第5話 告白
短夜の星々が世界の裏側へ去ろうと、リディエラは変わらない。夜会では目に痛いほど存在を誇示し、けれど普段の王城では滅多に姿を現さない。傲岸不遜な印象は誰も彼もが抱くところで、けれどその本質は誰も知らない。リディエラが日陰に住むただの少女であるなど、実際に見た者でさえ白昼夢だと思い込むだろう。
一方で、ハルヴェルは知らずのうちに訪問の間隔を狭めていた。
新刊を持ち上げれば、ジャラリ、と鎖がおどけた。その南京錠に鍵を差し込み、解き放った本を抱えてソファーに戻る。
「ハルヴェルは、植物学にも興味があるの?」
「いえ、さようなわけでは。恥ずかしながら、読まねば気が済まない性分というだけでございます」
図書棟の蔵書に統一性は無い。セーグルの身の上らしく言語学の書があるかと思えば、過去の雑記を束ねた物、はたまた異国の旅行記も保管されている。本というのは、同じ物がそうそう手に入るものではない。ハルヴェルはリディエラを訪ねると共に、一冊ずつ読み進めては読み返していた。
果たして、どちらが口実か。会いたい、と思ったことはないし、口にしたこともない。しかし、暇な時間は腐るほどにある。数学者でも哲学者でもないハルヴェルは、今の住処である祖父母の家に帰っても退屈なだけだ。あくびをして日が沈むのを待つくらいなら、王城に居座りリディエラと顔を合わせたほうがいい、そう思うのは決して不当ではないだろう。
とは言え、ラインヴィルトの存在を忘れたわけではないのも事実だ。星合の夜、ハルヴェルは何も知らない体で話題をすり替えたが、あの双眸は全てを見透かしている風だった。ラインヴィルトは王女でないリディエラを知っていて、なおかつハルヴェルとリディエラに交流があることも知っている。それは普通であれば、サンドルト辺境伯家が王女派に付くのを警戒しているということだろう。しかし、普通でないのであれば。――憶測ならいくらでも出せる。
閑話休題、ハルヴェルは手の中の本を改めて鑑賞した。今日初めて手に取ったそれは、セーグルが新たに仕入れた学術書だ。巧緻な装丁は、問う必要もなく隣国のものだと教えてくれる。兄の著書で構わないから、この装丁を依頼できないだろうか。本の価値がぐっと上がるし、何より世界一に数えるべきであるほど美しい。もし手に入れられる機会が巡れば、代金として大金を手放すか本気で悩むだろう。
――数寸先の少女と、目が合った。
「……何か?」
「いいえ、何でもないわ。ただ、本当に本に目が無いのだと思ったの」
ずっと息を詰めているのだもの、とリディエラは呆れたように言った。ハルヴェルがリディエラに劣らず読書家なのは分かっていたが、一向に本を開かないとは予想外だ。てっきり、意気揚々と新たな文字を目に映すとばかり思っていた。
そう聞いてしまえば、ハルヴェルは目を伏せることしかできない。それは滑稽だっただろう、とほのかにうなじが熱を持つ。
実家では、誰に不思議に問われることもなかった。部屋に籠もり己の世界に没頭するのが常で、いよいよ両目が光を求めてあえぐ頃、侍従が何も言わず明かりを灯すのが当たり前だった。父は怠惰でなければ咎めないし、父がそのようだから母も小言を言わない。そもそもあの兄にしてこの弟ありだ、言っても聞かないと誰しもが分かっていたのもあるが。
色づいた耳をくすぐる、軽やかな笑い声。ハルヴェルが思わず眉間に皺を寄せれば、ごめんなさい、違うのよ、とリディエラは手の平を向けた。
「あなたと初めて会ったときを思い出したの。あのときは、緊張と不安で心臓が壊れてしまいそうだったわ」
懐古するのは、雪解けから間もない春の日。互いを満たした異種の驚愕と、疑念。きっかけにするには粗末で、繋がるには過ぎた干渉。
当時はリディエラが尋ねた。何か、と訪問者の本意を探ろうとしていた。尤も、言われるがまま本の在処を案内してしまったが。訪問者もといハルヴェルからすれば、警戒心が足りないことこの上ない。セーグルが視界にいたとは言え、つくづく不審者にしか見えない者からは即座に離れるべきだ。王族という立場に生まれたならば、なおさら。
今ならその叱責が分かるからこそ、リディエラは、胸を躍らせた声色でこぼした。
