第5話 神さまと帰郷、後輩同伴
梅雨明けから二週間。
昼過ぎの東海道新幹線が、雨上がりの小田原を抜けて三島を通過した頃。
──夢の中、幼い望月
「雨上がりだんて、あんま遠くにゃ行くなよ。山の神さまに叱られるんて」
「はーい」
祖父の山は、ダイラボウと呼ばれる山の一角だ。
いつものように良い返事だけして、言い付けなんかそっちのけで、拓は長雨のあとの山を駆ける。
ぬかるみに足をとられながら、拓が自由に山中を探検していると、幼い拓の背丈と同じくらいに削られた石を見つけた。
石はくり抜かれていて、氏神か道祖神が祀られていたようだ。
「小さな神さまの、おうちかな」
そのくり抜かれた空間の隅っこに、小さな子どもの手で作ったような泥団子があった。
表面は乾いてヒビが入って、でも拓の小さな手では割れないほどには頑丈だ。
ならば、このヒビを治してやろう。
拓は近くの沢に行き、まず自分の手を洗った。
それから小さな手のひらを左右くっつけて、水漏れする即席のお椀を作って、沢の水を飲む。
沢の水は、冷たくて美味しい。ご馳走だった。
自分のノドを存分に潤した拓は、もう一度沢で両手を濡らす。そしてその濡れた両手で、ヒビの入った泥団子を包み持った。
「ちょっと待っててね、なおしてあげる」
拓は、ヒビを埋めるように指を動かして、手を濡らして再び泥団子のヒビに擦り付けた。
沢の水を吸った泥団子は、湿った土の色へと変わった。
その時である。
拓の手の中の泥団子が、小さな声を上げた。
「キュイ……」
「しゃ、しゃべった!」
驚いた拓は、泥団子を落としてしまった。
ころころと転がる泥団子は、その身に山の土をくっつけて、少しだけ大きくなった。そして、
「キュイ!」
元気よく鳴く泥団子には、小さな胴体と手足が生えていた。
「わわ、どろだんごが、どろにんぎょうになった!」
「キュイ〜」
泥団子の人形は、その小さな体で胸を張って、拓の背後の山を仰ぎ見る。
その時拓は、祖父の話を思い出す。
──ダイラボウには神さまがいてな。土の中に隠れて、山を守っているんじゃよ──
「もしかして、神、さま?」
「キュイ!」
「はは、神さまだ。どろだんごの神さまだ!」
その瞬間、夢の外から呼ぶ声がした──
「──いっ、先輩っ。起きてください」
「キュイ!」
拓が目を開けると、旅の同行者である後輩社員の宮沢
すぐさま視線を逸らした拓は、意識を覚醒させながら状況を確認する。
たしか新横浜から新幹線に乗って、崎陽軒の横濱チャーハンを食べて、そこまでは覚えている。
で、もう静岡か。新幹線は速いな。
ひとつ伸びをした拓は、自分の膝の上に置きっぱなしだった弁当の空箱を
「ん、どした」
「どうした、じゃないですよ。ほら、富士山見えましたよ!」
一穂の指差す車窓を拓が眺めると、幼少期から見慣れた日本一の山が視界に飛び込む。
「ああ、そう。今年の夏は雨が多いからな。お天気になってよかった……え」
東京生まれ東京育ちの一穂には珍しい富士山だが、静岡生まれの拓には見慣れた山だ。
それよりも、拓は気になった。
「ちょっと待て。さっき神さまの声がしなかったか」
「当たり前です。今日は、キュイくんも一緒に里帰りするんですから」
小さな頃の拓が出会った、動く泥団子の人形。
拓は、石祠で見つけたから「神さま」と呼び、後輩社員の宮沢一穂はその鳴き声から「キュイくん」と呼んでいる。
泥団子の人形はどっちで呼んでも反応してくれるから、本人、もとい本人形にとっての名前は、些事なのかも知れない。
きょろきょろと視線を這わせる拓の目に、一穂の淡い緑色のロングワンピースの膝で寝釈迦のように
拓は慌てて辺りを見回して、声を潜める。
「おい宮沢、ダメだろ。神さまが他の人に見られちゃうだろ」
「えー、他の人なんて、この車両にはいませんけどぉ」
少々舌足らずの甘い口調で、一穂は笑う。
たしかに一穂の言う通りなのだから、拓は言葉に詰まった。
「キュイくんも、ずっと狭いバスケットの中は嫌だよねー」
「キュイ、キュイキュイ!」
どうやら二人の間では、意思の疎通が成立しているらしい。
拓と神さまの付き合いは二十年。
対する宮沢一穂は、神さま=キュイくんと会ってから、まだ数ヶ月だ。
なのに一穂は、拓が二十年かけて突破出来なかった言語の壁を、あっさりとブチ破っていた。
非常に悔しい拓だが、今はそういう事態ではない。
思い直した拓は、一穂の膝で寝そべる泥団子人形に手を伸ばす。
「神さま、もうすぐだから、おとなしく隠れていてくれ」
拓の手が泥団子人形に届く寸前、一穂が身を引いた。
「助けて、キュイくん。拓先輩が私の下半身に手を、ああ」
「キュイ!」
「やめろ宮沢。その言い方、ものすごく誤解されるから」
「だーかーらー、誤解なんてする人はいませんって」
その時、車両どうしを繋ぐ扉が開いた。
「え」
「あ」
「乗車券を……あっ」
拓、一穂、車掌さんの声と視線が、微妙に交差して重なって、一瞬のうちに気まずい空気が醸成された。
静岡駅到着のアナウンスが流れる新幹線の車内。
