エピローグ

 温かいものに包まれている。


「……?」


 擦り寄って、柔らかい、いい香りに釣られて、すぅ、と、息を吸い込む。


「……」


 固いような、柔らかいような。温かい、何か。もっと触れていたくて両腕を伸ばしたところで、何かが離れていった。


「……?」

「目が覚めたか」


 低く掠れた声に、ぼんやり目を開ける。いま、旦那様の声が、聞こえたような。


「カルティナ?」

「え?」

「まだ頭がぼんやりするのか?」


 大きな手が前髪を掻き上げて、視界が開ける。柔らかい朝の日差しの中で、一際美しい人の輪郭まで光っているように見えた。額が温かくて顔に血がのぼってくる。


「だんなさびゃ!」

「びゃ?」

「お帰りなさい!?」

「ああ。戻った。水を飲みなさい。少し落ち着くように」

「ひゃい……」


 体を起こして、顔に集まった熱を散らせる。ふぅとひと息ついたタイミングで、水が差し出された。ありがたくいただく。


「ゆっくり飲め。一気に飲んだら体が驚く」

「ふい……」


 飲みながら中途半端な返事をする。なんだか飲んでも飲んでも余計に喉が渇いてくる気がする。


「君はな。三日寝ていた」

「三日」

「『そういうこともあるのか』の顔はやめなさい。異常事態だ」

「異常事態なのですね」


 頷いて見せる。

 旦那様がベルを鳴らすと、ロビンやトピカが部屋に入ってきた。目が合うと二人とも力が抜けたように柔らかく笑う。


「あれを」


 旦那様の指示で運び込まれてきたのは、二枚のキャンバスだった。二つとも画布に煤を塗りたくったように汚れて、描かれたものは読み取れない。


「魔術師連中に解読させた結果、これらの絵には古代召喚魔法陣に非常に似た魔法陣が刻まれていることが分かった」

「なるほど」


 その魔法陣、ぜひとも見てみたい。じっと目を凝らして汚れたキャンバスを見つめたが、やはり自分には魔法の適性がないのかそれらしいものは全く見えなかった。


「何がなるほどなんだ? 君が描いたものだぞ」

「え?」

「あのウサギと、私は見ていないが聖獣の絵だ」

「聖獣の絵?」


 そんなものを描いた記憶はない。いや、そういえばさっき目が覚めたときは気付かなかったが、記憶にある限りカルティナは絵を描いていたはずだった。戦いの最中にいる旦那様を思って、助けになってくれるような聖獣がいてくれたらとは思っていたが……、途中から記憶がない。


「旦那様、奥様は絵の感性と同時に気を失われましたので、おそらく完成した絵はご記憶にないかと……」

「そうなのか」

「あの、私の描いた絵から、また動物が出てきたのですか?」


 あのウサギのような動物が出てきたのなら、見てみたい。ウサギももう一度抱きしめてみたいし。

 そう思って訊いたのだが、旦那様は眉間に少し皺を寄せた。


「出てきた。俺の張った結界を内側から破ってな。しかし……君の魔力を使い果たしたため、もう消えてしまった」

「消えた……?」

「ああ。絵もだめになってしまった」


 すまない、と旦那様が囁くように言った。

 キャンバスを見る。どちらの絵も、旦那様のために描いたものだ。描かれたものたちも、きっと旦那様のために絵から出てきたと思う。


「……お役に立ちましたか?」


 見上げると、旦那様は小さく息を呑んだ。それから、困ったように眉を下げて微笑んだ。


「ああ。助けられた。本当に……」

「なら、きっと本望だったと思います」


 きっと、たぶん、絶対に。

 旦那様も静かに頷いた。


「君の魔法の適性は普通とは違っているのだろう。おそらくは絵を描く際に魔力を込めて、大魔法を発動させる絵を生み出すことができるといったものだな」

「私の絵から大魔法……?」「ああ。これが知られたら、君は国王陛下に取りあげられるだろうし、君の父親も出しゃばってくるだろう。離縁を迫られる可能性も十分ある」

「嫌ですが?」

「許すつもりはない。が、……君がこれだけすごい魔法が使えるのに、魔法が使えないなどと不名誉な噂のまま放置するのも不愉快だ」

「そう、ですか?」


 カルティナとしては一切気にならないが。


「君は魔法が使えない無能な人間ではない。そもそも魔法が使えない人間を無能だとする考えが気に入らないが、君の魔法は素晴らしい。しかし、公表するとまずい。公表せず君が侮られるのは気に入らない」