「まるでおとぎ話みたいで――」
否、こぼしてしまった。
何が、と言いそうになった間際、喉を絞めたのは、予感か経験か。
「……不思議だったのよ」
「……?」
途端にぎこちない笑みを見せられ、ハルヴェルは引っかかりを覚えた。時たま、リディエラは同じようにどこか遠くを見る。雪水のせせらぎに目覚め、月の退却に力を失う春風のように。太陽と雨粒、断じて相容れないそれらをその身に抱えているかのように、淡く、もろく。
長い前髪に隠れ、青年は少女の視線を追った。揺れる灯火はまばゆく、暴虐的ですらある。穢れなく硬いろうを溶かし、炭で染め上げていく。命を削り、奪い、崩れ落ちる恐怖にさらす、幾度も、いつまでも。
最初は、と低い声を紡いだ。控えめに見詰められたことには、気づかない振りをする。
「最初は、理由が必要でございました。無礼を承知で申し上げますが、先生の面目のためにと。愚兄の恩がございますので」
リディエラは黙った。分かっていたものの冷徹な告白に憤りはあったが、姿勢を正して先を待った。ハルヴェルは、無意味に他人をおとしめる人物ではない。実際、しかしながら、と言葉が紡がれていく。
「今は違います。今は、殿下に……恐れ多くも、お会いしたいと」
「……!」
ハルヴェルにとって、それは花を散らす雪のようなことだった。変化はありえないと思っていたし、望んでさえいなかった。あくまで、セーグルの代理のつもりだった。当初は関わりたくなかった。それらがいつからか、ほのかな願望に変わっていた。顔が見たかった。声が聞きたかった。――気づけば、リディエラに会いたいからこの場所へ来ていた。心中であれ、文字にしてしまえば腑に落ちる。
セーグルはそれを望んでいただろう。来たいときに来てほしいと、ハルヴェルに願っていた。しかしだからと言って、現実味は無かったはずだ。少なくとも、ハルヴェルの予想には含まれていなかった。
それがどういう感情か、名前を付けてはいけない。自分たちがどういう関係か、定義してはいけない。それでも、不確定なまま、不透明なまま、ただただ、この小さな小さな部屋にいたい。
ハルヴェルは徐に姿勢を正した。多少の気恥ずかしさと共に、ぎこちなく微笑みを作る。尤も、リディエラの目には麗らかな木漏れ日として映ったが。初めて見せられたハルヴェルの表情に、今度はリディエラが目を見張ったが。
――青葉に、朝露が降りる。
「申し訳ございません!まさか、泣かれるほどお嫌だとは……」
「いいえ、いいえ!違うのよ。嬉しいの、心の底から」
リディエラは、にじむ水滴をそっと拭った。そして祈るように両の指を組み合わせ、俯いて震えた。目前にあるのは神の奇跡か、はたまたまだ見ぬ神の審判か。どうか青年に不幸が起きぬようにと、図々しくも手に入れてしまった幸を前に願う。まだ間に合うと、すでに遅いことを信じているがゆえに。
リディエラとて、ハルヴェルとの交友を続けるつもりは毛頭なかった。優しいセーグルの心が晴れるならと、ハルヴェルの同席を許しただけだった。二度目のとき、三度目は無いだろうと思った。三度目のとき、四度目は無いだろうと思った。それがいつの間にか重なり、数えることを忘れ、次に会う時をこの部屋にねだった。潜むだけの場所に、光が舞い込む時をせがんだ。
「誠に失礼ながら、殿下は……いえ、忘れていただきたく存じます」
「言いなさい。あなたが不敬なのは、今に始まったことではないでしょう」
口を滑らせながらハルヴェルがハンカチを差し出せば、リディエラは胡乱な目を向けつつも受け取った。それをしっとりと濡らし、私も怒らないわ、と先を促す。すると、ハルヴェルはあっさりと口を割った。
「では、遠慮無く。殿下は可憐でございますね。僭越ながら、とても好ましく存じ上げます」
「……あなたは変わり者だわ。まるでゴーシュのよう」
リディエラが本音で褒められることは、基本的にない。困惑を逃すためのからかいは、嬉しゅうございません、とハルヴェルに仏頂面をさせた。
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