第六章 蚕でも蜂でもなく

三十八話 飛翔するそのときを前にして

 一つの決意をして。

 色々と準備をしているうちに、秋が過ぎ去って行った。

 一年の終わりである冬至が近付いたある日のこと。

 朱蜂宮(しゅほうきゅう)も寒さ、底冷えが厳しくなってきた。

 盆地の真ん中に位置する河旭(かきょく)城都(じょうと)は、夏と冬の気温の移り変わりが、とても激しく、急なのだ。


「麻耶が消えたときはどうなるかと思ったけど工事の方もなんとか日程通りに始まりそうで良かったわ」


 今日は早起きして朝食を採りながら、翠さまが話す。

 後宮の改装、補強工事についての話題だった。

 多少の面倒と心労はあったみたいだけど、調整は無事に進んでいるようだ。

 しかし、後宮の工事か。

 いくら神聖な場所とは言え、人の住むところである以上、摩耗して補修することからは避けられない。

 一生懸命に家屋や小屋を建て直しては補強していた、神台邑(じんだいむら)のみんなの顔が、脳裏に浮かぶ。


「北苑(ほくえん)のお妃さまたちに、一時的に仮宮(かきゅう)に移っていただくんでしたかしら」


 毛蘭さんが確認の質問をする。

 今回の工事をする区画にいらっしゃるお妃さまたちに、一時的に別の場所に移ってもらって、誰もいない状態にして工事を進める、ということか。

 工事期間中だけ、北苑の塀に仮設の出入り口を空けて、工事が終わったらまた埋めるのだという。


「色々と難しい決まりがあるんですね」


 摩り下ろした山芋と刻んだ漬物をすすりながら、私は無難な感想を述べる。

 外部の人間である工事業者さんたちが、後宮の南にある正門から堂々と出入りするのは、しきたりとか規約とかの面から、良くないらしい。

 そのために工事をする北苑だけを「一時的に後宮から切り離された、別の区画」として扱うことで、諸々の問題を回避する手段が採用された。


「気の早いお妃さまたちは、もう城下に部屋を借りて移動しておられるようですけど」


 毛蘭さんが呆れたように言った。

 過去の文献に詳しく、皇帝陛下が先代から今上(きんじょう)の御代(みよ)に移ったときのことも実地で経験している麻耶さんは、もういない。

 そのせいで、規則や手順の確認に混乱があり、勝手に仮住まいを探して後宮を出ている妃たちもいるようだ。


「銀月のやつがもう少し頼りになればいいんだけどね。やっぱり宦官も学がないとダメなのかしら」


 本来であれば工事の陣頭指揮を執る立場の銀月太監に対し、翠さまは手厳しい評価を下した。

 麻耶さんは高等官僚になることを目指して学問を修めた、本物のインテリである。

 不幸にも親族、姉の婿が犯した罪に連座して罰せられて、宦官になったと言う経緯の持ち主だ。

 対して、銀月太監は若い頃に自分の意志で男性のアレ、局部を切り落とし、自発的に宦官になったという違いがある。

 経歴の違いはそのまま残酷に、両者の教養の差として表れていた。


「でも銀月さん、衝球(しょうきゅう)とか唄とか、凄い上手ですよ」


 私には特に銀月さんをフォローする理由はないのだけど。

 それでも彼の名誉のために、無意識に口から擁護の弁が出た。

 銀月さんは手先も器用だし、街中で広まっている唄や遊びにも精通している。

 お伽噺のような昔の伝説、民話もたくさん知っているので、話していて楽しい。

 後宮のお妃さまたちの話し相手、遊び相手として欠くべからざる人材であり、彼に心を癒されている人は多いはずだ。

 かく言う私も、衝球をたまに教えてもらっていて、少し上達した気がする。

 得意分野は人それぞれ、違うのである。


「そんなことはわかってるわよ。ただもう少し古いしきたりとか後宮の決まりごとの面で頼りになって欲しいって話をしてるの」

「申し訳ありません。生意気を言いました」


 余計なことを言ってしまったようだ。

 翠さまも銀月太監の人となりは認めているんだろう。

 その上で、宦官が頼りにならなければそれだけ、位の高い妃である自分たちの心配事や負担が増える、と言いたいのだ。


「翠さま、もうお食事はおしまいですか?」


 卓上の食器を見て、毛蘭さんが言った。


「ん。もういいわ」


 いつもモリモリ食べる翠さまには珍しく、お粥も果物も残している。

 心労が重なって食事も喉を通らない、ということが翠さまにもあるとは驚きだ。

 少なくとも、翠さまの心を曇らせる要素は一つ、解決に向かっているはずなのに。

 私もそれについて詳しい話を聞きたいので、話題に出してみる。


「北辺で田畑の収穫が終わっても、戌族(じゅつぞく)は大きな襲撃をかけて来なかったんですよね」

「そうね。まだちょっとした物盗りとか人攫いは発生してるみたいだけど。玄兄(げんにい)さまも国境から撤収の準備をしてるって手紙に書いてあったわ。大きな戦(いくさ)はしばらくないって判断かしら」


