五十五話 軍副使ではなく、ただの兄として
軽やかな足取りで出発した私たち三人を、栗毛馬を駆って追いかけ、向かい来る男が一人。
「げぇっ玄霧(げんむ)」
翼州(よくしゅう)左軍副使、司午(しご)玄霧さんであった。
私はほっかむりで顔を隠して、知らんぷりをしてやり過ごそうとしたけど。
「こんちわー、軍のおじさん」
軽螢がアホヅラ下げて気持ち良く挨拶したせいで、台無しだった。
うん、挨拶は大事、泰学(たいがく)にも書いてあるからね。
ぐうう、ここでまさか、連れ戻されてしまうのか。
それよりなにより。
「なんで私たちがここにいるってわかったんですか?」
「除葛(じょかつ)参謀が尾州に発つ前に言い残したのだ。お前が後宮から消えたと話したら『今頃は西門からふらりと出て行ってるかも』とな」
「なんでもお見通しかよあの名軍師!」
文字通り、地団太を踏む私。
しまったな~。
姜(きょう)さんには私のパーソナリティを、結構、深いところまで知られてしまっている。
これから私がなにかしようとしても、予測され先回りされる可能性が高いぞ。
姜さんと河旭(かきょく)でお別れしたということは、玄霧さんは人事の辞令を朝廷から待っている状態なのだろうな。
「麗央那(れおな)は私たちと一緒に行く。邪魔をするなら相手になるが」
冗談が1ミリもない顔で、翔霏(しょうひ)が玄霧さんの前に立ちはだかる。
「いやいや、さすがに軍のお偉いさんをしばき倒しちゃ、ダメだからね」
「しかしだな」
「しかしもお菓子もありません」
「菓子はないのか。なにか口に入れたいんだが」
私と翔霏が茶番のような押し問答を繰り広げる。
「いいぞいいぞ、やっちまえ翔霏ィ」
「軽螢(けいけい)は止めろよ。煽ってんじゃねーよ」
私たちバカ三人を前に、やれやれ、と何度目かわからない諦め顔の溜息を吐き、玄霧さんは言った。
「少し伝えることがあるだけだ。麗(れい)」
「は、はい」
私をひっ捕らえに来たわけじゃないのか。
確かに私の身柄を確保するなら、手下の武官さんを何人か連れてくるはずだ。
偉い立場の玄霧さんが一人で追いかけては来ない。
私用でここまで来てくれたのだと考える方が、自然だろう。
「戌族(じゅつぞく)侵入の混乱のさなか、過失で工事資材に火が点き、後宮の一部が燃えた。その方向で話をまとめている」
覇聖鳳(はせお)たちが付け火をしたわけでもなく。
頭のおかしい侍女が、毒燃料を焚いて火柱を立ち昇らせたという事実を隠し。
過失、とは。
「いやいや、あんだけたちの悪いモノを集めて燃やして毒まで出して、過失で済まないでしょうよ」
むしろそんな過失があったらコエーよ。
しかし玄霧さんは、大真面目に硬い表情で言った。
「そういうことに『する』んだ。朱蜂宮(しゅほうきゅう)の秩序を取り仕切る四人の貴妃、いや、今は三人だが……その一人が誰であるかを忘れたか」
ああ、翠(すい)さま。
我が愛しのあるじよ。
あなたの優しさと慈悲は、世界中のどんな山よりも高く、海よりも深いのでしたね。
そんな翠さまの下で働けたことを、かつて央那(おうな)と名乗った女は、誇りに思います。
「わかりました。後宮の出火は不幸な事故。肝に銘じます」
「うむ。それとな」
顎鬚を撫でさすり、玄霧さんはなにやら、わざと表情を抑えているようだった。
気を抜いたら、にやけて笑ってしまいそうになるのを、こらえている印象だ。
「なんですか。ハッキリ言ってください。気持ち悪いですよ」
「黙れ。俺は気持ち悪くない。翠……いや、翠蝶(すいちょう)貴妃殿下が、ご懐妊なされたということがわかった」
「ファッ!?」
壊れた管楽器みたいな声が出た。
え!?
翠さま、おめでた!?
ア、ベイビー、ウィル、カム、スーン!?
