第6話 フロータス伯爵息女

 ワルツのテンポは、踊ってみると随分と早く感じる。講師の手拍子に急かされながら、二歩、三歩。すると、リーダーは急いてリズムを無視したリードを示し、パートナーはリーダーに迫るようなフォローをする。呼吸が崩れれば、講師は中断を指示し反省を求める。何度も何度もやり直し、社交界デビューのためだけに暗記した動きを、社交界で生き抜くための技能へと洗練する。


 踊り終え、ハルヴェルは簡易的な礼を取った。


「ありがとうございました。フロータス殿のフォローに助けられました」

「ご謙遜を。こちらこそ拙劣なフォローとなってしまいましたこと、お詫び申し上げます。サンドルト様のリードのおかげで楽しゅうございました」


 フロータス伯爵の娘、もといカーニャは、清純な微笑みと共にやや膝を曲げた。シニヨンに結われた飴色の髪は艶めいており、丸みを帯びた肢体は純真な装いに守られている。

 その外見と立ち振る舞いは、一部の高位貴族にもその名を覚えられるほど。侯爵家の跡取り息子との婚約は、誰の記憶にも新しい。今や、伯爵家以下の貴族子女からは憧憬と羨望を抱かれている。

 王城での講義と講習の主催者は、当代の国王だ。王族の威厳のため、講師にも教材にも一流のものが宛てがわれる。ゆえに、王都近辺に居を構える貴族のうちにも参加希望者は少なくない。そこから選抜された者だけが参加資格を得るわけだが、カーニャはその十人に満たないうちの一人だった。


 不意に、その表情が慎ましやかに緩んだ。扇で隠してはいるが、人見知りをする子供でもすぐに懐いてしまいそうな慈愛がにじみ出ている。

 敏いハルヴェルは、窺いの視線を向けた。


「……何か?」

「失礼いたしました。不躾なことを申し上げますと、何か良いことがおありなのかと存じまして」


 ぎょっとした。ハルヴェル自身、己の機嫌が良いことを自覚していなかったのだ。そうでしょうか、と思わず眉間を中指で押さえてしまう。もしこの場に兄がいたら、胡乱な目を向けてきたことだろう。ハルヴェルの表層に喜色が表れるというのは、よっぽど珍しい。

 心当たりは、ある。つい先程、ハルヴェルが譲った古ユーグリッヒ語の詩歌集を、リディエラが手を叩いて喜んだことだ。例によって、古ユーグリッヒ語学者であるゴーシュが己の著書で引き合いに出していた。うち一節をゴーシュがあまりに称賛しているものだから、いつか読んでみたいとリディエラも強く興味を示した秀作だ。

 実家から送ってもらった翌日、つまり今日、不審なほどはやる気持ちゆえに講習の合間に渡してしまった。最後の講習が終わるまで待てば良かったのに、つくづく子供染みている。こんな感情は、書いた文字全てを母親に見せびらかしていた幼年期以来だった。


 ありがとう、本当に嬉しいわ、と破顔したリディエラが忘れられない。刹那に湧き上がったのは、歓喜とも感動とも言いきられぬ感情だった。いっぱいの砂糖で煮詰めた林檎のように、甘く、熱く。整然とした庭園を揺さぶる大雨のように、強く、激しく。まるで最初から望まれていたかのように、その言葉は確かに心と体の内側を満たした。テーブルの埃を払う振りで目を背けてしまったのは、ぶわりと上昇した体温のせいだ。


 文字を追う横顔は大人びているのに、喜んだり楽しかったりすれば爛漫たる笑顔を見せるのだから、その度に胸が締めつけられる。我ながら浅ましいことに、その魅力を知るのが自分で良かったと安心してしまう。この未知な感情の正体が何であるのか、誰かに教えてほしいと思うと同時に、知ってはいけないような気もする。知ったが最後、後戻りできない確信があった。


「……ええ、まぁ……」


 どこまで話したものかと迷い、口ごもる。贈り物をしたと言えば、意中の相手がいるのだと噂になってしまう。貴族社会は、どれほど頓珍漢な虚構でも現実になりえる場所だ。迂闊に口を開いた途端、嫉妬と疑惑の糸が複雑に絡み合う。気づいたときには、先端が悲劇や惨劇と固く結びついている。逃れるためには、無情に断ち切るしかない。


 ――そう考えたところで浮かぶ、推測。


 「リディエラ王女」は?

 自ら編んだ糸の先に、何を待っている?


