三十七話 私の大好きなご主人さま
昂国(こうこく)の内、八州に属さない尊貴たる皇都、河旭城(かきょくじょう)。
皇都の中北部、朝廷皇城区画の中に後宮、朱蜂宮(しゅほうきゅう)は座している。
後宮の西苑(さいえん)には、私、北原(きたはら)麗央那(れおな)、昂国の戸籍名では麗(れい)央那(おうな)の仕える貴妃、司午(しご)翠蝶(すいちょう)さまのお部屋がある。
「央那、ただ今戻り、って誰もいないな。翠さまの部屋にいるのかな」
侍女たちが詰める前室に、人の姿はなかった。
奥には翠さまのプライベートルームである寝室兼居室がある。
日本の下手な3LDKより広く、家具設備や調度品も充実している、貴妃にふさわしい立派なお部屋だ。
「明日も工事の話があるから夕方まで留守にするけどよろしくね」
正妃たちとの大事な会議から帰ったのか、翠さまの声が聞こえる。
しまったな、百憩(ひゃっけい)さんとの会話が長引いてしまったせいで、翠さまのお帰りを出迎えることができなかった。
後でやんわりと毛蘭(もうらん)さんに怒られるのだろう。
「かしこまりました。そろそろ央那に、料理も教えようと思うのですけど」
柔らかな口調で、毛蘭さんが提案する。
私は物音を殺して、行儀の悪い盗み聞きを続けている。
なるほど、翠さまと毛蘭さんとの間で話し合いを経て、私の労働現場教育、いわゆるOJTが進められているのだな。
「いいんじゃないかしら。あの子のお勉強に支障がない程度に叩きこんであげなさい」
「そうですね。今は夢中に本を読んでいるから、それで気が紛れてくれれば」
翠さまのお口に入るものを任せられるということは、私もある程度は信頼されているのかな。
もちろんそれは嬉しい。
ただ、気を紛らわす、というのはなんだろうか。
私の気を紛らわせなければいけない理由が、彼女たちになにかあるというのだろうか。
「玄兄(げんにい)さまも手紙でもしつこいくらい聞いてくるわ。央那はなにかしでかしてないかって。よっぽど心配なのね」
「私はとても央那が早まってなにかしでかすとは思えません。分別もあるし、しっかりした子ですよ。独り言が多いのは、ちょっとあれですけれど」
玄霧さんにとって、私は腫物(はれもの)の一種なのだろう。
神台邑の惨状を前にしたとき、私が狂ったように泣き叫んでいたのを玄霧さんは知っている。
後宮に放り込んだのはいいとしても、その後のことは気になるだろう。
いろんな人に気にかけてもらえるのは、申し訳ないと同時に、正直、嬉しくもある。
私がこっそり聞いていると知らずに、翠さまと毛蘭さんは話し続ける。
悪いとは思いながらもひたすら、それに、耳を傾ける。
「あたしも半信半疑だけど玄兄さまの手紙には凄いことが書いてあったわ。邑(むら)が焼かれて仲間がみんな殺されちゃった央那のこと」
「どれほどのものだったのでしょう。あの子の普段の様子からは、全然わかりませんね」
「眼からは血の涙を流して喉も潰れろってくらいに血を吐きながら泣き叫んでたって。両手の指は地面をかきむしって爪が割れて肌も破れてもう滅茶苦茶。一刻も早く保護しないとどうなるかわからないと思って玄兄さまは後宮に送ることを決めたのね」
あんまり恥ずかしいことバラすんじゃねえよ、玄霧の野郎め。
嫌な、思い出だな。
ああ、とても嫌な。
物音を殺し、一言一句を漏らさないように、続けて耳を澄ます。
「そこまで……」
「あたしは玄兄さまから手紙を貰って思ったのよ。麻耶(まや)に迎えに行かせるとしても急がずゆっくり河旭(かきょく)に来てくれればいいって。あの子の傷や痛みが癒える時間が必要だと思ったから」
「翠さまのご厚情、その深遠なることにはいつも感服してしまいます」
馬車が十数日もかけて移動したのは、それが原因だったのか。
本当に、翠さまは。
どこまで優しいんだろう。
計り知れないとは、このことだ。
「玄兄さまは今でも恐々としてるわ。央那が知らない間に一人で飛んで行って戌族(じゅつぞく)の集落に火をつけて回るんじゃないかって。井戸水に毒を流し入れてるんじゃないかって」
「あの子に、そんな大それた、恐ろしいことが?」
「毛蘭も一緒にいるんだしわからないかしら。央那は頭が回るだけの女の子じゃないわ。たまにぞっとするような目つきで遠くを見ているじゃない。あたしはてっきりこっちに殺意が向いてるのかと勘違いしちゃったわよ」
「央那は、翠さまをとても深く尊敬しております。まかり間違っても悪意を抱いたりはしていません」
「もちろんそれはすぐにわかったわ。あの子は遥か遠くのここからは見えない戌族のなんとかっていう連中を殺したくて殺したくてたまらないの。毎日そう思い続けて後宮にいるのよ」
やはり、翠さまは翠さまだった。
私が敬愛してやまないご主人は、私の本性を、奥底まで深く理解していた。
これ以上の盗み聞きは流石に罪悪感がひどいので、入って帰還を報告しようと思った、そのとき。
「でも央那も、後宮で働いていくうちに、怒りや悲しみがほどけていくといいですねえ」
毛蘭さんのその言葉に対して、ふうと湿った息遣いとともに翠さまは。
「本当にね。だからあの子はとにかくキリキリ働かせていっぱい勉強させて慌ただしく後宮の暮らしを送ってもらわないとね」
いつもよりずっと、ずうっと優しい声色で、そうおっしゃられた。
「毎日が忙しければ、いずれあの子も邑で起きたことを、忘れることはできないでしょうけど、心の隅に追いやることはできるでしょう」
「ええ。どれだけかかるわからないけどあたしは央那のご主人だからね。あの子が笑って幸せになれるようにしてあげないと。ついでにイイお婿さんも見つけてあげないと」
「それは、私の方が先ではないでしょうか?」
アハハ、ウフフ、と二人は笑った。
私は翠さまと毛蘭さんの、二人の優しさに、涙が出そうになって。
いや、違うな。
優しさが嬉しくて、泣きそうになったんじゃない。
嬉しくないわけじゃないけど、泣きたい理由は、他にあった。
断じて、嬉しくてありがたくて、涙がこぼれそうになったのとは違う。
違うんだ!
