4.

「トピカ、大変です!」


 ドアを開け、クローゼットに直行する。すぐさま寄ってきてくれたトピカが、静かに入り口に控えながら訊いた。


「何か」

「旦那様がお帰りになるんです」

「そうですか」

「それももうすぐだそうなんです、大変なんですよトピカ、大変なんです」

「何が……」

「今のままじゃダメな気がするんです!」


 旦那様が帰ってくるという話を聞いた瞬間、カルティナを襲ったのははっきりとした焦りだった。今の自分に対して、明確に「不足」を感じたのだ。もっとこう、華やかなドレスを着た方がいいのかもしれない。いや、シンプルで飾らないものの方がいいだろうか。情報が足らないため予測が立てられない。


「奥様の何がダメなのでしょう」

「何と言われても……もっと素敵じゃないとダメな気がして……」

「鍛冶場の馬鹿力というのは、いついかなる戦場においても必要です。が、普段の鍛錬こそが力を生みます」


 はっ、と息を呑む。確かに、普段の自分はおしゃれに一切興味がない。トピカの持つドレスのうち、右のものを選んでいるだけだ。そんな自分が、旦那様に会う日だけにおしゃれをしてもきっとおかしなことになる。

 まだまだ足らない。自分の人生はずっとただ停止していただけ。他の人より動き出したのが遅いのだから、もっとたくさん身につけなければ。


「奥様は馬鹿力が、出ます」

「……そうでしょうか?」

「出ます」


 力強く頷きながら、トピカが言った。自分ではとても馬鹿力が出るとは思えないが、トピカにしては珍しく力のこもった声だった。励まそうとしてくれているのかもしれない。ならば否定するのも失礼だろう。


