5.

 砦に戻った旦那様から、手紙の返事がくるようになった。


『好きな色は、青空のような色だ』

『ウサギは元気だ』

『淡い銀色が好きだ』

『今日は魔物の出が穏やかだ』

『柔らかい金色も好きだ』


 一文一文はとても短いが、便箋の薄い罫線を無視した大きな字がとても素敵だった。折り畳まれた手紙を一枚一枚丁寧に伸ばして、ロビンにアイロンを当ててもらい、重ねていく。いつか本のように分厚くなってくれたら表紙をつけて綴ってもらうつもりだ。


「……少し絵を描きます……」


 昼食の間もマナーの勉強だ。テーブルマナー自体は完璧にできても、会話の練習は失敗続きだ。どうもカルティナは、人と会話するのが下手らしい。先生に何度「ん?」と言われたか分からない。

 貴族関係の勉強も行き詰まっている。家系図を丸暗記できても、派閥を丸暗記できても、そこから貴族社会の流れを想像したり、強弱を読み取ったりするのがどうしても苦手だった。

 ウサギの絵を描いてから、旦那様がプレゼントしてくれた動物図鑑もまだ読めていない。

 よたよたと歩いて、自室の隣に向かう。結局、音楽も刺繍も詩もがんばっているがいまいちなままだ。絵ももちろん上手くはないのだが、描いていて楽しい。無心になれるのでつい絵を選んでしまう。


「……」


 ウサギの絵を描いて以来、いくつかの小さい絵を仕上げてはいるが、どれもただの絵だった。描かれたものが出てくることも、特別な効果が発生するわけでもない。

 絵からウサギが出てきたというのも、やはりカルティナの魔法ではなく、他の誰かの魔法なのだろう。一体誰の、という疑問は残るが。


「絵に描かれたものが具現化する……存在しない物を……命を発生させる魔法……」


 仮にそのような魔法があったとして、どのような指示を精霊に出すのか。魔法の先生とも少し話したが、最近来てくれた先生は何か物を教えてくださるというよりは、魔法についてお喋りに付き合ってくださるような感じなので答えは見つかっていない。カルティナの絵から実際にウサギが出てきた話をするわけにもいかないので、『こんな感じの魔法があるとしたら、どんな原理だと思いますか?』なんて訊き方しか出来ないのも話題がふわっとしてしまう原因だ。


「失礼します。奥様、お手紙です」

「ありがとうトピカ」


 部屋までわざわざ持ってきてくれたらしい。詩を書くテーブルに移動する。ペーパーナイフで封を開けると、いつもより乱暴な文字で一言だけ書いてあった。


『しばらく返事は書けない』


「……ロビンを」

「呼んで参ります」


 すぐにトピカが部屋を出て行った。ロビンが来てくれるまでのほんの短い間が、妙に長く感じる。心臓の動き方が急に下手になったみたいだ。体の真ん中が軋んで、全身に響く。


「お待たせいたしました。奥様」

「戦況を教えてもらえますか」


 地理の先生は、奥様が前線に出ている魔術師だけそうで、カルティナにも戦況を教えてくれる。が、直近の授業では戦況は落ち着いていると言っていた。


「お待たせいたしました。奥様」

「前線の様子を教えてください」

「……奥様」

「ロビン」


 お願いする代わりに名を呼んだ。顔を上げた。目を見た。

 ロビンの目は迷っていた。


「教えてくれるだけでいいのです」

「……かしこまりました」


 深く頭を下げると、ロビンはまず椅子に座るよう勧めてくれた。それから話し始める。

 深淵から巨大な鬼のような魔物が現れたこと。

 大鬼に集中しようにも、通常湧いて出てくる魔物の対処がおろそかになること。

 通常湧いて出る魔物を先に間引こうにも、大鬼が手強すぎて対処せざるを得ないこと。

 そのせいで、少しずつ前線が押されているということ。


「ですので、旦那様もしばらくは戦闘の最中に立たれます。おそらくは大鬼退治を果たされるまで、お返事は来ないものかと」

「……分かりました」


 自分でも意外に思うほど、静かで落ち着いた声が出た。ロビンの話を聞いているうちに気付いたのだ。戦況がよくなろうと、悪くなろうと、今のカルティナにできることは何一つないと。

