第4話 星合の夜
翌月初旬、王国中の貴族ほぼ全てが集う夜会が開かれた。夏の盛りを祝し秋の到来を願う、星合の夜。遠方の貴族は一家の代表しか来ない場合が多いとは言え、王城の大広間は掃き出し窓を一つ残らず開け放っても暑苦しい。サンドルト辺境伯家の代表として参加したハルヴェルは、酒と香水の匂いに眉根を寄せた。
一擲千金は貴族のたしなみだ。衣装、馬車、調度品、はたまた救貧院への寄付まで、貴族は矜持のために大金をはたく。余裕が無いと評されれば嘲笑され、弱いと見なされれば取り込まれる。高位貴族が低位貴族を足蹴にすることは余程ないが、同列の貴族同士は互いに蹴落とそうとする。王女リディエラと第一王子ラインヴィルトの対立により、それは水面下で緩やかに激化していた。
王族と対面し、ハルヴェルは祖父母と共に拝した。
国王、現王妃である第二妃、ラインヴィルト、第二妃のもう一人の子である第二王子が並ぶ中、リディエラはどこから見てもよく目立つ。漆黒の布地から浮き出るように張りついているのは、希少なバイオレットサファイア。シャンデリアと大理石に挟まれ、爛々と光を放っている。装身具はパールにすることで統一感を出したつもりかもしれないが、大粒ゆえに俗悪な雰囲気を強めるだけだ。
ハルヴェルは、リディエラの偽りを惜しく感じた。ボンネットに隠れている髪が、本当は細く柔らかいと知っている。他者を蔑む冷笑は上辺であり、本当は幼さを残した微笑みを見せると知っている。
――国王の言葉で面を上げた刹那、リディエラと視線が交差した。
互いに、これまでは一瞥もしなかった。ハルヴェルはリディエラを軽蔑していたし、リディエラはハルヴェルに関心を抱いていなかった。王族と臣下、たったそれだけの関係。否、そこには恩と忠義さえ無かったかもしれない。
しかし、あの春の日に偶然が重なった。ハルヴェルが知らなかった、リディエラが見つけられないと思っていた道は、少しずつ二人の前に引かれ始めている。
歓談が始まると、王女はいつもの位置で群れを成した。ダンスが行われる中央から遠く、夜空を臨むバルコニーからも離れた、ホールの片隅。とは言え、揃いも揃って筋骨隆々な貴人や華美な装いの貴婦人ゆえ、集団の存在感は随一だった。
「あら、きれいね。けれど、私には少し小さいわ。色も味気ない」
王女がけなせば、一人、二人と図々しい者たちが名乗り出る。ひいきにしている商人を紹介すると言っては、暗に庇護を求める。地位や権力への執着心をその腹の内へと押し込み、あたかも善意として財力を誇示する。
そしてその度に喜び、嘲り、彼らの仮初めの忠誠心を称賛する、それが「リディエラ王女」の姿だった。他人からの献身を当然だとして受け取り、満足できなければ欲求のままにせびる。父の権威を笠に着て、自身の身分を過信して、誰が相手でも尊大に接する。人格者とは言えないその姿が、リディエラを「リディエラ王女」たらしめる証拠の一つだった。
祖父母と別れ、ハルヴェルは壁に溶け込んだ。途端、見計らったかのように隣へ舞い込む、花のかんばせ。
「サンドルト辺境伯の子息だね?」
リディエラの髪とはまた異なる、蜂蜜で染め上げたようなショートヘア。長い睫毛に縁取られるは、満月を映す真夜中の海。その鋭い眼光は、軽く分けた前髪の陰で虎視眈々と時機を待つ。次期国王と呼び声高い第一王子ラインヴィルトは、ハルヴェルを麗しげに見詰めていた。
「名前は何と言ったか」
「お招きいただき幸甚に存じます、第一王子殿下。ハルヴェル・サンドルトと申します」
海よりこぼれ落ちた滴か、純白のウエストコートには繊細な刺繍が施されている。芸術品染みた指先がグラスを傾ける度、空気を食んだシフォンスリーブは形を変える。歳はハルヴェルと同じ十五であるのに、その生彩は見る者の呼吸を忘れさせるに足りていた。
あぁ、ハルヴェル、とラインヴィルトは鷹揚に繰り返した。付き従っていた忠臣に距離を置かせ、笑みをこぼす。他者を虜にするその裏で、ハルヴェルを見定める。黒に近い茶髪と薄い体の持ち主だが、黄金色にも映る虹彩は悪くない。いかにも図書棟に通いそうだと、口に出すにはあまりに不躾な価値を定めた。
一方、ハルヴェルは気づいた。「リディエラ王女」にもリディエラにも、常に己を慕う存在はいない。もちろん、セーグルとはそれなりの絆があるだろう。数に入れることを許されるのであれば、ハルヴェルとも奇異な親愛を築いている。また、本意ではないにしても取り巻きとて少なくない。しかし、侍女や側近といった存在は一人としていないようだった。
「良い相手は見つかったか?」
「何分、奥手でございますので」
「もったいない。君を待つ者は少なくないようだが」