でも、言われてみれば。
「あー、そう言えば思い当たる節、あった! ありました!」
ちょっと具合悪そうにしてたり、食欲なさそうなときがあったりも。
ナーバスになってたのかなって思う日が、あったわ!
そもそもの話として絶好調の翠さまだったら、いくら信頼している麻耶さんが相手だったとして、ホイホイ騙されて人質になんてなるわけがない。
もともと、鈍い人じゃないからね。
妊娠初期で心身が本調子でなかったとすれば、大いに納得のいく話だった。
「ともに後宮で暮らしている侍女たちであれば、薄々感付いていても不思議はないな」
むしろ今まで気付かなかったのか、とでも言うような冷めた目を、玄霧さんは私に向ける。
それにしても、お相手は当然、皇帝陛下なんだろうけど。
って、皇帝陛下の、お子さま!
お世継ぎ!
「おおおお、おお、お、おめでとうございます。ゆくゆくはあれですか、翠さまは、ここ、皇后陛下に!?」
私は後宮から出ることを決めた身だけど。
我がことのように、嬉しい!
いや、男女の色っぽい世界のことは、とんと知りませんけどね。
書物とか、動画でしか。
でも、翠さまが皇帝陛下を深くお慕いして、国に奉仕していることは、傍で働いていた私たち侍女は、みんな知っている。
混乱するほど喜ぶのも、仕方のないことだ。
「今から取り乱すな。まだ男子と決まったわけでもない。無事に生まれてからの話だ。それより方々で吹聴するでないぞ。まだ秘中の話であるからな」
「そ、そりゃもう。こんなこと話す相手もいませんし」
驚きと喜びで、胸がいっぱいいっぱいである。
玄霧さんもさすがに嬉しさを隠しきれないのか、目が静かに微笑んでいる。
しかし、私が冷静な呼吸を取り戻したのを見計らって、真面目な顔に戻り、言った。
「妹の慶事(けいじ)を伝えた上で、改めて麗、お前に聞く」
「は、はい。なんでしょう」
「本当に行くのか。後宮に戻る気はないのか。誰もお前を責めはせぬぞ。むしろ大いに感謝しているものばかりだ」
玄霧さんは、私がどこへなにをしに行くのか、当然、予想はついているだろう。
翠さまに赤ちゃんが生まれるという話は、私の心を大きく揺さぶった。
大きなお腹になって行く翠さまを、見届けて過ごしたい。
ああ、それは嘘偽りのない、私の正直な気持ちだ。
「朋(とも)の二人とも離れることはない。河旭で仕事と寝床くらいは見つけてやろうぞ。なんなら司午(うち)の別邸で働かんか」
軽螢と翔霏も、玄霧さんのお世話で、一緒に河旭の街で暮らせると言う。
「給金高い?」
軽螢が空気を読まずバカ言ってるけど、無視。
でも正直それは、今思いつく限りの、最高のエンディングだ。
翠さまのお部屋で身の回りのお世話をしながら、いつか生まれて来る赤ちゃんとの出会いを待ち。
たまの休みには軽螢や翔霏と、銀府の市場で豆腐を買い食いしたり、お芝居を見て過ごすんだ。
それはきっと、世界で一番幸せな時間と空間であるかもしれない。
さらに玄霧さんは追い打ちをかけてくる。
「翠は、お前が出て行ったことを悟って大いに泣いて過ごしている。妹のように、自分の半身のように想っていたのに、と」
「ヴゥッ」
涙が出そうになった。
このタイミングでそんなこと言うんだからなあ。
汚いなさすが左軍副使やり口が汚い。
「そんな言い方、卑怯ですよ、玄霧さん」
「可愛い妹の涙が止まるなら、卑怯にも外道にもなってやろう。そこまでして、この俺が聞いているのだ。本当に戻らぬのかと」
「うううう」
玄霧さんは、真剣だった。
私ごときを気にかけて、本心から、後宮に戻って欲しいと言っているのだ。
「妹は、翠は優しく、聡い女だ」
「重々、承知してます」
「しかし後宮という空間でその慈悲や叡智を行使するには、お前や毛蘭(もうらん)のような、優秀な侍従が必要なのだ。翠を頭とし、お前たちが手足となり、尊貴の極みたる後宮を恙なく差配していく。大きなやりがいのある仕事だと思わぬか」
「思いますよ。そんな素敵な仕事に加われることが、どれだけ誇らしいか。翠さまに使われて働くのがどんなに楽しいか。十分に思い知ってますよ」
