第3話 一穂の心は曇り空
五月雨の湿気を含む風は、それだけで初夏の爽やかさを忘れさせる。
それは、
「先輩〜、だるいですぅ」
いつも元気な後輩社員の宮沢
「宮沢、お前なんか顔色も良くないぞ。早退するか」
「そこまでではないです〜」
「……覇気もないな。どうしたんだ」
「それはぁ、ここでは言いにくいっていうかぁ」
拓を
途端に他の男性社員たちがざわめく。
一穂の色っぽさに、なぜか外野の男性陣がときめく。
ところで余談だが、拓はアンニュイという言葉の意味をよく知らない。
ただ、気だるげ、くらいの認識である。
そんな拓が一穂を見て感じたのは。
「……五月病だな」
「先輩。腹芸って知ってます?」
拓の察しの悪さは知っているつもりの一穂だが、まさかここまでとは思っていなかった。
「知識としてはな。あいにく経験はないが。あと絵が下手だから自分の腹に上手く顔を描ける自信はない」
「なーんかめちゃくちゃ勘違いしてるみたいですけど、まあいいです。質問を変えますね」
腹芸を腹踊りと間違えるとは予測できずにこめかみを押さえる一穂は、咳払いひとつで気を取り直して、再度拓に向かい合う。
「なんで月末のみたらし団子パーティーに呼んでくれなかったんですか。私、ずっと楽しみにしてたのに」
「いや、その話は……」
パーティーという単語に、いま営業課に残っている社員全員の視線が拓へ集束する。
しかし一穂が何を言いたいのかを瞬時に理解した拓は、慌てて一穂を制止して、目を泳がせた。
「わかりました。ヒミツの話の続きは資料室で二人っきりで、しましょ♪」
「……わかった」
先ほどとは打って変わってシャキシャキと歩く一穂の背中を、拓は猫背で追って歩く。
そして二人が去った営業課では──
「やっぱり怪しいわね、あの二人」
「なんで望月みたいな暗い奴に……一穂ちゃん」
「ヒミツって……アレ的な秘め事かしら」
「うぉおおお、認めん。オレは認めんぞ!」
ちょっとした阿鼻叫喚が繰り広げられるのだが、資料室に消えた拓と一穂には知る術はなかった。
「んふふ、実りある交渉でした♪」
「ひどい目に遭った……」
営業課に戻った一穂の表情は、喜色に染まっていた。
対照的に、あとから出てきた猫背の拓は、まるでこの世の終わりを見てきたかのような疲れ顔。
その生気を失った疲れ顔に、笑顔の一穂はくるりと振り向いた。
「約束、守ってください、ね」
可愛らしく首を傾げて微笑む一穂の目は、笑っていない。
が、周りの男性社員からすれば、拓は一穂に特別待遇を受けているように見えるから、余計に
刻はもうすぐお昼である。
昼休み、拓は男性社員たち三人に連行されるのであった。
拓が連れて来られたのは、会社近くの定食屋だ。
何度か拓も訪れた店だが、数人で連れ立って来るのは初めてだ。
「さあ、話してもらおうか」
拓の二歳年上、この席で一番の年長者である三十歳の田端が、話の口火を切った。
が、またしても拓は勘違いをしている。
口が裂けても神さまのことは喋るまい。
心に固く決めた拓に、田端の質問が飛ぶ。
「宮沢さんと、ずいぶん仲が良いんだな」
「は?」
思わず素っ頓狂な声を出す拓に、同席する男性からも鋭い視線を向けられた。
「とぼけなくても良いじゃないか。付き合ってるんだろう」
「いいえ、まったく」
神さまの件を聞かれていたわけではないと分かった拓は、少し落ち着きを取り戻す。
そんな拓の様子を余裕と解釈した田端は、少し語気を強めた。
「なら、どうして宮沢はお前ばっかり構うんだよ」
「それは、宮沢に聞くほうがいいと思います」
「あ? 調子乗ってる?」