 遠い海の向こうの童話みたいに、鬼退治ができるわけもないのだ。


「旦那様はこの国で最も強いお方です。ご心配はいりません」

「はい。……トピカ」

「こちらに」


 部屋の隅で待機していたトピカがすぐに来てくれた。

 この屋敷に来た日からずっとそばにいてくれた。しかし、


「トピカ。あなたは強いですよね?」

「はい」


 ロビンよりも旦那様よりもずっと大きな体は、戦うためのもののはずだ。

 けれども。

 戦いに行けと命じるのは、それも戦況が悪化した前線に行けというのは、もしかして死ねと命じることになるのではないか。そう思うと言葉が続かない。


「私の実力は旦那様に劣りません」

「奥様、トピカは」

「ですので旦那様は私を奥様におつけになりました」


 立っていたトピカが、膝をつく。その顔は、半分が肌の色をして半分か赤い色をしている。その赤い方に触れながら、トピカが言う。


「はじめはこの火傷で戦場をおろされたのだと思いましたが、今は違います。私が強いから、奥様を任されたのです。誇りを持って奥様にお支えしています」

「トピカ……」

「戦場には行きません」

「……わかりました。ごめんなさい、勝手なことを言おうとして」

「いいえ」


 トピカが立ち上がる。

 誰かを戦場に行かせる、というなは、自分にできることとはまた違う気もする。

 自分にできることを。

 勉強や手習いを、一つ一つ頑張るしかない。


「午後のお勉強はお休みにいたしましょう」

「でも」

「大丈夫ですよ。ほら、旦那様からプレゼントされた本があったでしょう。ゆっくり読書でもなさって、気分転換いたしましょう」


 ロビンが明るい声をだし、手を叩いた。ソファの横に大きな図鑑と、紅茶と、いつから用意していたのか小さなお菓子の乗った皿が運ばれてくる。


「ごゆっくりお過ごしくださいませ」


 ロビンが頭を下げて、部屋を出ていく。そんな気分ではなかったのだが、せっかくロビンが勧めてくれたのだからと、本を開いた。両手で抱えるほど大きくて分厚い本を膝に乗せ、ページをめくっていく。


