第2話 出会いⅡ

 パタン、と本が粗末なテーブルに置かれた。逡巡する様子は残るが、やがてリディエラは一歩を踏み出した。協力してくれるらしい。


「こちらです」

「ありがとうございます」


 ハルヴェルは目礼した。ついでにリディエラが読んでいた本に目を走らせるが、裏表紙で標題は分からない。


 蜜蝋を右手に掲げ、リディエラは書庫の奥へと歩んでいく。図書棟は王城の裏手にあり、建物自体も別だ。亡き正妃、すなわちリディエラの母の輿入れに伴い、十五年ほど前に建造された。建物と言うより小屋に近い大きさだが、蔵書数はグリーティス王国随一の規模を誇っている。

 これほどの冊数が保管されているのは、司書長であり図書棟の実権を握っているセーグルと、正妃の故国であり同盟国である隣国と懇意にしているサンドルト辺境伯家の成果だ。尤も、現国王は図書棟を廃したいそうだが。

 そしてそれはリディエラも同じだと、ハルヴェルは今の今まで思っていたのだが。


 明かりは最奥で止まった。上から下へ並ぶ前小口を、リディエラがたどる。ほのかに照らされる人差し指は、とても武器を好んでいるそれではない。買うだけ買って振りかざさないだけか、それとも。


「これでよろしいかしら?」


 引き抜かれた本は、『不死の春』。――セーグルの希望通りだ。


「……」

「……あの?」

「見つけていただきありがとうございます――王女殿下」


 ガタンッ、と書架が揺れた。動揺のあまり、リディエラが背中をぶつけたのだ。たゆたう橙色に照らされた表情は、混乱を内包している。

 驚いたのはこちらですよ、と溜め息を吐きたくなったが、ハルヴェルは普段の無表情に戻ることで耐えた。ヘーゼルの双眸は、愛想の代わりに呆れと疑いで満たされた。


「『不死の春』をお読みになったことは?」

「な、ないわ。あるわけがないでしょう!」

「本当に?」


 リディエラの手から燭台と本を抜き取る。明かりを持たない状態で書架の間を駆け抜けようとは思わないだろう。十中八九、彼女は本の扱いにうるさい。言い換えれば、『不死の春』の著者を敬愛している。


 知的な両目がハルヴェルをにらんだ。どうやら、調子を取り戻してきたらしい。さすが、少なくとも四年弱「リディエラ王女」でいるだけはある。

 されど、年相応に詰めが甘い。知られたくないのなら、暴君の皮をかぶっていたいのなら、せめて探す振りに留めるべきだった。奥まった棚まで一直線に進んでは、そこにある書物の分野に親しんでいるか、並びを記憶するほど幅広く読み漁っているかのどちらかしかない。


「私は言語学には興味が無いのよ」

「こちらは言語学の本なのでしょうか?タイトルからは、小説にしか思えませんが……確かに、内容は古ユーグリッヒ語についてでございますね」


 ハルヴェルはぺらぺらとページをめくってみせた。前書きでは、初の古ユーグリッヒ語学者への愛が赤裸々に書かれている。『不死の春』は著者ゴーシュの比較的に新しい著作だが、前書きは一冊目の著作と変化が見られない。強いて言えば、文章が読みやすくなった代わりに文量が多くなっただろうか。

 製紙業に取り組むサンドルト辺境伯家の跡取りとしては、前書きに割くページの半分を本文に回してほしい。ゴーシュの著書は原本を紙で一冊、写本を羊皮紙で数冊出版しているのだから、本の価格を余計に跳ね上がらせないべきだ。


 リディエラは反論しなかった。セーグルも近くにはいない、沈黙がますます室温を下げた心地がする。

 その道に明るくなければ、言語学という言葉は口にできないに決まっているのだ。本の内容を知っていたにしても、古ユーグリッヒ語には興味が無い、という言い方のほうが自然だ。


「……誰から聞いたの?」


 左腕を右手でゆっくりとさすりながら、少女は呻いた。


「セーグル司書長より、今しがた」


 冬空のごとく冷めた双眸を向けながら、青年は申告した。


 真逆の態度を取る二人だが、どちらも事の発端であるセーグルへの苦情を募らせた。一方は今の状況に対して、他方はこれからの波乱に対して。


 今度は、ハルヴェルが口火を切った。


「なぜ、軍国主義者の振りを?ゴーシュは生粋の学者ゆえに平和主義者でございます。本当は、戦争にも武器にもご興味をお持ちでないのでは?」

「……そうしなくてはいけないからよ」

「……過激派を抑えるためでしょうか?」

「それもあるけれど……」


 言いかけ、口をつぐんでしまう。


 『不死の春』は、古ユーグリッヒ語の分派と衰退について論じている。その根幹を成すのは文法と発音であり、初心者はまず理解できない。前提としてあるのは最初の古ユーグリッヒ語学者、すなわち言語学の先駆者の教えだ。そのうえゴーシュは先駆者への手紙代わりに著すので、希有な読者に教えを説く気概が微塵も無い。

 端的に言えば、偏屈な性格をしている。そして逆説的に言えば、それを読み通す読者は独りよがりを許す器の持ち主であるということだ。従って、リディエラは無意味に混沌を望む人間ではない、はず。


「……さようでございますか」


 これ以上聞くのは無理だろう。聞きたいわけでもないが。


 戻りましょう、とハルヴェルは踵を返した。大人しくついてくるリディエラは、人見知りが激しい幼児そのもの。どうして横暴な役を演じられるのかと、誰もが首をひねるに違いない。


 他言はいたしません、と言い残してハルヴェルは書庫を出た。共に戻ったセーグルが尋ねる。


「リディエラ様は?」

「もうしばらく書庫に有らせられるようです」


 足下に差す春陽は、時を知らぬようで命が短い。先を急くように月を退け、夏が生まれればあっけなく死ぬ。春の終わり無くして、夏の安寧は実現しない。


 大抵書庫に有らせられますよ、とセーグルは微笑んだ。また来てほしいと要請している。構いませんが、とハルヴェルは条件を提示した。書庫は窓が高いため薄暗く、入り口から離れるほど寒い。暖炉が許されないのなら、ゴーシュの著書は手前に置いてさしあげるべきだ。

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