「いえ。しかし自分は宮沢ではないので、宮沢の考えは分かりかねます」
拓の言っている内容は正しい。
しかし、質問する田端としては上手く躱された気がして、どんどん苛立ちが募っていく。
さらに田端が気に食わないのは、拓が言い訳のひとつ、謝罪のひと言も言わないことだ。
なんら後ろめたい事はない。
そう言われているようで、田端の内心は煮えていた。
「そんなこと、宮沢さんに聞けるわけないだろう!」
「では、なぜ俺には質問できるんですか」
これも正論だが、火に油である。
「お前さ。オレらの気持ち、わかってる?」
「そうそう。独身の男性社員のほとんどが一穂ちゃんを狙ってるって、気づいてないの?」
「それとも宮沢さんに相手にされない僕たちを馬鹿にしてるんですか」
拓を囲む同僚三人は、キョトンとしている拓に迫る。
そして、彼らの意見を聞いて拓が導き出したのは。
「だったら、俺なんか誘わないで、宮沢を昼食に誘えばいいのでは」
これも、至極正しい。
しかし時に正論は、言葉の刃と化す。
「呼んでも来ねえんだよ!」
「そうですか」
どうやら拓は、的確に田端の苦い過去を抉ったようだ。
「そうだ。望月先輩から誘ってくださいよ。僕たちと一緒にランチしましょう、って」
「いやだよ、面倒くさい。そもそも俺は一人で食べたいんだ」
拓の基本理念は、ずっと変わらない。
極力、ひとりでいたい。
それは営業課の全員が知っている、はずなのだが。
しばらく拓を見つめた田端は、諦めたように息を吐いた。
「はあ、もういい。悪かった。なんでも好きなのを頼め。奢るから」
「結構です。それに、この店で頼むメニューは決まってますから」
田端の申し出を当然のように断る拓に、席を同じくする三人の男性社員は深い溜息を吐く。
「田端先輩、やっぱり宮沢さんはこんな朴念仁を相手にしないと思いますよ」
「そうですよ。きっと一穂ちゃんは、望月を
「……そうだな」
そんな三人をよそに、ひとり拓はカウンターに移るべくテーブル席を立つ。
「あ」
立ち上がった拓は、田端に溢す。
「宮沢が俺に話しかけるのは、俺が宮沢の教育係をしてたせいでしょう、か」
「「「ずっとそういうことを質問してたんだよ!」」」
くたっとテーブルに突っ伏す田端ら三人を尻目に、カウンターに移った拓は。
「日替わり定食をお願いします」
と、何事も無かったようにカウンターの向こうに告げた。
日替わり定食を頬張る拓の頭の中は、資料室での一穂からの交渉の結果、これから毎週末、一穂が拓の家に訪れるのを承諾させられた件でいっぱいだ。
しかし、拓は一穂の気持ちもわかるのだ。
「神さま、かわいいもんな」
訂正。拓は一穂の気持ちを正確には理解していないようである。
その翌週のこと。
「出張、ですか」
外回りを終えて営業課に戻った望月
「うん。先方が休日を希望でね。今度の土日に行ってもらいたいんだが、大丈夫か?」
拓にとっての週末は、ゆっくり神さまと過ごせる大事な時間だ。
最近は一穂も一緒だが、一穂と神さまが遊んでいる光景も、一穂が作る食事も、また拓の癒しの要素となっていた。
その貴重で大事な、週に一度しかない週末に、出張。
仕事に関してはいつも即答で引き受ける拓だが、今回ばかりは迷っていた。
そこに拓と同様、外回りから帰社したばかりの田端が、余計な口を出す。
「拓、おまえは友だちも彼女もいない独身なんだから、旅行気分で気軽に行ってくりゃいいじゃねえか」
田端の物言いを窘めようとする井上課長だったが、そこにカットインしてきたのが宮沢一穂だ。
「恋人がいない独身社員には、休日の出張を断る権利はないというお考えですか?