「ありがとうございます、トピカ」

「私も出せます」

「……馬鹿力を、ですか?」

「そうです」


 そう言ってトピカはむんと腕を曲げた。ゆるいメイド服の中に、力こぶしがみちみちに詰まる。カルティナもむんとやってみた。全然みちみちにならない。


「……お前たちは何をしているんだ?」

「旦那様!」


 いつの間にか開けたままのドアに旦那様が立っており、とても難しい顔でこちらを見ていた。

 行儀作法の先生から太鼓判をもらった礼を披露する。旦那様は少し目を大きくして、ほう、と声を漏らした。


「見違えた」

「! 本当ですか!」

「ああ、何より表情が豊かになったな」

「……そう、ですか?」


 自分では表情のことはよく分からない。頬の、耳に近い辺りが妙に痛むことがあるけれど、それと関係あるのだろうか。


「旦那様、」


 貴族教育の先生が、戦場から帰ってきた夫に言うべき言葉をたくさん教えてくれていた。頑張ってたくさん覚えたつもりだった。でも、何も出てこない。


「……またお会いできて、嬉しいです」


 それが、今の自分の、精一杯の言葉だった。


「ああ。……、……戻った」

「お怪我はないですか?」

「怪我は、……そうだ。君、」

「マッマッマッーーーー!!!!!」


 旦那様が何か言おうとしたとき、不思議な声とともに部屋にウサギが飛び込んできた。そのまま一直線に、旦那様に飛んでいく。


「ウサギ!」

「やはりウサギなのかこれは……」


 どこからどう見てもウサギだ。長い耳も、丸い体も。


「カルティナ」


 旦那様に呼ばれて、そちらに目を向ける。旦那様のこの世で一番美しいお顔がカルティナを見ていた。


「ひゃい」

「どうした。舌を噛んだか?」

「いいえ。大丈夫です」

「そうか。それでこの絵なのだが」


 旦那様が指先を動かすと、ロビンが小さなキャンバスを持ってきた。見覚えがある。カルティナの描いた絵だ。


「この絵は君が描いたのか?」

「はい」


 夢中になって描いたというか、描いている間の記憶がないのだが、トピカとロビンが言うには周りの声も聞こえないほど集中して描いていたらしい。


「あれ、でもウサギが」


 中央に描いたはずのウサギが、いなくなっている。よく似たウサギが、旦那様の頭の上でんマンマ鳴きながらぽいんぽいんと跳ねているが。


「そうだ。この、ウサギ? は、君の描いた絵から出てきた可能性が高い」

「絵からウサギが出てきたのですね」


 そういうこともあるのか。絵とは扉のような役割があるらしい。


「待て。ないぞ」


 ないらしい。


「今『そういうこともあるのか』って顔をしただろ」

「はい」

「いいか。これは異常事態だ。本来は、絵から、描かれたものが出てくるなんてことは、ない」

「ないのですね」


 しっかりと頷く。異常事態ではあるが、稀にあるということだ。ちゃんと理解した。


「この絵はなんだ? 考えられるとしたら、特殊な魔法か何かだが」

「私、魔法は使えません」

「そう聞いているが……魔法でもなければ説明がつかん」

「旦那様、魔法というのはよく分からないことを起こす便利な術ではないですよ」

「む……しかし、大抵のことはなんとかなるだろう」


 大抵のことはなんとかなるが、すべて説明がつくことでもある。指示の不的確な魔法は発動しない。よく分からないけど何かが起きちゃった、というような事象は魔法でもあり得ないのだ。

 つまり、絵からウサギが出てくるなら、絵からウサギを出す指示を誰かが行ったということだ。


「……絵からウサギを出す魔法……」

「聞いたこともないが、君、そんな魔法を使ったのではないか?」

「私は魔法が使えません」


 同じことを二度言う。魔法が使えないのは、少し心苦しいことでもあるので、あまり何度も言いたくはなかった。


「……悪かった」

「なんですか?」

「いや、本当に表情が豊かになったな……感情が豊かになったのか?」

「わかりません」

「前会ったときより好ましくなった」

「!」


 好ましい。

 そう言われた瞬間、顔が急に熱くなった。視界がぼやっとする。ぼやっとした視界の中で、ウサギがぽいんと跳ねる。


「奥様、体調が悪そうですが」

「これトピカ。静かになさい」

「しかし奥様が」

「トピカ」


 ロビンがトピカの腕を引っ張ろうとしているが、トピカがあまりに大きいのでびくともしていない。それを見ているとスッと心が落ち着く感覚があった。同時に、旦那様がひとつ咳払いをする。


「もう一つ確認することがある。このウサギ、どうやら人の怪我や疲れ、病などを癒す力があるようなのだ」

「ウサギですものね」


 ウサギやネコなど、弱い動物には人を癒す力がある。頷くと、「ん?」と旦那様が語尾をあげた。


「……ウサギだからなんだ?」

「?」

「ウサギだから、なんだ?」

「“なんだ”?」

「ウサギと癒しには関連性がないぞ」

「ありますよ。弱くて小さい動物には、癒しの効果があると聞きました」

「誰からだ?」

「トピカです」


 旦那様がトピカを見ると、トピカは頷いた。


「女性は小動物に癒されるらしい、とお伝えしました」

「それは……それはお前、可愛くって癒されるみたいなアレだろう。根本的な治癒は話が違う」

「違うのですか? 癒されるのに?」

「気持ちが癒やされるのだ」

「気持ちが……」


 トピカも「へぇ〜」みたいな顔をしている。トピカにも知らないことがあるみたいだ。

 旦那様に手で払われて宙を飛び回っているウサギを手招きする。ウサギは耳をたなびかせながらこちらにきた。


「ウサギさん、治癒魔法が使えるの?」

「マ!」


 まかせろ、とでも言いたげに、胸を……胸かどうかは分からないけれど……頭を持ち上げてウサギが鳴いた。


「俺の腕も治したし、どうやら自然治癒力をあげる力もあるらしい。負傷者の回復速度が上がっているという報告も受けている」

「旦那様、お怪我をなさったのですか? 腕に?」

「あ、いや、……治った。問題ない」

「お怪我をなさったのですか?」

「う、」

「腕に?」


 二度問いかけると、旦那様は目を左に右にうろうろさせた。


「……私、旦那様と会えなくなるのはとても嫌です」


 ウサギの温かい体をぎゅっと抱きしめる。

 旦那様は、深淵から溢れ出てくる魔物を人家に近寄らせないために、深淵近くの砦で毎日戦っておられる。怪我をするのはもしかしたら当たり前なのかもしれない。でも、だけど、もしも深い怪我を負って、旦那様が帰って来なかったら。


