第3話 王女の素顔
サンドルト辺境伯家は、その爵位にある通り王都からかなりの距離を置いて領地を持っている。グリーティス王国が領土、国力共に小国なのでたかが知れているとは言え、馬車で二週間ごときでは王都にたどり着けない。よって、サンドルト辺境伯が王都にいるのは国家的行事の時期に限られる。しかし国の中心を知らずして社交界に顔を出せば、瞬く間に他貴族の餌食となってしまう。ゆえに当家に生まれた者は、青年期を王都で過ごすのが通例だった。ハルヴェルの登城が物理的にたやすいのは、この慣習と王城の施策のおかげだ。
つまり、ハルヴェルとリディエラの交流には期限がある。
セーグルと軽く話したハルヴェルは、慣れた歩みで書庫に入った。手前の書架の裏に行けば、ひっそりとたたずむソファーにリディエラがいる。
二人の交流は、不定期であるものの十日と空けずに行われていた。最初こそリディエラはよそよそしい態度で、無論ハルヴェルも事務的でしかない振る舞いだったわけだが、夏の最盛期が目前となっては爪の先ほど親しくなっている。また、書庫の出入り口を少しだが開けておくことを条件に、セーグルの同席が不要となった。リディエラはセーグルを余程信頼しているらしい、それがハルヴェルの見解だ。もちろん、書庫を出てすぐのところにセーグルはいつもいるが。
「こんにちは、リディエラ殿下」
「……」
「リディエラ王女殿下」
パン、パン、とハルヴェルは軽く手の平を打ち合わせた。読書に没頭しているのか気を抜いているのか、ここでのリディエラは気配に疎い。ただでさえ邪魔者扱いされているのだから警戒心を解かないでほしいと、ハルヴェルは訪れる度に呆れている。尤も、ハルヴェルも一度のめり込むと似たようなものだが。
はっと顔を上げたリディエラは、来客を認めるとかすかに笑った。首回りや袖が透けているドレスは、薄氷を思わせ儚さをあおる。装飾を取り去ったうえで身に着けているのか、絵画に起こすには不完全な美だった。
「ハルヴェル。今日は早いのね」
「講義が早く終わりましたので」
サンドルト辺境伯家の若者が王都で過ごす理由の一つに、二年に渡る王城での講義と講習がある。貴族の伝統は各家独自に継承されるものだが、辺境伯家を代表とする一部の貴族は、生家を離れる間王城で学ぶ。講義では社交界での振る舞いから余暇の過ごし方まで教わり、講習ではテーブルマナーから楽器の演奏技術まで身につける。経費も手間も掛かる一方、家を継がない者には王城での登用や高位貴族との良縁が期待できる。
生まれた家を継がない者は、他の場所で労働しなくては生きていけない。王都に出てくる子女の中には遊びの延長で不祥事を引き起こす輩もいるとは言え、廃止されれば国中が混乱する事態に発展しかねないのも事実だ。
ハルヴェルは一人掛けソファーに腰かけた。さすがにリディエラと同じ場所には座らない。二人は隣とも向かい合わせとも言えない位置で、各々本を読んだり言葉を交わしたりして過ごすようになっていた。
「ねぇ、ハルヴェルはゴーシュに会ったことはある?」
「ええ、何度か。人好きする人物ではございませんが」
「あら、そうなの?でも、一度でいいからお話してみたいわ……」
うっとり、とリディエラは虚空を見つめた。彼女が『不死の春』の著者に甚だしく傾倒していることは、この数ヶ月のうちに嫌と言うほど思い知らされている。大抵ゴーシュの著書を読んでいるし、仲間ができたとばかりにハルヴェルの解釈や考察を聞きたがる。
ゴーシュは古ユーグリッヒ語の研究のみならず小説を書いてもいるので、感想の言い合いはきりが無い。なぜわざわざ古ユーグリッヒ語で小説を書くのか、そのうえで自ら現在のユーグリッヒ語に翻訳するのか、ハルヴェルはゴーシュの意欲が理解できないししたいとも思わないのだが、悲しいかな、ハルヴェルの言はことごとくリディエラの琴線に触れるらしい。
リディエラは読みかけの本を閉じた。ソファーの肘かけに体を預け、あどけない表情をハルヴェルに見せる。
「ハルヴェルは、セーグルとどのような関係なの?」
ハルヴェルがセーグルを先生と呼ぶ度、リディエラは不思議そうに二人を見やっていた。平民であるセーグルが、貴族であるハルヴェルに砕けた敬語を使うのも腑に落ちないようだ。リディエラが知るセーグルは、身分が上の相手には相応に恭しいのだろう。特にリディエラとその母には、一歩遠くから気遣う姿勢で接していたはずだ。
「セーグル先生は兄の恩師でございます。ですので私の師ではございませんが、距離感を図りかねましたので、先生と呼んでおります」