サンドルト辺境伯家は、有力貴族のうちでも上位に立ち並ぶ。王都から遠く、戦時になれば矢面に立つという側面はあるが、大河に恵まれ製紙業の先駆けとも言える一門だ。グリーティス王国における出版業界に大きく関与している傍ら、学問や芸術の中心地である西の帝国との結びつきもある。ハルヴェルは次男とは言え、長男がグリーティス王国ではなく帝国を拠点としているのは知る人ぞ知る事実であるから、婚姻という強固な縁を狙う貴族は少なくない。
その傍ら、ハルヴェルは婚約者探しに積極性を持っていなかった。健全な家庭と親類に恵まれたゆえ、配偶者を持つことに忌避感は無い。しかし、頓挫の不安を当分知らぬ身だからこそ、多少遅れたくらいでも妻の目処は立つという余裕がある。よって今夜も誰一人として踊ることはせず、必要な談笑の後バルコニー近くで涼を得ているわけだ。
ダンスの相手待ちということであれば、ラインヴィルトもそうだ。婚約者とは最初に踊ったので、二番目、三番目を願う息女が期待を高めている。また、保守派であるサンドルト辺境伯家の世継ぎに接触しているという点から、政局に敏感、あるいは過敏な者たちも様子を探っている。
必然的に、二人は注意を引きつけてしまっていた。仕方無いと、ハルヴェルは俄然気を引き締めてラインヴィルトに微笑み返した。
「王都での暮らしは?」
「もう半年になりますが、燦々とした毎日に学びが尽きません。香気満つ春はさる事ながら、青草が揺れる夏こそ盛る活気には感銘を受けます」
「王都の街や人は、季節よりも目まぐるしく変化するからね。一方で冬は耐え凌ぐ季節だ。雪がそちらよりも深く積もるから、備えておきなさい」
「ご忠告、感謝いたします」
真冬は登城も厳しいか、とハルヴェルの胸中に思案が浮かんだ。しかし、それは彼自身意図しないことだった。合算すれば一週間程度の記憶に、そこまでの情は抱いていないはずだ。微笑の裏で動揺を飲み込む。含有された意味は明確であったが、講義への意欲にすり替えた。
ワインの酸味は、喉へ流し込めば脳裏を刺激する。蜂蜜で後づけされた風味では、渇きを潤せそうにない。
不意に、人々は同じ方向へはけた。
出来合のレッドカーペットを歩く、黒い花束。華美な扇でわざとらしく顔を隠し、ドレスの裾を揺らしながら大広間を立ち去っていく。合間、聞こえよがしの嫌味が弦楽器の音色をおとしめた。曰く、王家の恥知らずだと。曰く、王子たちとは比べるのもおこがましいと。無理も無い、おもねる者たちにさえ頭を下げさせる様は、見る者に嫌悪と侮蔑を抱かせる。見ていない振りで王女に注がれるのは、嘲笑を内包した図々しい視線。
リディエラが何を煩い何を意図しているかは、ハルヴェルのあずかり知るところではない。毒々しい「リディエラ王女」には悪感情をあおられるし、つい半年前までは確かに忌避していた。
しかし、今は違う。本当のリディエラは、春風にさらわれる綿毛のような乙女だと知ってしまった。書庫で出会う彼女には、不穏当なユリの蜜よりポピーの花びらが似合う。
「――これが最後だ」
ラインヴィルトは呟いた。その双眸に示すのは、警告か、はたまた導きか。
「ああ見えて、ほとんど姿を見せたがらない。次は豊穣の儀だろう」
「……存じておりませんでした」
「――『王女』でなければ別だが」
指揮者に諭され、音符が同じ場所をたどっていく。
音色に誘われ、人々が膨張と収縮を繰り返す。
花と果実の匂い。弦とグラスの音。熱気に食まれ、星空の下へと放たれていく。
全てが、速度も重力も失った。目に映るそれらは、ヘーゼルの虹彩をアンバーにもアクアマリンにも染め変えてみせた。
沈黙は、一拍にも満たない。
「第一王子殿下と第二王子殿下におかれましては、平素よりお会いできるでしょうか?」
「部屋に籠もるのは好かない。機会があれば、君と学びを共にすることもあるだろう」
「身に余る光栄に存じます」
「トランヴァルトには、騎士団の稽古場にでも行けば会える。学には疎いが、日々励む殊勝な弟だよ」
第二王子は質実剛健な人物だ。王国軍に支持者が多い王女とは対照的に、近衛兵団をはじめとする騎士団に人望がある。しかし、断じて一つの派閥には昇華しない。騎士団が慕う第二王子は、兄であるラインヴィルトの補佐役とも従者とも言える立場にある。これは第二王子本人が勇んで言うことであるし、ラインヴィルトも否定していないから、第二王子も含めて第一王子派を形成しているという話だ。
ちょうど宴もたけなわになったところで、ラインヴィルトは友人たちを連れ国王のもとへ踵を返した。最中、甘い薫香が空気に溶ける。その意味深長な笑みは、ハルヴェルの脳裏にべったりと染みついた。何が最後なのか、そう聞くことも忘れ、ハルヴェルはその場にたたずむしかなかった。
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