 相当悩んでいるらしく、旦那様は難しい顔をして唸り始めた。その手をそっと握る。


「旦那様。私は旦那様をお助けできたなら、それでいいです」


 まだ本当に自分が大魔法を使えるのかすら実感が湧かないが、たとえ本当だったとしても、それで誰かに認めてもらいたいとは思わない。そもそも社交界に出ていないカルティナにとって、知らないこの世のどこかで流れている不名誉な噂など気にもならないのだ。


「しかしだな」

「もっと大切なことがあります」


 まだ言い渋っている旦那様を、握った手に力を込めて遮る。


「深淵からの魔物はどうなったのですか?」

「まだ湧いてはいる。が、湧きの規模がかなり小さくなって、学者は今後元のペースに戻るだろうと予想している」

「では、旦那様は砦からこのお屋敷にお戻りになられるんでしょうか」


 今までずっと離れて生活してきた。これで旦那様が砦から戻ってきてくれるなら、ようやく夫婦として一緒に過ごせるかもしれない。

 期待を込めて旦那様を見上げると、旦那様は「あー……まあ、そうなる、……そうなる……」と口の中で言葉を濁した。

 もしかして帰ってきたくないのだろうか。

 カルティナと一緒に暮らすのは、嫌なのかもしれない。


「待て。誤解をしている顔だ。そして今のは完全に俺が悪かった。だから聞いてくれ。泣く前に聞いてくれ」


 両手をあわあわと空中で彷徨わせながら、旦那様はひどく慌てたように言った。それから立ち上がり、ベッドのそばに膝をつく。ベッドの上で座り込んでいるカルティナと、目の高さが同じくらいになった。


「カルティナ。俺のところに嫁いできてくれて、俺の妻になってくれてありがとう」


 真正面から伝えられた言葉は、胸に響いた。衝撃を伴って、体の一番奥底に届いた。


「本当はただ、形だけの婚姻で君とは離れて暮らすつもりだった。俺の人生は魔物のいる場所で、魔物を殺して生きるものだと思っていたから」


 離れて暮らすつもりだったと言われて、妙に納得した。

 だから好きに生きろと旦那様は言ったのだ。たまたまカルティナが好きなことも嫌いなこともない空っぽな人間だったから通じなかっただけで、旦那様は「勝手しろ」と言いたかったのだろう。

 それには、塔で生きてきた自分の人生を思い返すような悲しさがあった。誰からも相手にされない空虚は、もはやカルティナには耐えられない。


「だが、今は違う。その、君は、違うな、俺は……その……君を……」

「なんでしょう」

「その、なんだ。アレな感じだ」

「“アレな感じ”?」

「——愛している」


 ぱちくり、とカルティナは瞬いた。

 愛している。

 美しい言葉だと思った。

 だが、


「旦那様」

「なんだ」

「愛している、とは、どういうことでしょう? 私には分かりません」

「……そうきたか……」


 旦那様は顔を手で覆い、天井を仰いでしまった。それを見ながら首を傾げる。もしかしたらカルティナも、もうとっくに理解しているのかもしれない。けれど、やはり、分かっているようで、分かっていない。例えば旦那様の愛しているとカルティナの愛しているが、果たして本当に同じなのかどうか、とか。

 同じだったら、嬉しいなと思う。


「カルティナ」

「は、……」


 返事をしようとした唇に、旦那様の唇が触れた。こちらに身を乗り出した旦那様の、美しい目が本当に近くにある。


「俺が教える」

「……は、はい」

「君も俺に、もっと教えてくれ」


 そう言って旦那様は、ふっと、柔らかく笑った。

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私の絵から大魔法!? 〜魔法適正がないはずの空っぽ公爵令嬢、嫁ぎ先で未知の魔法を連発し、世界とか救ったり〜 斎藤 @tetekomaami

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