第9話 計略Ⅰ
現実は、突然転換期を迎える。
秋の豊穣の儀を間近に控えたある日、ハルヴェルはラインヴィルトが待つ応接間へ呼ばれた。
「君は大変優秀だと聞いている。文官からの誘いもあるのだとか」
「滅相もないことでございます。愚父の跡目として、日々精進するのみでございます」
ハルヴェルは恭しく頭を下げた。胸中では、懐疑心がぐるぐると渦を巻いている。なぜ自分が招かれたか、この世辞は挨拶代わりか本題の前置きか、全てを把握しようとするあまり鳥肌が立ちそうだ。王都に来て以来、王族に見咎められるような失態を演じたつもりはない。
ラインヴィルトとの確定的な接触は、星合の儀が最初で最後だ。そしてもう少しすれば、第一王子派であるルアンとの会食がある。前者のときに何かあったのなら、三ヶ月後の今に場を設けるのは妙に遅い。後者をラインヴィルト自ら仕組んでいるのなら、わざわざ今顔を合わせる必要はない。果たして、豊穣の儀を越えられない理由でもあるのか。しかしどちらにせよ、目的は限られる。
悠然と両手の指を組み合わせ、ラインヴィルトは高貴な笑みを浮かべる。
「今日一日、私と共に学ぶつもりはあるか?」
それは、星合の儀で挨拶程度にラインヴィルトが言ったことだった。
瞬間、ハルヴェルは思考を一掃する。王族に誘われ断る貴族はいないが、二つ返事で承諾する貴族もいない。
「とおっしゃいますと……?」
「政務だ。私は日頃陛下にお力添えしているのだが、君も一緒にどうだろうか。君なら問題無い」
「お褒めに預かり恐縮でございます。ぜひとも、よろしくお願いいたします」
リディエラとの密会ではなかった、とハルヴェルは密かに愁眉を開いた。十中八九、ラインヴィルトは状況を把握している。リディエラの虚構も知っている。
ハルヴェルとリディエラの日々は、リディエラの真実を抜きにしても決して肯定されるものではない。婚約者同士でもない男女が、明らかに人目を忍んで会っているという外観だ。
ハルヴェルが吹けば飛ぶような低位貴族なら、まだリディエラの火遊びとして結論づけられる。しかしハルヴェルは、高位貴族であるサンドルト辺境伯家の者だ。二人の関係は、政治的かつ邪なものとして甚大な損害を及ぼす、特にサンドルト辺境伯に。
ふと、疑念が生まれた。
――関係、とは?
セーグルからは、友人になってほしいと請われた。いや、二人は実際にそうなっただろう、傍から見れば。心からの、とは言いがたいが、趣味と時間を共有する立派な友人同士だ。
そう、何も疑うことはない。ハルヴェルがリディエラに向けている気持ちは、友情とも言える何か、そして臣下としての忠誠心。強いて加えるとすれば、猜疑心、そしてそれを上回り始めた心配。他には、何も無い。ハルヴェルが領地へ帰れば終わる、寸刻の関係だ。
ハルヴェルとラインヴィルトは、応接間から執務室へ移動することとなった。ただし、執務室と言っても空き部屋だ。ラインヴィルトは正式には政務に携わる立場でないので、個人のそれを持っていない、そうラインヴィルトが説明するのを、ハルヴェルは一歩後ろで歩みながら聞いた。そのまた後ろには、第一王子の護衛が三人続いている。道すがら向けられる関心は、他の誰でもなくハルヴェルの身にまとわりつく。王女もこうだろう、と思い知るのは、今更かもしれない。
西側の回廊に出ると、冷えた風がハルヴェルの髪を弄んだ。視界を遮られてしまったので、やんわりと指先でよける。
――目の先に、「リディエラ王女」がいた。
「……」
「……」
ハルヴェルが目礼すると同時に、リディエラも目を背けた。衆人環境で声を交わすことはしたくない、ハルヴェルは家を守るために、リディエラはハルヴェルを巻き込まないために。「リディエラ王女」と繋がりを持つのは、おべっかを垂れる有象無象だけだ。そこに、ハルヴェルという友人未満の誰かは存在しない。
ラインヴィルトが足を止めたので、ハルヴェルも立ち止まった。俯いてしまっては見られないが、リディエラも歩みを止めた気配がした。
「『商談』か?」
「何か不都合でも?殿下も望む物があるのでしたら、いらっしゃっても構いませんよ」
リディエラの口調は、嫌味たらしいが奇妙だ。兄でも敵対者でもあるラインヴィルトを敬っているのか、それとも見下しているのか。華美な嘘を塗りたくった姿にはそぐわない、ちぐはぐな振る舞い。それゆえか、声にわずかな強張りが含まれている。
ラインヴィルトは薄く笑った。考えておこう、と無難な回答が紡がれる。そこに敵意や嫌悪感は全く見られない。むしろ、この状況を楽しんでいるかのような軽さが隠れている。
結局、ハルヴェルが名乗ることはなかった。リディエラは兄以外をいないものとし、急いでおりますので、と先に行く。
率直に言えば、ハルヴェルはほっとした。保守派なので王女とは、できれば第一王子とも接点を持ちたくない。また、ラインヴィルトの前でぼろが出るのではと不安だった。それほどまでに、今年の春以前まで、自分がどのような表情で「リディエラ王女」を見ていたのか思い出せそうにない。記憶の上層にあるのは、儚い微笑ばかりだ。
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