「これが犬。こっちは鳥、猿……」


 どの動物も、顔が怖くて牙が生えていたり、とても強そうだった。


「それは切り裂き猿ですね」

「切り裂き猿?」

「魔物です」


 そばに控えていたトピカが、図鑑を覗き込みながら教えてくれた。生まれてこの方、魔物を見たことは一度もない。

 もう一度ページを見た。大きな体に口から突き出すほどの牙が生えた顔。説明を読むと、目にも止まらぬ速さで近づいてきて爪で獲物を切り裂き、噛み砕いてしまうという。

 これが、魔物。


「そちらは岩窟犬。岩をも噛み砕く歯に、岩のように硬い体をしています」

「どうやって倒すのですか?」

「岩程度なら殴っても割れます」

「そうなのですね」

「鳥は珍しい聖獣ですね。炎色鳥と呼ばれています。赤い炎は敵を焼き、青い炎は味方を癒すとか」

「聖獣、ですか」

「魔物は意思なく人間を襲うもの。聖獣は、人間に味方をするか敵対するかを判断する意思のあるものだとされています」


 聖獣はとても珍しいと図鑑にも描いてあった。最後に確認されたのは何百年も前だという。

 図鑑を見ていると、体に不思議な感覚があった。

 胸の奥で何かが渦巻いている。


「……トピカ。少し、絵を……」


 描かないと。

 言葉にする前にイーゼルに向かう。この感覚のあるうちに、描き留めてしまわなければならない。

 椅子に座る頃には、大きなキャンバスが置かれていた。これでいい。今日はこれでいい。描くものがたくさんあるから。

 筆を取る。絵の具を出す。

 描く。

 吸い込まれるように意識がキャンバスに集中していく。


=====



 腕の感覚がなくなりつつあった。

 剣もとっくに折れていたが、捨てるわけにもいかない。斬りすぎて刃も潰れてしまったので、用途は殴る一択だ。

 致命傷こそもらっていないものの、身体中傷だらけだ。重い疲労と嘘みたいな体の軽さが交互に襲ってきて、重ねるたびに疲労の重さが増していく。


「しぶといな、お互い……」


 血の混じった唾を吐きながら言うと、血の底を這う唸り声が応えた。

 魔物の死体が山になったそこに、山より大きな姿が立っていた。

 赤黒い、肌とも鱗とも言い難い皮膚をした巨体。人どころか馬も熊もまとめてひと呑みにしてしまえる大きな口。剥き出しの眼球で殺意がぎらついている。

 あちらも身体中傷だらけで汗のように血が滲んでいるが、アルドバートを睨みつける目には力があった。


「ウサギ様様だ」


 今も砦でンマンマ跳び回っているだろうウサギの力を感じる。流れ込んでくる癒しのおかげで立っていられるし、呼吸のたびに体が楽にはなっていく。

 大鬼にも自己治癒力があるらしく、休む間もない戦闘は三日になろうとしていた。アルドバートの方は食事と睡眠が取れないという点で弱っていくが、向こうは自己治癒力がだんだん弱まっているのが分かる。お互い、いかにして削り切るかの戦いだった。


 長い吐息で呼吸を整え、剣の柄を握り直す。腕の感覚はないが、まだすっぽ抜けるほどではない。


 と、そのときだった。


 パリン、という小さな音がすぐそばで聞こえた。見れば、腕輪についた宝玉が割れている。

 この腕輪は屋敷の結界と繋がっていた。

 宝玉の破裂はすなわち、屋敷の結界が壊れたことを意味する。


「カルティナ……!」


 風を切る音。

 反射的に身を屈めると、頭のすぐ上を丸太のような腕が通り抜けていった。間一髪だったことを肌の粟立ちが教えてくれる。すぐさま赤黒い両足の間を抜け、足首の腱を思い切り叩き斬る。角度がよかったのか、刃こぼれしている剣でもノコギリで木を切るような手応えがあった。

