三十六話 たった一つの、この魂を
「まずはそうですね、万物は循環する、新しく生まれも消えもするものはないのだ、ということから始めましょうか」
小石を拾って掌で弄んだのち、それをポイと池に投げ入れて、百憩さんは話し始めた。
ちゃぽん、と小石は水面に波紋を立て、一匹のアメンボを驚かせた。
虫の数もずいぶん減りつつあり、秋の終わりを予感させる。
「腐肉に湧く蛆(うじ)でも、もっと小さい虫であっても、勝手に生ずるということはあり得ません。沸教では長い年月をかけて万物を観察し、それを突き止めました」
私は頷く。
パスツールという偉い学者さんがいたのは学校で習った。
生命は勝手に湧いて出て来ない、必ず親がいて、子が生まれるだけの環境がある。
彼はそのことを、フラスコやビーカー、アルコールランプなどの基本的な実験器具を使って証明した。
無から新しく生まれるものは、なに一つとしてないのだ。
パスツールさんが瓶詰や缶詰の殺菌保存方法を確立したおかげで、世界中の食料衛生事情が劇的に改善したというのは余談だ。
ガリ勉の鑑であり、私も凄く尊敬している学者の一人である。
百憩さんの言葉に私は返す。
「確かにそうです。例えば加熱殺菌して密閉された瓶の中なら、蛆もカビも勝手に湧き出て来たりは、絶対にしません」
命は自生しない。
その理屈は、天地が自然に分かれて、四神が自ずから生じたという昂国(こうこく)の神話と、真っ向から対立する。
しかしそれは、まぎれもない、疑いようもない科学的事実である。
その事実に、沸教の人たちは気の遠くなるような研究観察ののち、パスツール先生と同じように、辿り着いたのだろう。
百憩さんは話を続けた。
「人の体を成す血も骨も肉も、元をただせばその材料が、外からもたらされたものは明白です。そのために人は母の乳を飲み、長じては粥をすすり、獣の肉をかじります。それらが人の血肉となるのです」
「食べ物は、食べても消えてしまわないということですね。それは『私の血肉』に形を変えて、世界に存在し続けるから」
だから、万物循環なのだ。
水が蒸気と雲になり、雨になり地に降り注いだ結果として海があるように。
命あるものもそうでないものも、形を変えて、場所を変えて。
常に存在し続け、消えることはない。
ふと、殺されて肉になるはずだった、神台邑(じんだいむら)のヤギを思い出す。
あのヤギは肉になって食べられたとしても、消えはしないと軽螢(けいけい)は語った。
翔霏(しょうひ)の血肉となって、邑の敵を、打ち払うはずだった。
私の言葉に肯定の頷きを返し、百憩さんは次の、重要な話題に移った。
「その通りです。ならば、魂は、どうでしょうか」
「魂は」
私は少し考えて、質問を返す。
「人も、動物や虫も、植物も魂を持っているという前提ですか?」
思考の前提条件を共有できないと、話は進まない。
私にとっては大事な確認だった。
活動する細胞を持った存在は、動物も植物も、細菌でさえも、すべて生物である。
生物であるのなら魂を持っているだろうというのは、あくまでも私が持っている前提だ。
しかし百憩さんが、沸教の僧侶が、あるいは昂国の住民が、その前提に立っているとは限らないのだ。
「まさしく。草木(そうもく)と言えども、動いており、生きております。人や獣に比べれば、とてもゆっくりではありますが」
「わかりました。そうなると魂は、循環は、あれ」
私は考えて、考えて。
思考の迷路に陥った。
万物が循環するのは、それはもう科学的に間違いのないことだ。
宇宙が生まれ、太陽系が形成され、地球という星が生まれた。
私たちはその「地球という星に与えられた材料」をなんとかかんとかやりくりして、生きたり死んだり、物を作ったり壊したりしている。
物質の全体総量が変わることは、基本的には、ない。
地球も、太陽系も、宇宙も、今ここにある材料だけで百億年以上を、なんとかかんとか、やってきたのだ。
しかし、魂が生き物に存在すると仮定した場合、どうだろう。
私は独りごとじみた思索を呟く。
「生き物の体はよそから持ってきた部品や材料の寄せ集めだけど、魂は、なにもないところから生まれてる?」
その解釈に百憩さんは深く頷いた。
「その通りです。本来、ないはずなのです。魂と言うべきものは。考えてもごらんなさい。誰かそれを見たものがおりますか? 重さを測ったものは、匂いを嗅いだものがおりますか?」
「いない、と思います」
魂が見えると自称する人たちは、テレビや雑誌の中にいっぱいいたけどね。
あの手の人たちは、一時的にメディアに持ち上げられて、その後すぐに世間から忘れ去られるというパターンを踏むのが不思議だな。