ハルヴェルはセーグルの教え子ではないと同時に、セーグルは貴族ではない。敬称や敬語に迷った結果、互いにそれなりの礼儀で接することに落ち着いた。
もしセーグルが兄の熱意に負けなければ、そうでなくともハルヴェルと全く親しくなければ、ハルヴェルとリディエラが引き合わされることは決してなかった。言い換えれば、セーグルがハルヴェルにリディエラを任せることはなかった。
そう考えると、兄の偏った情熱もたまには役に立つものだとハルヴェルは感じた。留学と帰国を繰り返す兄には家族共々辟易しているが、セーグルとの縁にだけは感謝している。存外、リディエラと過ごす時間は好ましい、リディエラが訳ありでなければ完璧だと思うほど。
「兄君が……。仲は、良いの?」
――声が硬くなった。リディエラが自覚しているかは定かでない。本来の自分のまま平静を装うことは数少ないせいか、目を逸らさないようにするのが精一杯に見える。
「どうでしょうか。兄は一辺倒ですので、私が避ければ衝突は免れますが」
気づかぬ振りで続けたハルヴェルは、平然と言葉を選択する。
「――リディエラ殿下にも兄君が有らせられますね」
グリーティス王国第一王子、ラインヴィルト。母は第二妃だが、正妃唯一の子であるリディエラより一年早く生まれた。年若くして王族の務めに取り組み、戦争の時代は終わったとして文官による政治を志している。胸襟秀麗な彼を慕う者は多く、女王の政治が非常に珍しい歴史もあり、次代国王の呼び声が高い。どこをどう取っても、王女と対照的な存在。
現在、貴族や有力者は第一王子派と王女派、そしてサンドルト辺境伯家が属する保守派に割れている。低位貴族の家は庇護を与えてくれている家と指針を同じくしているだけだが、大きく分ければこの三つだ。
数で言えば第一王子派が最大である一方、代替わりには時期尚早であるとして保守派には有力貴族が少なくない。王女派は軍の中枢を成す貴族が集まっているので、第一王子派が無理に動けば内乱を起こしかねない。尤も、現国王は少なくともあと二十年は王位を手放さないだろうが。
ハルヴェルや大半の人々が思うに、リディエラとラインヴィルトの確執の一つは、それぞれの母の地位にある。正妃は隣国の元王女であり完全な政略による婚姻だが、第二妃は国王の希望のもと、グリーティス王国の侯爵家息女が召し上げられた。
王女が王位に就く事例は数少ないのであって忌避されるものではないから、リディエラが王位を継ぐことは十分可能だ。正妃と第二妃では身分の差が歴然としているし、隣国は正妃の子を王に据えさせる算段で元王女を嫁がせ、同盟を結んだだろう。
ところが、正妃は今やおらず、空いた王妃の座には第二妃が座った。しかも、リディエラは税を貪り民衆の心を離すばかり。隣国の強大さも相まって、最終的に国王を選出する大臣たちは、リディエラが成長するに連れ頭を悩ませている。
促すハルヴェルの視線に、リディエラはぎこちなく口角を上げた。
「……ええ。国を一番に考えておられるし、外交にも才覚がおありだと思うわ」
「民衆の支持は高いと聞き及んでおります」
やや文脈を無視した回答だった。当初は非武人的であることを暴露してしまったリディエラだが、さすがにラインヴィルトへの極個人的な感情については教える気が無いのだろう。かく言うハルヴェルも、サンドルト辺境伯家の保守的立場を脅かさない相槌を打った。
ハルヴェルから距離を取るかのように、リディエラは姿勢を正す。
「ねぇ――あと二年は王都にいるのよね?」
唐突な、先程にも増して脈絡を持たない問い。
ハルヴェルがリディエラの本意を探るように、リディエラもまたハルヴェルの本性を探っている。「リディエラ王女」の味方か、敵か。リディエラの協力者か、妨害者か。ハルヴェルを招いたセーグルへの信頼はあるが、ハルヴェルがセーグルを裏切らないとは信じられない。葛藤を映した翠眼は、もっと別の何かを確かめるように一瞬、まぶたの向こうへ閉ざされた。
「……ええ。少なくとも、来年の冬が終わるまでは」
ゆえに、そのときが二人の期限だ。ハルヴェルが領地に帰るまでの二年間、それが二人に与えられた猶予だ。ハルヴェルがリディエラのことを知るのも、リディエラがハルヴェルを信じるのも、出会って三回目の春が来れば叶わなくなる。季節の生き死には、望まれた寿命よりずっと短い。
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