「ならば」
翠さまと私は、一心同体、表と裏なんだ。
身代わり変身を行う中、私も自分と翠さまがまるで一人の人間であるかのように感じる瞬間が、いくつもあった。
ただのモノマネではなく、私の中に翠さまが本当に宿っているかのような。
神さまの気まぐれで、元は一人だった人間がたまたま二つに分けられたのではないかと錯覚することが。
心の奥底のどこかに、翠さまがいて、溢れ出るエネルギーで目の前を照らしてくれたからこそ。
私は意気地なしと根性なしを振り切って、走り切ることができたのだ。
だけど。
「それでも後宮には戻りません。私は行きます」
今、後宮に戻ってしまえば、もう私は外へ踏み出せない。
一緒に死地を潜り抜けた翠さまと私の絆は、さらに強くなるだろう。
その翠さまと顔を合わせて、ハイさようならとお別れできるわけはないんだ。
なにより、私の顔をした翠さまの命を助けてくれた、環(かん)貴人。
彼女は私にとっても、命の、心の恩人でもある。
あのときに翠さまがもし、死んでしまったら。
再起不能な、ひどい目に遭ってしまっていたなら。
おそらく私は、立ち直れなかった。
絶望に泣いて臥せってそのまま、すべての力を失っていただろう。
涙をこらえてプルプルと震えながら、それでも頑なに後宮に戻ることを拒否する私を見て。
「わかった。ならもう、なにも言うまい」
玄霧さんは諦めたように、静かに長い息を吐き、理解してくれた。
神台邑の郊外ではじめて会ったときも、あなたはそう言って私の意志を、尊重してくれましたね。
妹の翠さまと、兄の玄霧さんと、とても、とっても、素敵な兄妹だと思います。
「今までお世話になりました。貯まったツケは、いつとは言えないけど必ず、お返しします」
「当然だ。待っててやるから必ず戻って来い」
「あ、それとちょっと聞きたいことが。覇聖鳳がこだわっていた、後宮にある神剣って」
私は最後に質問を思い出す。
けれどそれを言い終わらないうちに、聞く耳も持たずに。
「はいやーッ!!」
玄霧さんは忙しそうに、こっちを振り返ることなく、馬を急き立てて戻って行った。
「相変わらずだなあ」
見慣れたその背中を送る。
うん、けれど、いつか。
必ず帰って来る。
沢山のお返しをしに、後宮のみなさんに、会いに来ます。
その日まで、どうかお元気で。
立ち尽くしてホロホロと泣いていると、翔霏が肩を抱いてくれた。
「嵐に吹かれて花が散っても、次の春には再び咲く。さよならだけが人生じゃないさ」
「翔霏、詩人だね」
罵詈雑言が得意な彼女の口から出るとは思わないような、美しく、優しい言い回しだった。
私の評に、翔霏は照れ臭そうに眼を逸らす。
「父が舞台で演じていた劇の台詞だ。いつか、一緒に北網(ほくもう)の芝居小屋にも行こう。両親に麗央那を会わせたい」
「うん、全部終わったら、きっと、行こうね……」
しばらく、翔霏の体に顔を預けて泣いた。
冗談抜きで、翔霏と結婚しようかな。
強いし優しいしカッコいいし、余計なことを言って私をイラつかせないし、私が泣いても受け止めてくれるし。
文句の付けどころがない。
翔霏にも選ぶ権利があるという現実には、今は蓋をしておこう。
「スゲー綺麗な石拾った!」
話が長くて退屈だったのか、軽螢はヤギに草を食べさせながら、道端で石を拾って嬉しそうにしてた。
おめーは将来、モテない。
べそかき顔をぬぐい、そう思って冷めた目で見ていたら。
「ホラ、麗央那にやるからさ。クヨクヨすんなよ」
翠色(みどりいろ)の、表面が滑らかな美しい、ほんの小さな石粒を、軽螢は私の手に握らせた。
ひょっとしてこれ、翡翠の欠片じゃないかな。
「え、あ、ありがとう」
ぐぅ。
悔しいけど、ドキッとしちゃったじゃねーか。
大事な約束と、小さいけれどかけがえのない宝物がいっぺんに増えた。
その嬉しさが、心地よく重かった。
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