 巨体が倒れる。痛覚がないのかと思っていたが、深い傷は痛むらしく、咆哮をあげながら転がり回った。距離を取るしかなくなり、舌打ちが漏れる。


「お前の相手をしてる暇はなくなった」


 屋敷の結界が壊れたなら、カルティナに危険が迫っている。それは駄目だ。それだけは駄目だ。今この一瞬すら惜しい。早く心臓でもどこでも突き刺して屋敷に戻らなければ。

 なのに大鬼は無様に転がり回り、近づけもしない。それでもなんとか攻撃しようと隙を窺っていると、


「! なんだ……?」


 雄叫びの声色が変わった。不快感が神経を揺さぶる。兵たちの悲鳴があちこちから聞こえた。


「深淵から魔物、総数不明です!」


 誰かが叫ぶ。分かっている。もう見えている。

 道端の吟遊詩人を囲む人だかりのように、大鬼とアルドバートを囲む魔物の群れが出来上がっていた。逃げる間もないほどあっという間の出来事だった。

 これだけの魔物を相手にしながら、大鬼とも戦えるのか。

 できる、と言い切ることが、今のアルドバートには出来なかった。

 だが、逃げるという選択肢はない。逃げれば襲われるのは深淵境領に住む民たちだ。その中にはもちろん、アルドバートの妻も含まれる。


「……文句は墓で聞くか」


 だからカルティナ。君だけでも無事で逃げてくれ。そして約束を破るような夫の墓に、一度でいいから来てほしい。

 死んでもいいから生きた君に会いたい。


「死出の共連れだ貴様ら!」


 叫びとともに剣を振り上げる。

 同時に、空が翳った。


 ケーーーーン……、と長く響くその声は鳴き声とも鐘の音とも言えない、美しい音で。

 その体は淡い青と緑の羽に覆われていた。

 両脚が地につくと、地響きとともに揺れが起き、突風が視界を遮る。

 しかしアルドバートはその美しい生き物から目が離せなかった。


「聖獣……?」


 普通の鳥ではない。しかし魔物だとはとても思えなかった。鳥類独特の丸い目が、アルドバートを捉えて優しく細められる。

 その背から、二つの影が飛び降りた。

 牛ほどもある大きな狼。それから、人と同じ大きさの猿が、手近な魔物に飛びついて、次から次へと倒していく。

 鳥も口から火の玉を吐き出した。魔物の群れに火の玉がぶつかると、一帯の魔物が燃え尽きる。魔術師五〜六人分の威力がある、凄まじい火力だった。


「マッ!」


 ぽいん、と柔らかい感触と共に、慣れてしまった重みが頭に乗る。長い耳が、視界の端でひらひらと靡いた。


「お前、どうしてここに」

「ンーーっ、マーーーッ!」


 白い光と共に、体の傷が癒えていく。全身が燃えるように熱い。感じる。カルティナの魔力を。彼女の力を。そしてその力は、突如現れた鳥と、猿と、狼からも感じられた。

 彼女は無事なのだ。これだけの力を持つ聖獣たちが、彼女がむざむざ殺されるのを許すわけがない。


 次々倒されていく魔物の群れから、大鬼の巨体が立ち上がった。足が治ってしまったらしい。しかし大鬼の衰えた自己治癒よりも、アルドバートを守る癒しの方が遥かに強い。


 鳥が再び鳴くと、ボロボロだった剣に光が宿った。光は刃の形をとり、柄を握る手までを包み込む。その光からも、カルティナの魔力を感じた。


 形勢逆転を悟ったのか、大鬼が牙を剥き、赤黒い体がますます赤くなる。ギラついた両目はアルドバートだけを捉えていた。傷の数だけ恨みを買っているらしい。


 戦場で誰かを助けたことはあっても、助けられたことはなかった気がする。だが、今アルドバートのすべてを、カルティナが支えてくれていた。魔法が使えないと言った時の強張った顔を覚えている。あのとき抱きしめておけばよかった。


 一際大きな雄叫びと共に、大鬼が飛びかかってきた。だが少しも恐ろしくない。今のアルドバートは一人ではなく、妻と共に立っている。


「そろそろ帰らせてもらうぞ」


 叩き潰そうと振り下ろされた巨腕を、後ろに下がって避ける。衝撃で砂が飛び散るのがゆっくりに見えた。同時に、防御しようのない、丸出しの顔面も。


「——妻が家で待っている」


 光の刃を眉間に向かって突き出す。柄まで一気に突き通すと、光が消えた。大鬼の命と共に。

 わっとあちこちで歓声があがる。

 残っている魔物は、一匹もいなかった。


「——閣下! 閣下!」


 遠くから馬が近付いてくる。事務官の制服を着た男が、こちらに大きく手を振っていた。

 祝勝だとするにはまだ確認不足だが、どこかから戦いを見ていたのか。鳥の聖獣は空を飛んできたはずなので、砦から見て追いかけてきたのかもしれない。


 と、件の聖獣を見て、アルドバートの手から剣が落ちた。

 さらさらと、光の粒が風に流されていく。鳥の体が、狼が、猿が、光の粒に変わって、消えていくところだった。アルドバートの視界も眩しい。さっきまでたなびいていた、白く長い耳が、さらさらと風に溶けていく。


「急いでお戻りください! 奥様が!」


 頭の重みがふっと軽くなる。


「奥様が、お倒れになりました!」


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