「遅くなって申し訳ございません。央那、戻りました」
なにも聞いてない風な顔を作って、私は寝室に足を踏み入れる。
「ずいぶんのんびりと本を選んでたのね。早く夕ご飯の支度をしてちょうだい」
翠さまも、いつも通りの態度で私を迎えた。
「遅れた分、今日はしっかり手伝ってもらうわよ。タマネギを剥くのをお願いしようかしら」
毛蘭さんが、いつものように優しく、でも少し怒った声で、お小言をくれた。
普段と変わらず、楽しく、優しく、美味しい夕餉を、翠さまも侍女も卓を同じくしていただいた。
温かい時間だった。
「違う」
夜が更けて床に就いても、私はまんじりとせず、ずっと考えていた。
翠さまや玄霧さんは、私の苦しみ悲しみを慮って、労わって、憐れんで。
心に負った傷を、癒そうとしてくれている。
辛い思い出を完全に消し去ることはできなくても、それを小さくして、心の端っこに追いやることは。
きっと、できるのだろう。
時間をかければ、きっと。
歳を取って、幸せなままお婆さんになって。
あの日は大変だったなあと、思い出として語ることができる未来も、きっとあるには、違いない。
でも、それは、ダメなんだ。
今、私が私でいられる理由は。
右も左もわからない昂国八州で私が、なにくそ、と踏ん張れる一番の理由は。
神台邑を滅ぼした、覇聖鳳(はせお)たちに対する、怒りと憎しみ、ただそれだけなのだから。
殺された二百人の邑人(むらびと)の骸が、私の心に火をつけてしまったからなのだ。
その火を、翠さまたちの優しいそよ風で消されてしまったら。
私が踏ん張って頑張って生きていられる理由が、なくなってしまったら。
私はもう、私でいられなくなる。
私でない、なにか別の、違うものになってしまう。
私を今まさに、私であらしめているこの復讐の炎を、誰も、誰も、奪わないで。
私からもう、大事なものを、誰も、奪って行かないで。
私はもう、嫌なんだ、ダメなんだ。
私が大事にしていたものと離ればなれになるのは、もう、たくさんで、うんざりなんだ。
私はこの後宮に、過去の辛い記憶を捨てるために来たんじゃない。
私は、幸せになるために、ここにいるわけじゃないんだ。
「違う」
再度、私は繰り返す。
私は覇聖鳳を殺すために、玄霧さんの話に乗った。
お金も稼げる。
戌族の情報も、玄霧さんから知らせてもらえる。
たまに運よく姜さんみたいな偉い軍師に会って、戌族に対抗する知恵を教えてもらえる。
いっぱい本を借りて勉強して、世の中のこと、知らないことを理解できる。
そのために私は、後宮にいる。
目的はそれであり、それしかないんだ。
大好きな翠さま。
優しい毛蘭さんと、先輩の侍女たち。
綺麗な環(かん)貴人と、見た目は怖いけど実直で頼もしい巌力(がんりき)さん。
麻耶さんはもういないけど、他にも真面目に働いている宦官の皆さん。
みんな、素敵な人たちだけど。
「私の宝物は、私だけの中にある。誰にも、奪わせやしない」
彼ら彼女らは、どれだけ大事で尊く、かけがえのないものであっても。
私の真ん中にある「宝物」じゃない。
私が私であるための、胸の奥底で燃え盛る、一番大事なものを。
なかったことには、させてたまるか。
「もう誰も、私からなにも奪わないで。お願い」
必死に祈っていたら、眠れないまま朝が来た。
祈る時間は、終わりだ。
私は動き始めることにした。
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