第2話 急襲、後輩社員
土曜日の午前。
週末の
溜まった洗濯物を洗って、部屋の掃除をして、あとはダラダラするか、どろだんごの神さまとお絵描きして遊んでいる。
「おー、イノシシかぁ。神さまは上手いな」
「キュイ」
自分の背丈の半分くらいのクレヨンを両手で抱えた神さまは、スケッチブックの横で胸を張る。
「よし。俺も負けないぞ」
拓もスケッチブックにササっと絵を描いて、神さまに見せる。
だが神さまは、どろだんごの小さな頭を傾げて、不思議そうにスケッチブックを見ていた。
「なんだか分かるか?」
「キュイ〜?」
首を横に振る神さまに、拓は困ってしまう。
「なんだよ、わかんないのか。トラだよ、トラ」
拓が描いたスケッチブックの絵は、つまようじが四本刺さった生焼けのコッペパンにしか見えなかった。
次に描いたシカもやはり、つまようじの刺さったコッペパンだ。
だが攻守交代した神さまが描いた絵は、ちゃんとシカに見えた。
「すごいな。ツノを描くなんて、どこで覚えた高等技術だよ」
「キュイ〜」
褒められてまんざらでもない神さまは、クルクルと踊り始めた。
神さまの、唯一無二の喜びの表現だ。
「はは、絵は神さまのが上手いな」
拓の休日は、二十年以上こんな感じだ。
家の用事をして、どろだんごの神さまと遊んで、終わる。
それが拓の日常であり、幸せだった。
「さて、次は何して遊ぼうか……神さま、眠いのか?」
実際はクルクルと踊り疲れただけなのだが、喋れない神さまの細かい機微は、まだ拓には理解できない。
ただでさえ仕事以外での他者とのコミュニケーションが苦手な拓に、話せない相手の気持ちなど、正確にわかるはずもないのである。
「じゃあ、昼飯まで少し寝るか」
「キュイ〜」
拓の見当はずれの提案に、神さまは賛同する。
そこに理屈などない。神さまは、拓が好きなのだ。
「よし、布団を敷いたぞ。お昼寝、よーい」
拓が手を上げると、神さまも同じように短い手を上げた。
「どん!」
掛け声とともに拓は布団に、神さまはこの部屋の隅っこのクッションに寝転がる。
あーあ。
この時、拓が寝る前にきちんと戸締りの確認をしていたら、のちに訪れる災難を回避できたのに。
カーテンの隙間から差し込む春の西陽が、寝返りをうった拓の顔面を照らす。
眩しさに目を覚ました拓の視界に、人影が映る。
「おはようございます。先輩っ」
「ああ、おはよ……え」
聴き覚えのある声に、拓は反射的に挨拶を返す。
ガバッと起き上がって、拓は神さまの所在と無事を確かめるために視線を走査させる。
しかし、神さまが寝ていたクッションに座っていたのは。
「せっかくのお休みなのに、夕方までお昼寝ですかぁ」
拓の後輩社員、宮沢
「な、なんで宮沢!?」
「ふふ、なかなか哲学的な質問ですね〜」
頭の整理がつかない
「そのまま質問に答えるならば、私が宮沢家に生まれたから、です」
「いや、そうじゃなくて」
「どうしてここに私がいるのか、という意味の問いならば」
「質問の意図、わかってるじゃねえか」
拓が寝起きで混乱していることもあってか、既に一穂のペース、見事に術中にはまっている。
「天気が良いから先輩を遊びに誘おうと会社支給のスマホに何回電話しても出なかったので心配になってアパートに来てみたら玄関のカギがあいていた、でしょうか」
きゃるん、と効果音が鳴りそうな一穂の笑顔と仕草に、少しだけ拓の心が跳ねる。
が、まだ拓には余力がある。
しかもさっきまで寝ていたのだ。スタミナだって万全だ。
大丈夫、拓はまだ戦えるはず──
「なんで俺のアパートを知ってるんだよ」
「普通に仕事帰りに尾行して突き止めましたけど、なにか?」
「それもう犯行声明じゃないか。というか、そのクッション……」
「このクッション、すっごくふかふかですね〜」
──ダメだった。
クッションに寝ていた神さまの所在を聞きたかった拓だが、神さまの存在を隠して聞ける筈はない。
そもそも、拓と一穂では対人スキルに雲泥の差があった。
拓は、聞かれた事を真っ正直に答える人間だ。
仕事では、その実直さが営業先に気に入られているが、今のように何の条件も目的もない状態は拓の大の苦手。
しかも目の前の相手は、拓の最も苦手な、可愛くて綺麗な女性。
対する一穂は社交性に溢れ、知識も豊富。なんでもござれの才媛だ。
「そもそものスペックが違い過ぎて、勝てる気がまったくしない……」
一穂との
しかし今は、クッションに寝ていたはずの神さまの無事を確認するのが最優先。
少しずつ脳が覚醒し、今さらそれに気づいた拓は。
「あの、そこに寝ていた、あの、丸い」
何故か平身低頭、かつしどろもどろに、一穂に問いかける。
どろだんごの神さまの存在は、ずっと一緒にいる拓にも説明が難しい。
動くどろだんご人形、などと言ったところで、誰が信じるのか。
ゆえに、イメージに抽象をトッピングしたような質問しかできなかった。
「あ、この子ですか」
しかし一穂はあっさりとしたもので、胸に抱いたどろだんごの神さまを拓に向ける。