 セーグルが望んでいるのは、そこかもしれない。リディエラの意図を解き明かし、絡み合った糸を解きほぐし、悲劇や惨劇から逃すことを期待しているのかもしれない。

 戻れない、予感がする。


「……」


 一秒の後、ハルヴェルは話題を変えることにした。


「そういえば、フロータス伯爵領は王都郊外に位置していますね。冬はどのようにして過ごすのですか?」


 王都の冬は初めてですので、とハルヴェルが眉尻を下げると、カーニャは今度こそはっきりと微笑んだ。先程の話は忘れるという意思表示だ。頭をひねる傍ら、ハルヴェルを害さない程度に己を扇ぐ。踊り終えた直後は、上昇した体温のせいで暑い。とは言え、その顔に疲れが全くにじんでいないのはさすがとしか言いようがない。


「我が領では花き栽培も行っておりますので、冬の間は花木の管理に加え、時期が過ぎた植物を商品用に加工して過ごします。乾燥する季節でございますから、花を乾かすのに向いておりますね」


 季節や身分を問わず、娯楽や装飾品の中でも花は需要が高い。町に一軒は必ず花屋があり、王都であれば店そのものさえブランドとしての価値が生まれるほどだ。そういう意味では、花は富裕層にとって宝石よりも重要視されている。屋敷一つに庭園がいくつもあるのは当然であり、誰かを招いたり訪れたりする際に花束の一つも無いのは礼儀に反する。

 また、春にある祈念の儀は新年の始まりを祝う祭事だが、花祭りという異名が許されるほど、王都にも地方にも花が溢れる。フロータス伯爵領も含め、花が特産物である地域は少なくない。


「なるほど、冬にも風土が活きるのは良いですね。こちらでは川面が凍ってしまうので、どうしても農業に専念せざるを得ないのですが……」


 グリーティス王国に出回る希少な紙は、大半がサンドルト辺境伯領産だ。ただし様々な要因から、生産は決して容易ではない。水の確保はその一つだ。また、仮に冬に生産できたとしても、完成物を王都まで運ぶ目処が立たない。一回のくしゃみが甚大な被害をもたらす冬に、夏と同じく絶えず人と物の往来が成されるのはあまりに危険が大きい。

 そもそも、毎夜を乗りきるためには商業よりも農業である。フロータス伯爵領とて、先述しつつも中心は穀物農業だ。


「浅慮ながら、領民にとってはそちらのほうが安心できるのではございませんか?花木は春先の需要が他の比になりませんので、むしろ農業との折り合いが難しく……」

「祈念の儀ですね。年々規模が拡大していると聞いていますが、それほどまでに?」

「ええ。年を重ねるごとに盛り上がっておりますから、増産が追いついていないのでございます」


 カーニャは愁いに目を細めた。閉月羞花と言うべきか、様子を窺っていた子息数人がほうと息を吐く。ハルヴェルは彼らを冷めた感情で認めつつ、来年の祈念の儀に多少の期待を寄せた。植物への思い入れは無いが、楽しむにやぶさかではない。


 ハルヴェルの思案顔に何を勘ぐったか、カーニャは再び微笑んだ。


「ところで、ブランジルス侯爵家がサンドルト辺境伯領の紙を使われているのはご存じでしょうか?特にルアン様は大変感銘を受けられたご様子でして、一度お礼を申し上げたいとおっしゃっていました」


 ルアン・ブランジルスという人物は、カーニャの婚約者でありブランジルス侯爵家の後継者だ。齢二十になる貴顕紳士ゆえ、カーニャと並べば才子佳人と褒めそやされる。生粋の文人、それすなわち第一王子派の盤石の基礎とも言える存在。


 ハルヴェルは、同じ顔を返すがごとく微笑んでみせた。この半年間、カーニャはその才を惜しみなく活用し、今日このときを実現させたのだろう。ラインヴィルトの接近は遠慮願いたいが、王都に来る以上避けられないのは分かっていたことだ。


「それは喜ばしいことです。王都でのマナーに疎い身でよろしければ、婚約者殿との席を設けてもらえますか?」


 ルアンを通し、ラインヴィルトへの対策が立てられれば上々。悪くとも、政局の実態をより掴むことが目的となるだろう。爵位を譲渡して以来王都に住む祖父母を見くびってはいないが、世継ぎであるハルヴェルがかまけていれば、サンドルト辺境伯家は食い潰されないとも言えなくなる。保守派は受け身だ、乗るべき誘いに乗らなくては未来が無い。


 気づけば、講習は終盤に差しかかっていた。最後のペアが踊り終えると同時に、講師が全体講評を行う。ハルヴェルとカーニャのペアが最も素晴らしかったと述べられれば、二人は紳士淑女の礼をした。おべっかだろうと本音だろうと、過ぎた謙虚は余計な反感を買う、素直に受け取っておくが吉だ。

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