どろだんごの神さま
若葉エコ(エコー)
第1話 神さまのいる日常
春。夕暮れの横浜は柔らかい風が吹く。
望月
大学進学で静岡から横浜に出て以来、拓は大学近くに借りたアパートにずっと住み続けている。
別段、今のアパートが気に入っているわけではない。ただ、他の部屋に引っ越すだけの理由がないのだ。
会社までは
あえて難を挙げるならば、新幹線に乗るには一度横浜駅に出てから横浜線への乗り換えが必要なくらいだ。
「ただいま」
そんな安アパートに帰宅した望月
「キュイ〜」
「ただいま、神さま。留守番ありがとう」
テッテケと走る小さな影は拓がしゃがむのを待てずに跳んで、結果拓の足首にしがみついた。
拓はスラックスの裾に抱きついた「どろだんごの神さま」を両手で抱え上げる。
どろだんごの神さまは、短い手足をバタつかせて、拓の手の中でキュイキュイとはしゃいで鳴いた。
「ちょっとだけ待っててな」
神さまを抱っこしたまま洗面台に向かった拓は、歯ブラシセットの横に神さまを座らせて、手洗いとうがいを済ませる。
「神さま。お水、どうする?」
拓が問うと、神さまはどろだんごの体で洗面台までジャンプする。
そして蛇口から出る弱い水流を転がるように全身に浴びて、すぐに洗面台の
どろだんごだけに、乾燥は天敵のようだ。
洗面台の縁に腰掛けた小さな神さまは潤いを取り戻して、拓にはとても上機嫌に見えた。
拓が神さまと呼ぶこのどろだんごの人形は、幼い拓が故郷で見つけた。
本当に神さまかどうかは、拓にはわからない。
けれどダイラボウという山の中腹、倒れた石造りの祠の中に見つけたから、神さまみたいな気がした。
試しに神さまと呼んだら、キュイと鳴いたので、それからずっと神さまと呼んでいる。
「さて、今日は何を食べようかな」
キッチンの冷蔵庫を開けて、拓は今夜のごはんを物色する。
あるのは、タッパーに詰めた冷やごはんだけ。
「……なるほど、おかずがないな」
冷静に呟いた拓は、視線を九十度左にある棚に向けた。
「非常食のお世話になるか」
電気ポットで湯を沸かし、同時にごはんのタッパーを電子レンジに放り込む。
必要な湯量は、三百ミリリットル。それくらいなら、すぐに沸く。
それまでの寸暇でカレーヌードルの外装フィルムを剥がし、ペリペリとフタをめくる。
グラグラ言っていたポットがカチンと鳴った。湯が沸いた合図だ。
熱々をそのままカレーヌードルに流し込むと、もわっと食欲をそそる匂いが立った。
「これで三分待つだけ。非常食さまさまだな」
一方、どろだんごの神さまは、部屋の隅っこに拵えた神さまエリアに戻っていた。
神さまエリアには、手作りのちっこい鳥居があって、神さまの布団として四角くてふかふかの一人用クッションが置かれている。
ここで神さまは、拓の帰りを待つのである。
神さまがクッションの上でぽてぽてと遊んでいると、カレーヌードルとタッパーごはんを持った拓がリビングのローテーブルに着いた。
「いただきます。そういえば、前に話した変な後輩社員がさ──」
脈絡もなく始まる拓の話に、神さまはたまに頷いたり、聞いていなかったり。
拓も別に、話し相手が欲しいわけではない。
神さまを寂しがらせてはいけないと思うだけである。
基本は、拓も神さまも互いに干渉せず、かといって無視をするでもない。
もちろん二人で遊ぶこともあるけれど、それ以外は自由。
互いの存在を感じながら、気ままに過ごすのだ。
そこには拓や神さまの故郷静岡の田舎と同じ、長閑な空気が醸成されていた。
こうして拓と神さまは、二十年余りの年月をたった二人で過ごしてきた。
話は拓の幼少期に遡る。
拓には、両親の記憶がない。拓が憶えている最古の記憶は、ダイラボウの麓で祖父と遊んだ記憶だ。
祖父は、幼い拓のすべてだった。
そんな拓が、ダイラボウの山中でどろだんごの神さまと出会う。
言葉も交わせない二人は、それでもすぐに友だちになる。
拓も、神さまも、寂しかったのだろう。
それからずっと、二人だった。
「──でさ、その後輩がうちに来るってしつこくてさ。だから神さま」
カレーヌードルのスープを飲み干した拓は、神さまをじっと見つめる。
「俺がいないときに誰か来ても、絶対ドアを開けちゃダメだぞ」
「キュイ!」
神さまは拓の言葉を理解できるし、きちんと約束は守ってくれる。
拓が出張中の留守番だって頼める。
つまり、神さまは悪くない。
もしも今週末に何か事件があったとして、悪いのは休日だからと油断して、玄関の戸締りもせずに呑気に昼寝を始めてしまった、拓である。
そんな土曜日が待ち構えているとは知らない拓は、いつものようにダラダラと過ごす週末を心待ちにしていた。
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