拓がそれを発見出来なかったのは、単に女性の胸元を凝視するのは失礼という、拓独自も戒律が原因としかいえない。
「ああ、神さま。よかった、無事だった」
「キュイ〜」
思わず神さまに飛びつきそうになる拓だが、その位置が一穂の胸元なのを見て、とどまった。
それに一穂の胸に抱かれた神さまは、とても楽しそうで、嬉しそうに見えた。
拓がダイラボウの中腹で神さまと出会ってから、二十余年。
神さまが知る人間は、拓だけだった。
そうか。
もしかしたら神さまは、寂しかったのかもしれない。
そう思うと拓は、なんとも言えない申し訳なさに再び項垂れるしかできなかった。
「この子って、神さまなんですか?」
「あ、いや」
「可愛いですよね。キュイって鳴くから、キュイくんって呼んじゃいましたっ」
胸に抱く神さまを見下ろして微笑む一穂に、拓は一瞬心を奪われそうになる。
しかし、一目惚れ否定派の拓は、そう簡単に恋に落ちたりしない。
しないったら、絶対にしないのだ。
それでも、既に面識のある相手の初めて見る表情に惚れたところで一目惚れとはいわない、という事実が分からないくらいには、拓は動揺している。
が、一穂の胸の神さまの、短い両手を振ってはしゃぐ仕草を見て、拓は
「か、神さまを離せ!」
ご近所トラブルが起こりそうな声量で、拓は叫んだ。
二十八年の人生の中で拓は、数えるほどしか怒ったことがない。怒鳴った経験に関しては皆無だ。
ゆえに、声のボリュームの調節がめちゃくちゃ下手だった。
そんな拓に苦笑する、人あしらいにかけては百戦錬磨の一穂は笑顔だ。
「なんです、突然大きな声で」
「お前のほうが突然だろ!」
「もしかしてカルシウム不足ですか」
「違う!」
声の突然より、一穂来訪の突然が先だ。
一穂の正論を、拓は拓なりの正論で打ち返す。
だがやはり一穂のほうが、一枚も二枚も
時にはぐらかし、好機と見れば的確に拓を
それが高性能型後輩社員、宮沢一穂という人物だ。
「あらあら、なら反抗期ですか。それともイヤイヤ期」
「どっちでもねぇ!」
大きな声を出し過ぎた拓は、ちょっと息が上がっている。
一方の一穂はまだまだ余裕で、胸に抱いた神さまに「やかましいですね〜」などと笑顔で話しかけていた。
しかし、このまま不毛な言い争いをしていても仕方がない。
拓が神さま奪還のための知恵を絞っていると、一穂は神さまを自分の膝に移して、軽く手を叩き合わせた。
「そうだ、お昼にしましょう」
一穂の急なドリフト的方向転換に、思考が追いつかない拓は呆気にとられる。
そんな拓を尻目に、一穂は大きなトートバッグから出した弁当箱の群れを拓の前に並べていく。
「え……」
なんとも用意周到な一穂に、拓は驚いた。
その直後、透明なフタの向こうに見える色とりどりのおかずに、拓の腹は鳴き出した。
「ふふ、体は正直ですね。先輩っ」
昨日の晩御飯をインスタントラーメンで済ませてから何も食べていない拓は、美味しいそうな弁当を見て、急に空腹を自覚したのである。
「本当は一緒にお昼ごはんを、と思って作ってきたんですけどね。どこかの誰かさんが、ずーっと気持ちよさそうに寝てるから」
次から次へと開けられていく弁当箱の中身に目を奪われる拓に、一穂は話しながら笑顔を向ける。
見られていると気づいた拓は、色とりどりの弁当箱から目を逸らす。
その姿に笑みを浮かべる一穂に、拓少しだけ不貞腐れた。
「……なんで起こさなかったんだ」
「えー、滅多に見られない先輩の寝顔ですよ。起こすなんて、もったいなくてできるワケないじゃないですか。それに」
一穂は、胸元から膝の上に移ったどろだんごの人形を、優しく見つめる。
「キュイくんが遊び相手になってくれましたから、ね」
「キュイ〜」
キュイくんこと神さまが一穂と笑い合う中、拓の意識は一穂の手作り弁当に戻っていた。
そしてまた、拓の胃袋が鳴き出す。
「本当に腹ペコさんなんですねー」
「……昨日の晩飯から食べてないから」
「もう、ちゃんと食べてくださいね」
苦笑する一穂は、弁当箱のひとつを拓に差し出した。
「食べて、いいのか」
「そのために作ってきましたから」
いただきます、と小さく呟いた拓は、受け取った弁当を食べ始める。
うまい。
なにより、拓にとって久しぶりの手作りだ。
拓の手にある弁当は、みるみる中身が減っていく。
その様子に一穂は、拓に見えない陰で小さく拳を握った。
「ところで先輩、この子には何をあげればいいですか」
残る弁当の中身を吟味しながら、一穂は拓に問う。
「んー、神さま、普段はごはん食べないからなぁ」
「そうなんですね〜かわいい」
「月末だけ、みたらし団子は食べるけど」
その瞬間、一穂の目が輝いた。
「先輩、次のみたらし団子パーティー、私も呼んでくださいっ」
拓は、返事そっちのけで一穂の手作り弁当をかっ喰らっていた。
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