第7話 セーグル司書長
カーニャと別れたハルヴェルは、図書棟を目指した。王都に来て以来、登城した日の空き時間は専ら書庫で過ごしている。
初めは、面倒なことに巻き込まれたと思った。想像もしていなかったリディエラを見せられ引き合わされたとき、ほんの少しだがセーグルを恨んだ。会いたかったのはセーグルであって、グリーティス王国の王族ではない。セーグルの人となりを知っていたから渋々受け入れただけで、本当のことを言うと、ハルヴェルは機を見て親交を絶つつもりだった。
ところが、その予定はあっけなく変わった。
リディエラは、一人の少女だった。どこにでもいそうな、と表現しては誤解を生むが、少なくとも嫌悪感や敵意を買う少女ではなかった。戦争の記録よりも、言語の文法書を読みたがる。剣の扱い方よりも、本の綴じ方を知りたがる。小さなソファー、欠けたテーブル、ささやかな明かりだけの場所で、静かに丁寧に本を読む。たったそれだけでも知ってしまうと、ハルヴェルはリディエラから離れがたくなってしまった。
図書棟に顔を出したところ、読書しているセーグルが目を合わせた。
「ハルヴェル君。今日の予定は済みましたか?」
「はい。今もまだ奥に?」
「いえ、先程お戻りになったところです」
セーグルは残念ながら伝えた。リディエラが図書棟を後にしたのは、ついさっきのことだ。ハルヴェルが道を急げば、すれ違うくらいはできたかもしれない。頷くハルヴェルにも落胆が見えるが、否定されたくなかったので指摘しないでおく。
「よろしければ、私の家で少しお話しませんか?」
ワインは無いが、エールなら出せる。セーグルが誘えば、ハルヴェルは承諾した。
ハルヴェルは滅多に領地を出ない一方、セーグルは故国を出て以来ずっと王城に勤めている。二人がいつでも会える距離にいるのは今年が初めてで、きっと来年が最後になる。たとえ師弟とも友人とも言えない微妙な関係でも、話せるときに話しておくほうが後悔は少ないだろう。顔に出しこそしないが、セーグルはそのことを人並みに思い知っている。
セーグルは図書棟を完全に閉めた。まだ夕刻にも満たない時分だが、来客は決まってハルヴェルとリディエラだから問題無い。国書などの重要な文書は王城のほうに保管されている分、図書棟を利用する者は読書家か泥棒だ。下手に開放していても、正妃の遺品とも言える本を持ち去られかねない。
「兄は、先生のご自宅に何度かお邪魔したことが?」
「そうですねぇ……。今となっては微笑ましいですが、毎日のように玄関前で私の帰りを待っていましたよ」
「……申し訳ありません……」
ハルヴェルは羞恥心を露わにした。兄は父親にさえ便りを出さない傍ら、パンくずをついばむ小鳥のごとくセーグルのもとへ通っていたらしい。家出直前に父親が書簡を持たせていたから、王城に入ることはできたはずだ。私生活に付きまとうのではなく、せめてセーグルの勤務時間中に教えを請うべきではないだろうか。事実、セーグルの仕事は図書棟にいるだけと言っても過言ではない。むしろ話し相手として喜ばれただろう、家で待ち伏せするよりもずっと。
セーグルの家は王都の郊外にあった。沈み始めた太陽を尻目に着いたのは、小さいが煙突もある立派な家だ。個人で所有しているものなのだろう、他に人の気配は無い。
家を所有する平民は限られる。大抵は領主が所持している土地と家に住み、賦役を納めて自由な生活を送るか、領主の所有物として生きる。しかし、セーグルはそのどちらでもなかった。他に畑や領民は持たないが、自分が暮らすだけの土地と家を持っている。一体、それがどれだけ希有なことか。
「どうぞ」
「お邪魔します」
――ただし、家の中には何も無かった。
浴室や寝室が壁に隔たれているのもあるだろうが、居間にはテーブルと椅子のみだった。薄汚れた麻のように、一切の色が感じられない。最低限の掃除はしているようであるものの、造りがそれなりに立派である分、内装との差が違和感に変わる。
セーグルが用意したエールと共に、ハルヴェルはテーブルに着いた。
「ハルヴェル君を誘うのなら、花の一輪だけでも用意するべきでしたね。申し訳ありません」
「いえ、急でしたからお互い様でしょう。本は全て王城に?」
「はい。ここに置いても、盗まれるだけですから」
エールは食欲を減退させんとする不透明な液体で、お世辞にもおいしいとは言えない。しかしこれには香辛料が混ぜられているおかげか、香ばしい風味がする。こくりと飲めば、一日の疲労が薄まっていく心地がした。
羊皮紙に邪魔された日光は、徐々に力を失っていく。反比例するように、揺らめくろうそくの炎が肩をそびやかす。部屋をぐるりと見回したセーグルは、すっと息を吸い、懺悔するかのように自嘲した。
「この家と土地は、リディエラ様のお母様に賜うたものなのです」
「……正妃に、ですか?」
ハルヴェルが確認すれば、セーグルは黄褐色の瞳で肯定した。
リズリエラ正妃は同盟国、もとい西の帝国から降嫁した元王女だった。まことしやかに囁かれることには、グリーティス王国を併合するために嫁がされた女性。
契機はグリーティス王国の現国王、すなわち当時の王太子の訪問だった。王太子が侯爵家息女と恋仲であるにも関わらずリズリエラをも望んだだとか、リズリエラに見初められ仕方無く正妃に迎えただとか、噂が飛んでは消滅していた。
その一助となったのが、当時の同盟国皇帝の思惑の不透明さだ。取るに足らぬ存在だと思ったのか、それとも早いうちに手の者を送り込む気になったのか、中途半端に手を出したまま死んでは知るべくもない。なお、現皇帝は堅実な人柄ゆえか、グリーティス王国に服従や併合を迫ることはまだしていない。
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