「沸教では、魂の実在さえも疑っております。そのために『虚空』という仮の場所を思考の助けとして設けて、生き物の魂はその虚空から、借りて来るものだとしております。借り物なので、死ねば返すのです。あくまでも思考の上での話ですが」
これは驚いた。
バカみたいな感想だけど、そうとしか言いようがなかった。
沸教のお坊さんたちは、ともあれ宗教の人だ。
だからスピリチュアル、悪く言えばオカルトな世界観を前提として物事を考えているのだと、私は強い先入観を持っていた。
しかし、違うのだ。
彼らは万物への深い洞察と研究、客観的科学的事実を基にした思索から、生き物の魂に実体はないということを暴いた。
その上で、現段階の観察や認識では届き得ない「魂」の在り処を、形而上、抽象概念の問題として定義し直しているのだ。
私は自分の解釈をまとめて言葉にしてみる。
「元々魂は『ない』ものだから、それを考えるにあたって、同様に『ない』はずの、虚空という概念を、仮に生み出したんですね」
魂は、音も姿かたちも、匂いも重さも、温度もない。
動いてるところを誰も見たことがない。
だから、この世には「ない」のだ。
しかし私たちは生きているし、動いているし、食べたり笑ったりする。
じゃあこの魂、あるいは自我や意識というものはどこから来たのだと考えたとき、沸教の人たちは一つの仮説を立てた。
そもそも「ない」ものであるなら、同じく「ない」はずの場所から、一時的に借りて来ているのだと。
ないんだけど、あることに「した」のだ。
数学の虚数や複素数平面を私は思い浮かべたけど、多分的外れだな。
「いかにも。いやはや、央那さんは、その答えに自力で至ったのですか? 十年二十年を沸の教えに捧げた僧ですら、そこを理解しているものは一部であるというのに」
「辻褄が合うように、組み合わせて考えただけです。別になにも悟っちゃいません」
目を閉じてかぶりを振り、百憩さんがしみじみと言う。
「人は誰しも、今まで生きて経験してきた思い込みを捨てることは難しい」
「よくわかります」
かく言う私も、百憩さんの第一印象が良くなかったことを、今この段階でも引きずっている。
適当な理屈を捏ねて人をケムに巻こうとしているのだったら、容赦なく論破してやるつもりだったくらいだ。
遠い目をして百憩さんは語る。
「魂はある。それは永久不変で、死すときには天上にある誉れの園に迎えられるのだ。そう信じる人にとっては、魂が虚仮(こけ)であり、実体として存在しないものだと認めることはできないでしょう」
そりゃそうだよな、とは思う。
すべてのものは世界の中をぐるぐる回ると言っておきながら、命は、魂は、仮のものであり、死ねば完全に消えますよ、と言われても、
ぶっちゃけ、面白くもありがたくもない。
それは宗教として、救いがないのではないかと私は思った。
恒教や泰学は死後の世界について深く言及していないけど、昂国の人たちは総じて、死者を悼む気持ちが強い。
それは魂が死後の世界、天国だとか楽園だとかの「良いところ」に無事、辿り着けるようにと願う気持ちの表れだ。
しかし沸教では、魂が至る「虚空」には、良いも悪いもない、真の意味で「無」であると教える。
いや、そもそもの話として。
沸教は宗教ですらないのかもしれない。
私は言葉を受けて話す。
「死ねば泡のように消える架空の魂を体に一時的に借りて、そのどうしようもない事実を認めたうえで、私たちは今をどう生きるべきか。それが沸教の真の命題なのでしょうか?」
現世利益を神や精霊、先祖の霊などの超越存在に祈るではなく。
死後の救済や安寧、もしくは輪廻転生を願うでもなく。
知恵と哲学で、今ここにある、一度きりの人生を、たった一つの命をどう運ぶのか。
沸教は客観的に世界を観察し、なにも特別なものはないのだという理解を得た。
無価値で虚無なはずの人生に、どのような意味を持たせるか。
そのための教えなのかもしれない。
「もう、央那さんは後宮を出て、河旭(かきょく)の町角で経堂を開いたほうがいい。拙僧も教えを請いに通いますよ」
大げさに持ち上げられて、私は苦笑いするしかなかった。
なるほど、確かに沸(ふつ)の教えは、昂国の基本理念である恒教と相性は良くないかもしれない。
恒教は「世界はこうあるものだ、こうあるべきだ」という命題と定義付けで成り立っているけど。
沸教は逆に「世界はどうなっているのか」を一つ一つ観察した結果の事実、具体的事象を重視する、実証主義、経験主義の論理で成り立っている。
難しい言い方をすれば恒教は演繹的で、沸教は帰納的なのだ。
ひょっとすると、食い合わせの悪いそんな沸教だからこそ、あえて中書堂で学び研究する価値がある、という意味で百憩さんが呼ばれたのかもしれないな。
「ためになるお話をありがとうございます。こんな考え方があるんだと、すごく勉強になりました」
私は椅子代わりにしていた石から立ち上がって、深々と頭を下げた。