一穂にとっても最近の週末は、やっと手にした幸せな時間である。
念のため明言しておくと、一穂は拓の家に泊まったことはない。
拓の部屋で神さまと遊んだ土曜日の夜は自分の家に帰って、再び日曜の早朝に拓の家を訪れるのである。
「一穂ちゃんには関係ないだろう」
「田端先輩にも関係ないですよね?」
拓と井上課長の視線の間で、田端と一穂が睨み合う。
先に目を逸らしたのは、田端だった。
「課長、出張先は何処なんです」
「広島だよ」
「良かったじゃねえか望月。本場のお好み焼き、食ってこいよ」
まるで他人事にように吐き棄てる田端に、一穂の苛立ちは限界を超えた。
「なら、田端先輩が行って来たらどうですか。田端先輩、総務の女の子に振られたばかりじゃないですか。傷心旅行には持ってこいですね!」
「な、それは関係ないだろ」
「そうでした。庶務や経理の女の子にも振られたんでしたね」
「も、もういいだろ」
想定外の方向から責められて汗をかく田端に、井上課長は告げる。
「先方は、拓を指名して来たんだよ。ほら覚えてるか。去年のリゾートホテル建設の地盤調査の件」
「そこって、たしか拓先輩の進言で、ホテル建設は場所が変更になったんですよね」
拓は、去年の案件を思い出していた。
調査の結果、液状化の危険性が高く、高層建築物を安全に建設するには大幅な土地改良が必要であった。
それを真っ正直に伝えた拓の真摯さに、施工主から感謝されたのだ。
「そういうことだ。その時の拓の対応を先方はいたく気に入ったようでな。今回は指名なんだよ」
「そう、ですか」
一穂は俯いて、自分の席に戻る。
「あと、;田端君はあとで第三会議室に来るように」
「え、なんで」
「経理から苦情が来ている。といえば分かるね?」
「……はい」
田端は、顔を青くして営業課を出て行った。
「そういうことだから頼むよ、拓」
「はあ、わかりました……」
とぼとぼとデスクに戻った途端、俯く拓の仕事用のスマホが鳴動する。
メッセージだ。
『あとで話があります』
一穂からのメッセージだった。
一穂に呼び出された、薄暗い資料室。
拓は一穂の提案に困惑していた。
「週末、キュイくんを任せてほしい」
要は拓が不在の間、神さまのお世話をしたいという内容だったが、食事をしない神さまに世話は不要だ。
しかし、寂しさは別だ。
これまでも、拓が泊まりの出張のときは、部屋に帰るなり神さまが飛びついてきて、いつも以上にじゃれてきた。
それを思い出すと、拓は涙が溢れそうになる。
今までは仕方なかった。神さまの存在を含めて拓の事情を知る者はいなかったのだから。
しかし、今は一穂がいる。
悩んだ挙句、拓は財布に隠し持つ部屋の合鍵を一穂に渡した。
「神さまのこと、頼んでいいか」
「も、もちろんです!」
一穂の顔は真っ赤だったが、幸いに資料室は薄暗かった。
そして、日曜の夜。
出張から帰った拓は、部屋に入るなり驚いた。
料理の匂いがする。
これは、焼き魚かな。
いや、豚汁の匂いもする。
キッチンを通過してリビングに入ると、ローテーブルに一枚の画用紙が。
その向こうには、ローテーブルに突っ伏して眠る一穂と、茶色いクレヨンを抱えて寝ている神さま。
拓は、自分でもわからない感情が込み上げて、涙が出そうになる。
一穂たちを起こさないように、忍び足でソファーに歩いて、静かに出張の荷物を置いた。
「あれ、おかえりなさい……うわ、寝てた!?」
目を覚ました一穂は、跳ねるように居住まいを正して、あらためて拓に伝える。
「おかえりなさい。拓、先輩」
一穂の化粧っ気のない笑顔は自然で、あざとさも悪どさもない。
「……起こして悪かった」
言葉少なに返した拓は、視線を神さまへ逃がす。
「あー、さっきまでお絵描きしてたんです」
一穂は、画用紙を拓に見せる。
画用紙には、二人の人物。一人は男で、もう一人は、女性のようだ。
その二人の真ん中。
茶色い丸から、手足が生えていた。
「キュイくん、すごいでしょ。私たちの絵、ですって」
拓は、突発的に溢れる涙を溢さないように、上を向く。
そして、一穂に合鍵を預けたのは間違いではなかった、と心の中で感謝した。
「さ、ごはんにしましょ。用意してくるから、その間に着替えちゃってください」
そそくさとキッチンへ向かった一穂の背中を、拓は自然と目で追っていた。
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