「私、まだ、旦那様と全然お話しできていないです」


 たくさんお話しができるように、毎日勉強している。好きなことだって探している。でも、それは旦那様が帰ってきてくださらなければ意味がない。

 言葉も、知識も、魔法も。

 あなたがいないと意味がない。


「もっと旦那様のことが知りたいです」

「……知りたい?」

「そうです。好きな色だとか、どんな女性が好きかとか」


 カルティナの言葉に、旦那様は心底意味がわからないというような……どこか、その意味不明さに拒否感があるような、固い顔になった。


「何故そんなことを知りたがる。知ってどうする」

「あなたの好きな色の服が着たいし、あなたの好きな女性に近付きたいのです」

「……何故?」


 問いかけられて、カルティナも一瞬で不思議に思った。けれども、すぐに気付いた。


「旦那様に好きになってほしいからです。私のことを」


 シンプルだ。それ以外にない。旦那様に、自分を好きになってほしい。


「……俺の好みに寄せずともいいだろう」

「そうでしょうか」

「そうだ。自分を曲げずとも君は君でいい」

「……そうでしょうか……」


 カルティナには、空っぽだった長い時間がある。魔力はあっても魔法が使えないと分かり、塔に仕舞い込まれていた長い長い時間。その間、普通の人は勉強をたくさんしたり、人とお話をたくさんしたりする。その経験がカルティナにはない。勉強すればするほど分かる。先生や屋敷のみんなと話せば話すほど分かる。みんな、もっと上手い。自分よりももっと上手く、人間をやっている。

 足らない。

 それ自体は問題ないのだ。自分に足らないところがあるのは、ただの事実だから。

 けれどもそれで旦那様に呆れられたり、好かれなくなったりするのは、悲しい。


「……君は?」


 旦那様が、こちらに身をかがめて、声を顰めた。


「“君は”?」

「……、……。……男の好みの話だ」


 小さい声でとても早口に旦那様が言った。


「? 旦那様ですが?」

「……」


 す、と屈めていた身を起こした旦那様が、窓の方に歩いて行く。長いため息とともに、窓越しの空を眺めた。

 ウサギを抱き直し、なんとなくその隣に並ぶ。


「お怪我をしないでください、というのは、間違っているのは分かっているんです。でも、……帰ってきてほしいんです」

「……わかった」

「会えなくなったり、しないですよね?」


 窓の外、煤けた青空を眺めている旦那様を見上げる。こうして並ぶと、旦那様はとても背が高い方なのだということがよく分かった。


「……深淵が落ち着いたら」

「はい」

「この屋敷で毎日を過ごす」

「楽しみです」


 いつの間にやらウサギは眠ってしまったようで、カルティナの腕の中で寝息を立てていた。口なのか鼻なのか、白い毛の下がときどき動いている。


「……俺は」

「はい」

「ずっと魔物と戦って生きてきた。貴族院も出ていない。基本的な貴族の知識も、芸術も、女性を楽しませる手紙の書き方も分からない。君に好いてもらえるような男では、」

「それって、私たちがとても似てるということですか?」


 思わず旦那様の言葉を遮って言うと、旦那様がこちらを見た。驚いている顔に見えた。とても。とても驚いている顔だったけれど、すぐになんだか複雑そうな、難しい表情になった。


「君と似ては……、似てはー、……ないんじゃないか?」

「同じだなと思いました」

「そうか……?」

「だったら嬉しいなとも思いました」


 カルティナが言うと、旦那様はしばらくもごもごと口の中で聞こえない言葉を転がして、小さく息を吐くように笑った。困ったような笑い方だったが、どこか嬉しそうでもあった。今カルティナの見ている視界が、世界で一番美しかった。


「君が嬉しいなら、同じでいい」

「はい」


 頷いて、ウサギを抱き直す。

 旦那様と二人で見上げた空は、一人で眺めていたときよりも高く、どこまでも広く見えた。

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