 多少の粗暴犯罪は気になるとしても、昂国(こうこく)国境、北辺の緊張は、ある程度緩和されたのだ。

 北の戌族は国境の守りが固いことに意気消沈して、食物その他を大規模に略奪することを諦めたのだろう。

 覇聖鳳(はせお)たち青牙部(せいがぶ)の命運が尽きなかったのは残念だけど、大きな戦争がないというのは、喜ばしいことだ。

 本当に、それは、いいことなのだ。

 毛蘭さんも顔を綻ばせて言う。


「あら、そうすれば玄霧(げんむ)さまは翼州(よくしゅう)の左軍正使か、もしかして将軍位にご出世かしら? 大過なく国境の護りを成し遂げたんですもの」

「どうかしらね。現場で走り回るのが好きな人だし副使あたりで馬に乗っているのが性に合ってるのかも」


 昂国の軍隊における副使という役職は、書記官を伴う大きな実行部隊の長、という感じらしい。

 正使や将官に昇進すれば、各部隊長を総覧し監督する立場になる。

 前線で土埃をかぶって活動する機会は減るだろうな。

 戦争もないし、玄霧さんは安全な後方指揮に出世するかもしれない。

 翠さまのご実家、司午(しご)家にとっては最高の結果だろう。

 ただし、別の面で翠さまは気がかりがあるようで、続けて言った。


「除葛(じょかつ)のやつが尾州(びしゅう)を離れたせいで反乱勢力がまた集まり出してるんじゃないかって噂もあるわ。今のところはただの噂でしょうけど」


 鬼の居ぬ間になんとやらか、と私は思った。


「姜さ、除葛軍師は、尾州に戻るんですかね?」

「北辺がどれだけ安定したのかもはっきりしないうちはわからないわね。駐留を続ける部隊もたくさんあるみたいだし」

 

 そんなふうに午前の雑談と連絡事項の確認を終えて。

 翠さまは冷静に、いつもの澄まし顔で、私と同じ顔にお化粧で変身して。


「あとのことはよろしくね」

 

 そう言い、庶民の央那(おうな)に扮装し、城下町に消えて行った。

 ストレスが爆発しないうちに、息抜きをしてもらう計画になっていたのだ。

 もちろん、翠さまの身には危ないことがないように、市中には司午家お付きのボディガードが控えている。


「翠さま、体調とか大丈夫なんでしょうか。いつもはもっと食べるのに」


 それを見送って、ただちに翠さまと同じ顔になる化粧を施されながら、私は言った。

 毛蘭さんは少し考える様子を見せて答える。


「大丈夫よ。遠くへ行くわけでもないし、なにかあったらすぐにお戻りになられるでしょう」

「近場で見て回るところって、なにがあるんです?」


 河旭の街に出て遊んだことがない私は、翠さまがどこでどのように気分転換しているのか、想像がつかない。


「銀府(ぎんぷ)の周りの市場で食べ歩きしたり、お風呂屋さんに行ったりじゃないかしら。あとはお芝居小屋を覗いたり」


 宝石や金銀など貴金属の公設取引所を銀府と呼ぶのだと、毛蘭さんは教えてくれた。

 多額の金銭が動く、中央卸売市場なわけだな。

 周辺には大小さまざまな規模、種類の店が建ち並び、非常に景気のいいエリアらしい。

 活発な翠さまが遊んで見て回るのに、ぴったりの場所だろう。


「おっきいお風呂、イイですね」

「今度、お休みを頂いたら一緒に行きましょうよ」


 後宮にも蒸し風呂はあるけど、お妃さま専用だ。

 侍女である私たちはお湯と布、石鹸として使える油でお互いに体を拭き合って過ごしている。


「ヤバい、エロい!」 

 