昂国の基本的な世界観は、二つで割ることの秩序、二極による世界のあり方だ。
天地が分かれるであるとか、光と闇、善と悪などの対立構図で語られることが多い。
しかし沸教には別の視点があった。
循環する万物と、虚空からもたらされる循環しない魂、という考え方だ。
そこには一も二も十六もないし、そもそも極がないので対立も分別もない。
無限と、零(ぜろ)があるだけだ。
中書堂という知の集積地が、朱蜂宮(しゅほうきゅう)の近くにあったからこそ、私はそれを知ることができた。
「それほどのことは。拙僧もまだまだ修行の足りぬ身。考え違いや言葉足らずの話をしてしまったかもしれません」
今日、私は沸教の認識論を教わっただけだ。
彼らの教えの実際的な内容である「どう生きるべきか」というお説教からは、逃げた形になる。
お坊さんとしてはそれは不本意だろうけど、私はこのまま部屋に戻る気満々だ。
その気持ちを見透かしてか、百憩さんは私に、こんな会話を残した。
「央那さんは、自らが培った知を、どのように使うつもりですか」
「え、それは。翠さまのお世話をするうえで、なにかの役に立つかなあ、とか。自分の暮らしにも便利になればなあ、という感じですかね」
四割くらいの本音で答えたので、あながち嘘ではない。
この人に、翼州(よくしゅう)神台邑(じんだいむら)の悲劇をいちいち語って聞かせるつもりはないからね。
「先ほども言いましたが、思い込みや感情の偏りは、せっかくの知をも鈍らせます。よく砥いだ包丁で人参を切るにしても、余計な力が入っていては、上手く切れないでしょう」
「ですかね。そういうことはあるかも」
いったい、なにが言いたいのやら。
坊主だから説教は日常茶飯事なのかなと、私は適当に聞き流そうと思ったけど。
どうやら、問答は続くらしい。
「怒りや悲しみを思うままに発露する人、心の赴くままに泣いたり笑ったり怒ったりする人を、央那さんはどう思いますか?」
「それは、なかなかできることじゃないからこそ、自由で羨ましいな、と思いますよ」
生きていると、なにかにつけて我慢しなければいけないことは多い。
我慢せずに自分を解き放てるというのは、気持ちのいいことだろう。
目に見える制限、目に見えないルールやモラルでがんじがらめにされて日々を送っているのだから、感情くらいは自由でありたいと思う。
しかし百憩さんの見解は違うようだ。
「確かに一見して、喜怒哀楽を思うさま表現できる人は、自由であるかのように見えます。しかし、実際に人は怒りや悲しみに心身を支配されれると、視野が狭くなり思考が偏り、行動の選択は狭まるのです」
「はあ」
わからない話ではない。
強い感情に心が囚われれば冷静な判断ができなくなるというのは、一般論として正しいだろう。
けれどなぜ、今このタイミングで百憩さんはそんな説法を始めたのだろうか。
「感情の奴隷になるということは、自由を失っている状態だと言えます。せっかく磨いた知恵や力も、いっときの激情に支配され曇ってしまったら、自由に発揮することはできません。どうかそのことを忘れないでください」
「どういう意味ですか」
私は、唐突に不愉快になった。
今まで和気あいあいと、現実問題から離れた知的談義をしていたはずだ。
私は十分に面白かったし、ありがたかった。
そんな、怒りや悲しみを、おくびにも出していなかった私に向かって。
百憩さんは、私の心の奥底に、常に怨讐の業火が燃え盛っているのを、お見通しであるかのような物言いをした。
人は図星を突かれると、余裕がなくなるものなのである。
ええそうです。
今の私は、心の内面に唐突に無遠慮に踏み込まれたような気がして、腹が立っているのです。
私が睨んでも、百憩さんはどこ吹く風な様子で、中空を見つめながら言った。
「魂が虚空からもたらされるのだとしたら、それは限りなく自由で、なにものにも縛られないものであるはずです。央那さんなら、それがわかっていただけるかと、蛇足の説法をいたしました」
穏やかに一礼して、百憩さんは中書堂に戻って行った。
見透かされたように感じたのは、私の被害妄想だったのだろうか。
百憩さんは他意もなく「魂」の話の続きをしただけだったのかな。
私は釈然としない気持ちを抱え、苦い虫でも噛んだような引き攣った顔で、朱蜂宮に戻る。
「感情の奴隷、大いに結構じゃないか」
私は、自分の心と体のすべてを、怒りの炎に捧げたいと思う。
命がけの火柱を立ち上らせ、燃えて、焼かれて、その果てに。
チリ一つ残らず、風に流されすべて虚空に消えてしまえるのなら。
ああ、それはどんなに清々しく晴れ晴れとして、気持ちのいいことだろうか。
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