側の回廊でリディエラ王女と邂逅した後、北西の棟へ入り、東側に戻った。
しかし、回廊は東側にもある。ハルヴェルは王城の全容を理解しているわけではなく、ラインヴィルトの行き先も知らされていないが、今たどってきたのはとんだ遠回りに違いない。目的地も東の部屋なら、東側の回廊を使い隣の棟へ行けばいい。応接間を出発した後わざわざあの回廊を使った意味は、無い。
――ラインヴィルトが視線を寄越し、笑った。
あぁ、とハルヴェルは合点が行った。同時に、己の甘さに愕然とした。
ラインヴィルトは、端からハルヴェルとリディエラの繋がりが目的だったのだ。リディエラが今日あの瞬間に西側の回廊を通ると分かっていたから、ハルヴェルを伴って足を運んだ。ハルヴェルとリディエラ、交流があるはずのない二人の遭遇を企てていた。
であれば、新たな疑問が生まれる。ラインヴィルトの意図は何か、それが全く推測できない。サンドルト辺境伯家が王女派に連なるのを妨害したいなら、もっと衝撃的な話を引き出すか、そのような場面でハルヴェルとリディエラを引き合わせる必要がある。
「商談」という表現は、リディエラが商人と会うことを指し示したのだろう。今頃、争いの火種にしかならない武具や無駄に高価な衣装を物色しているはずだ。第一王子も王女に負けず劣らず嫌味たらしい。しかし、それは公然の事実とも言えることであって、ハルヴェルのリディエラへの好感情はついええない。ならば、一体なぜ。
「ここだ」
ようやくたどり着いた、しとやかな執務室。空き部屋と言うには居心地が良すぎる、と思いつつ、ハルヴェルは無礼にならない程度に見渡した。
白百合色のカーペットに導かれた先で、ウォールナット材のデスクが鎮座している。名匠が手がけたのだろう、脚は美しいうねりを描きながら厚い天板を支えていた。これと揃いの意匠で、いくらか小さなものがカーペットを取り囲むように二台。それらの上に羊皮紙の束が用意されているのは、ラインヴィルトがあらかじめ指示を出しておいたからだろう。おかげで、空き部屋なのに最低限の花や絵画が飾られていた。
ラインヴィルトに勧められ、ハルヴェルは中央のデスクに向かって左側、そしてラインヴィルト自身は右側の椅子を引いた。
「それは領地ごとに提出された報告書だ。陛下が確認なさりやすいようまとめられるか?私は収支報告を整理する」
「かしこまりました」
ラインヴィルトの思惑は不安をあおって仕方無いが、仕事を疎かにして心象を悪くするほうが良くない、ハルヴェルは黙って書類を手に取った。どうやら、不満や改善を諸侯の裁量で記したものらしい。当然領地によって文量や内容に差があり、領民の意見をそのまま記載しているものもあれば、何も無いとして終わらせているものもある。
まず、ハルヴェルは内容に応じて仕分けることにした。それをまた重要度の順番で並び替え、新しい紙に概要を書き連ねる。報告書はほぼ全て国王のもとに届けられるが、国家元首ともなれば小国だろうと暇ではない、不必要なのに端から端まで目を通すのは時間の浪費だ。よって、国王との繋ぎによる所見でもって終わらせる場合もある。ハルヴェルとラインヴィルトは今、その作業をしているところだ。
フロータス伯爵領の報告書には、春に出荷する花木の不足について書かれていた。大量の花が要望される祈念の儀は年々規模が拡大する傾向にあり、王都のみならず郊外でも祭りが催されるようになっている。結果として花木の出荷先は増え、一方で生産量は大して変わらない。フロータス伯爵は、品薄状態に陥ることを懸念しているらしい。
葉のさざめきが聞こえそうなほど静かな空間で、羊皮紙を擦る音だけが不規則に続く。ハルヴェルにとっては、領地で十年以上、王都で半年間慣れ親しんだ生活音だ。前者では兄と共に、兄が領地を離れるようになってからは一人で紡いでいた。生まれたときからそうだったかのように、本を読むときに他人を必要としなくなった。
それが少し変化したのは、王城の書庫に招かれてから。他人の音があることに、いつの間にか慣れていた。他人と吐息が重なることに、いつの間にか安らいでいた。一人では物足りなさを感じるほどに、他人が欲しくなっていた。
――誰か、である必要はない。そう願うべきでも、ない。
甘やかな金糸、冷えきった紺碧。作業を完了するや否や、ラインヴィルトは愉しそうに笑った。その薄い唇から吐いた文字で、混沌の中へと誘った。
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