拓は、あの車掌さんの、罪人を見るような目を思い出していた。
「楽しい新幹線の旅でしたね〜」
後輩の宮沢一穂は、肩を落とす拓に笑顔を向ける。
「ひどい目に遭った……」
「ふふ、キュイくんや私をそっちのけで寝ていた罰です」
そんな、短く長い旅路の果て。
目的の静岡駅のホームに、望月拓と宮沢一穂、そしてどろだんごの神さまを乗せた新幹線が滑り込む。
「暑い……」
「真夏ですからね〜」
静岡駅のホームに降りた途端に真夏の熱風を浴びせられた拓は、涼しかった新幹線に戻りたくなる。
よれよれのポロシャツの襟はあっという間に噴き出した汗を吸い、色が変わった。
涼しげなワンピース姿の一穂はといえば、神さまが隠れた籐編みの四角いバスケットを水平に保ちつつ、日傘の用意の最中だ。
「はい、先輩。日傘ですよ」
「まだホームだろ……」
「えへ、そうでした」
日傘と同時に片目を閉じる一穂を横目に、拓の足は自然とホームの売店へ向く。
静岡駅といえば、やはり東海軒の幕の内弁当だろう。
一見普通の駅弁だが、ひとつひとつのおかずが美味く、さらにご飯が絶妙に美味いのだ。
しかし鯛めしも捨て難いな。
などと、いつもの単独出張旅行のように考えつつ歩く拓のポロシャツを、一穂が引っ張る。
「もう、先輩!」
「ああ、悪い。つい出張の癖で」
拓は一穂の荷物持ちを引き受けるつもりで、手を差し出した。
その手を一穂がキュ、と握ったものだから、たちまち拓はパニックだ。
「お、急げば東京行きの新幹線に間に合うぞ」
「なにしれっと帰ろうとしてるんですか。里帰りは始まったばかりですよっ」
「その里帰りに、なんで後輩くんがいるのでしょうね……」
「何か文句でも?」
「……ありません」
一穂は、握った拓の手を引いて、駅の北口を出る。
自分の故郷なのに連行される身となった拓は、それもいいかと一穂に従った。
駅を出ての最初の目的地は、駅の北口から近いレンタカー屋だ。
そこで、予約しておいたセダンタイプの地味なレンタカーに乗り込む。
「ふるさとだよ、ふるさとだね、キュイくん」
「キュイ〜」
レンタカーが走り出してからは、一穂と神さま、キュイくんのコンビは、後部座席で楽しそうにコソコソしていた。
「まったく。はしゃぎ過ぎだよ、二人とも」
「だって先輩の住んでた山は、キュイくんにとっても故郷、なんでしょ?」
「そうだけど」
「それにぃ、私はぁ、先輩の生まれた場所が見られるのでぇ、テンション爆上がり中でーす」
……他人の故郷を見て、なにが楽しいのかね。
対人関係が苦手な拓は、一穂のテンションが上がる理由がまったく解らない。
幼少期はもちろん、多感な思春期でさえ、拓の遊び相手はどろだんごの神さまだけだった。
大学でようやく、研究や作業などの共通項を挟めば、
「それなりに人と話せる」
ようになったものの、
そもそもこの里帰りだって、後輩である宮沢一穂の提案、いやワガママ、いやゴリ押しであったのだ。
今日は、七月末。
七月盆と八月盆の、ちょうど中間。
けれど、どうして里帰りが今日なのか、まったく解らない。
しかも何故、同じ会社の後輩社員でしかない宮沢一穂が、拓やどろだんごの神さまの里帰りを言い出し、計画を立て、日程まで決めたのか。
その里帰りに一穂が同行する時点で、一穂の気持ちなど推して知るべし、なのだが。
その、推して知るべし、が拓には難問なのである。
そんな朴念仁には、もちろん一穂の心の機微なんて理解できる筈もなく。
「ただの山だぞ。そんなの仕事で見慣れてるだろ」
「……先輩。私でなかったら泣いてますよ。シクシク」
「泣いてるじゃねえかよ」
一穂の分かりやすいウソ泣きにだけ気づいて、そこで終わる。
何故一穂が泣き真似をするのか、どうして泣きたいかなど、そこまで拓の思考は辿り着かないのだ。
そんな拓との時間を、一穂は苦労しつつも楽しんでいる。それだけが幸いだった。
静岡駅から山間部へとレンタカーを走らせて、途中コンビニに寄り道したりして、四十分と少々。
「着いたぞ」
ダイラボウと呼ばれる山の一角。
ここが、どろだんごの神さまと出会った場所。拓の祖父の山だった場所だ。
祖父が亡くなった当時、横浜の大学に通う拓の代わりに、管理が出来る親戚に相続してもらった山である。
今日は、その山の近くに一軒だけある旅館に宿をとっている。
「ねー先輩、どうしても先輩と一緒の部屋じゃダメですかぁ?」
「ダメ」
「先輩と二人だと、キュイくんが寂しがりますよー?」
「なら神さまは、宮沢の部屋に泊まってもらうか」
「そういうことじゃない、と絶叫していいですか」
会社の先輩後輩の関係でしかない二人は、もちろん部屋は別々だ。
そこで困ったのはどろだんごの神さま、キュイである。
二人の間で迷った神さまは、珍しく少し落ち込んだ様子の宮沢一穂の横へテケテケと駆けて、その膝をポンポンと軽く叩く。
「キュイくん……ありがとうね」
どろだんごの神さま、男前である。
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