 最初はそう思ったけど、次第に慣れた。

 女の園である以上、清潔や身だしなみにはそうやって気を付けているけど、やはりたまには、たっぷりのお湯に浸かりたい。

 庶民に紛れた翠さまが、大きな湯船に豪快に飛び込む光景が、ありありと浮かぶようだ。

 なんにしても、翠さまならしっかりしてるし、多少のトラブルがあっても問題なかろう。

 大丈夫、大丈夫。

 それが口癖だった、軽螢(けいけい)のヘラヘラ笑顔を思い出す。


「私、奥で静かにしてますね」


 寝室に引っ込み、翠さま愛用のデカい椅子に腰かける。

 身代わり中の役得で、この椅子には自由に座ってもいいとお許しをいただいている。

 のんびりと今までの後宮での生活を思い返しながら、私は隠し持っていた秘密道具を確認する。


「作れたのは八本かあ」


 手の内にあるのは、20センチ弱の長さを持った、木の串だ。

 杭というには細く、串というには少々太めの、先が尖った八本の木である。

 鋭い先端以外の表面には、刺さった後に抵抗となる「返し」がついていて、色は黒ずんでいる。


「ま、縁起がいいよね、八本。末広がりだし、無限(∞)だし」


 昂国(こうこく)で広く親しまれている恒教(こうきょう)では、八や十六は聖数として重んじられている。

 また、西方から渡来した沸教(ふっきょう)では、万物の無限の循環を説く。

 両方の意味で有り難い数字である八本の串が完成したことは、いいタイミングではないかと思った。

 ま、こっちではアラビア数字の「8」も「∞」も、使ってないんだけど。


「人間に上手く刺さるか、刺さったとしてもちゃんと死んでくれるか、まさか試すわけにもいかないしなあ。使うときはぶっつけ本番か」


 不吉に黒ずんだ木製の八本の串。

 表面に、木目に、返しの裏側に、たっぷりと猛毒を仕込んである。

 主原料は水銀とヒ素とトリカブトだ。

 物品庫の中、あるいは皇城の植え込みや塀の下で採取した毒劇物を、液体にして丁寧に丁寧に、串に塗り込んだのだ。 

 動物実験などはしていないので、効果がどれほどのものかはわからない。

 ネズミを殺すのにもためらっている小娘が、人を殺すための毒串をこさえたなんて。

 まったく、笑い話もいいところだな。


「毒あるところの表面触ったらなんか指がピリピリしたし、上手くできたと信じよう」


 大丈夫、きっと、大丈夫だ。

 私の呪いがたっぷり乗ったこの串は、憎き戌族(じゅつぞく)青牙部のクズどもを、必ず殺す。

 一本でダメなら二本、二本でダメなら四本、四本でダメなら、八本。

 覇聖鳳の体に毒の串を打ち込んで、絶対に息の根を、止めてやる。


「翠さま、最後までお勤めを果たせなくて、ごめんなさい。皇帝陛下との間に、元気な赤ちゃんを産んで、幸せになってくださいね」


 本心から、そう願った。

 痛みや悲しみではもう泣かないぞと決めたのに、涙が頬を伝った。

 今回の影武者仕事が終わったら、私は後宮を出て行く。

 ここにいて、みんなの優しさを浴びていたら、私の心で燃える炎は、いつか消えてしまう。

 それは、ダメなのだ。 

 私の生きる道は、そうじゃないのだ。

 仕事を紹介してくれた玄霧さんにも、一緒に働いている毛蘭さんたち先輩にも、もちろんあるじの翠さまにも。

 大きな不義理を働いてしまうけど、仕方がない。

 私にとって一番大事なのは、私が、私でいることなのだから。

 私は毒の串を袖の中に隠し、椅子から身を起こして毛蘭さんに提案した。


「少し中庭にも出ましょう。あんまり姿が見えないと、かえって怪しまれるかもしれません」

「いいわね。誰かに話しかけられても、辛い物を食べて喉がヒリヒリしている、という言い訳にしようかしら」


 特段に怪しむ様子もなく、毛蘭さんは快諾してくれた。

 せめて、後宮を出て行くその日までは、しっかりと勤めよう。

 翠さまに成りきって朱蜂宮(しゅほうきゅう)の中を歩き回るのも、これで最後だ。

 楽しい思い出ばっかりだった、とは言えないけど。

 かけがえのない、大事な日々を過ごせたことに、感謝しよう。


「北苑のほうから、なんか聞こえますね」


 部屋から外に出て中庭に立つ。

 それなりに距離のある西苑のここまで、ガヤガヤと話し声が届いた。


「工事の資材を運んだりしているし、普段は出入りしない人がたくさんいるでしょうから、それで慌ただしいのかしら」


 私の後ろからついてくる毛蘭さんが何気なく言った、そのとき。


 ドオオオオオオオオォォォン!!


「え、な、なに!?」


 ガアアアアアアアアアアァァァン!!


 北の方角から、二発、立て続けに、強烈な爆発音がこだました。

 いや、音だけではなく。


「央那、危ないっ!!」


 あらぬ方向から瓦礫の破片が、私のいる中庭まですっ飛んできた。

 北苑と西苑の間に、単なる見栄えのためだけに建っている高い塔が、なにかの攻撃を受けて破壊されたのだ。

 ドォッと毛蘭さんが私の体に覆いかぶさり、身を挺して守ってくれたけど。


「あっぐ……お、央那、大丈夫?」

「も、毛蘭さんこそ、足が!」


 彼女の左脚、太腿の裏部分に瓦礫がぶち当たり、衣服と共に皮膚が破れた。

 白い脂肪が見えて、どくどくと血が湧き出ていた。

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