08 たとえ話





 まもなく店主の女性が、お土産用に包んだお菓子を持ってきてくれた。

 コーザが言っていた店に向かおうとした、その時。


「メアリ」


 突然、メアリの身体が宙に浮いた。

 一瞬のうちに、狭い路地に引き込まれる。


「その声は……ディドウィルね」


 メアリを抱き寄せたのは、魔神・ディドウィルだった。


 人間の姿に化けてはいるが、声と、漏れ出す魔力でメアリはすぐに気が付いた。


 そうでなくとも、水星の大地メルクリウス・ノアでメアリにこんなことをするのは、ディドウィルくらいしかいない。


「地上にいるなんざ、珍しいじゃねエか。なんの気まぐれだ?」

「べ、別に、なんでもないわ」


 鼻先が触れそうなくらいに顔を寄せてくる、ディドウィル。しみついた香油とワインの強い匂いが、鼻につく。


 先ほどまでのメアリの高揚感は、完全にうしなわれてしまった。


「人間の男にご執心っつーのは、本当らしいな」

「……あなたには関係ないことよ」

「大アリさ! お前もわかってンだろ?」

「きゃっ!」


 さらにきつく抱き寄せられ、メアリはなんとか逃れようともがくが、力が入らない。


 ディドウィルに触れられると、もともと少ないメアリの神力が普段以上にはたらかなくなる。

 それをいいことに、ディドウィルはメアリの首筋に舌を這わせてくる。


「やめ、て……!!」

「メアリ、オレの女になれ。世界でいちばんお前を愛してるのは、オレだ」


 本来なら女神は、魔族にとっては脅威となる存在。通常は、手を出すことなどできない。

 けれどメアリの神力が弱いがために、いつもディドウィルにいいようにされてしまう。


「人間なんて、やめとけ。あんなひ弱で価値のねぇ生き物は、お前には釣り合わねエ」

「んっ……!!」


 ディドウィルは、メアリの腹に指を這わせた。

 素肌に触れられ、メアリは必死に抵抗する。


「それに、お前のせいで人間どもは、苦痛を背負って生きてきたンだぜ?

 お前が女神だと知れれば、好きになるどころか恨まれるだけだ」

「……あなたに、なにが、わかるの……!!」

「わかるさ!

 オレは人間の苦痛を餌に生きてンだ、水星の大地メルクリウス・ノアは恰好の餌場だ」


 肌の上を這いずり回る指の感触が、気持ち悪い。

 それ以上に、ディドウィルの言葉が毒針のようにメアリのこころに突き刺さる。


「おいっ!!!」


 そのとき。

 コーザが大声を張り上げ、路地に駆け込んできた。


 ディドウィルは、ちっと舌打ちすると、そのまま姿を消した。


「メアリ、大丈夫か!?」


 そのまま地面に崩れ落ちたメアリに駆け寄る、コーザ。

 メアリは身体が震え、うまく言葉が出てこない。


「あれは魔族か!? こんな街中に魔族がいるなんて……」

「だい、じょうぶだから……」

「こんなに震えてるのに、大丈夫なわけないだろ……!!」

「っ……、ごめ、……なさい……っ!!」


 あまりにも自分が情けなくて、メアリは泣き出してしまった。


 普段なら魔族に近寄られないよう、細心の注意を払うのに、今日は完全に浮かれていた。

 そのせいで、コーザにも心配をかけてしまった。


 それにもしも、ディドウィルが街で暴れていたら。ひとびとに危害を加えていたら。

 考えると、ますますいたたまれない気持ちになった。


「ごめん、なさい~~……!!!」


 ぼろぼろと涙を流すメアリに戸惑いながら、コーザはそっとメアリを抱き寄せた。

 メアリが泣き止むまでずっと、嗚咽するメアリの背中をやさしく撫で続けた。








 メアリはそれから数分、泣き続け。

 泣き止むと、こんどはなんだか恥ずかしくなり、メアリはその場から逃げ出したくなった。


「……落ち着いた?」

「はいぃ……ほんとに、すみません」


 ようやくいつものメアリに戻ったとわかり、コーザはほっとして大きく息を吐いた。


「怖かったよな。本当にごめん、俺がひとりにしたせいで」

「違うんです。わたしが、油断してしまったんです」

「いやいや、相手は魔族だぞ? 油断もなにもあるかよ。

 メアリになにかあったらどうしようかと肝が冷えた……」


 落ち込むコーザの姿を見て、メアリは胸が張り裂けそうな想いだった。


 先ほどのディドウィルの言葉は、メアリのこころをたしかに蝕んでいた。

 メアリはごくりと、唾をのむ。


「……コーザさん」


 慎重に言葉を選びながら、メアリはおずおずと口を開く。


「もしも。もしも、です。

 もしもわたしが、この大地を守護する女神で……わたしが恋をしないせいで、この大地が荒廃しているとしたら……」


 メアリが言うと、コーザはますます混乱したようすで口を挟む。


「待て、待て。それは……どういう話だ?」

「あくまで、たとえ話、です」


 我ながら下手なたとえ話だとはわかっていたけれど、ほかにどう話せばいいのか、メアリにはわからなかった。


「わたしのせいで土地は痩せ、川は荒れ、魔物が暴れているとしたら……あなたはわたしを、軽蔑しますか」


 荒唐無稽な話だが、メアリはいつになく真剣な表情でコーザを見つめている。

 困惑しながらも、コーザはメアリの話を噛みくだき、なんとか理解しようとした。


 コーザは、想像する。

 恋ができないせいで、大地が荒れる。けれど、そう簡単に恋などできるものではない。

 メアリならきっとそれを嘆き、苦しみ、自分を責め続けていたのではないか、と。


 でも、それなら。


「……複雑すぎる話だけど」


 コーザはそっと、メアリの手をとった。


「ようはきみが恋をすれば、いいわけだろ?」

「っ……そ、それは、そうです」


 思っていなかった方向に話が進んで、メアリは困惑しながら答える。

 コーザはメアリの青い瞳を、じっと見つめる。




「それなら、メアリが恋に落ちる相手が俺だったらいいなと、思う」




 メアリはぱち、と大きな瞳を瞬かせた。

 狭く暗い路地に、ぱ、ぱ、ぱ、と花が咲く。


「メアリのことはまだ知らないことばかりだけど……会うたびに俺は、メアリに惹かれていってる」


 あたたかな風が吹き、街はやさしい初夏の香りに包まれる。

 鳥たちはうっとりと、恋の歌をさえずる。


「さっきも、知らない男に触れられてるメアリを見て、はらわたが煮えくり返りそうだった」


 その手に力をこめる、コーザ。

 コーザの想いが伝わって、メアリは耳まで真っ赤になる。


「じゅ、じゅうぶんです……ありがとう、ございます……」

「いや……」


 しあわせでしあわせで、溶けてしまいそうだった。


 しかしメアリは、このさきをどう進めたらいいのか、知らなかった。

 コーザの方も、メアリの気持ちがわからないので、これ以上は踏み込めない。


「「あのっ」」


 ふたりの声が、そろった。


「あ、な、なんでしょう」

「あー……」


 コーザは少し目を泳がせて、覚悟を決めたように口を開く。


「また、会いたい。本当はもっともっと、きみのことを知りたい。

 だからまた……会いにきてくれるか」


 メアリはうれしくて、身を乗りだす。


「はいっ! あの、わたしも同じことを、言おうと思ってました!」


 すっかり元気を取り戻したメアリのすがたに、コーザはほっとして笑った。

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