二話 命拾いという言葉は、誰が命を拾うのか

「待って待ってちょっとホントどっか行ってよ死ぬぅーーーーー!!」


 私、逃げる。


「グガァァウッ!!」


 謎の化物、飛びかかる。

 

「マジ危ないって私なんか食べても美味しくないってお願いだから見逃して鎮まって森にお帰りへぶっぽ!!」


 川岸の水面にバンザイの状態で、顔面からダイブ。

 でもすんでのところでなんとか、鈍い私にしては本当に運よく、身をかわすことができた。

 半身びちょ濡れで、川の水以外にも涙とか鼻水とか、あえて気にしないことにしたい下半身とかも濡れているけど、なんとかかんとか、這いつくばりながら。


「ああ、メガネ割れたし!!」


 いや、気にしている場合じゃない。

 なにせ「高校ではメガネデビューしよう」と思い立って、さっきの雑貨屋で千五百円で買った伊達メガネだ。

 膝かどこかぶつけて、擦り剥いて痛いけど。

 動け、私の体!

 動いてよ!

 アワを食いながらなお、もがいて逃れようとする私だけど。


「もうダメ」

 

 運動不足なので、力尽きた。

 しょうがないじゃん、ずっと受験勉強ばっかりしてたんだもん。

 と、そこに。


「いい叫び声だった。よく聞こえたよ」


 私の状況とはまるで対照的な、落ち着いた声が聞こえた。

 そして。


「キェェェェェェイ!!」


 絶叫、いや猿叫とも言えるような、空気を切り裂く気合いの咆哮がこだまして。


「ギャゥゥン!?」


 ゴィィィン、と鈍い音が鳴った。

 棒のようなものを脳天に振り下ろされた怪物は、悲鳴を上げて頭をぐらつかせた。

 それまで、私をお昼御飯にしようと絶好調だった、四つ目四つ耳の巨大悪魔。

 重篤な打撃を頭部に喰らったことで、深酒しすぎた下町の酔っ払いオヤジのように、千鳥足で数歩、さまよい。


「クゥゥン……」


 子犬のようなちょっと可愛い鳴き声を漏らし、倒れた。

 巨大な謎の獣が倒れる横に、今の私にとって救いの神が、長い木の棒を持って立っていた。

 長い髪を後ろでポニーテール状に結んだ、私と背格好は変わらないくらいの、女の人だった。 

 

「ふんぬッ」

 

 彼女は更にダメ押しで、倒れた怪物の胸あたりを、ズドムと木の棒で鋭く突く。

 ビクンッ! と激しく怪物は体を跳ねるように揺らし、その後、全身を小刻みに震えさせ。

 やがて、完全に白目をむいて、口から泡を吹き出した。


「すごっ」


 刃物がついているわけではない、物干しざおみたいな普通の、棒。

 ファンタジー小説やゲームで言うところの、スタッフというものだろうか。

 カンフー映画では「棍」とか「杖」とか言ってた気がする。

 その程度の武器で、分厚い肉や硬い骨の上から心臓を突き叩いたところで、どれだけの衝撃になるというのだろう。


「まるで宝蔵院(ほうぞういん)胤舜(いんしゅん)」


 私は、おそらく二回目の命の危機に遭遇していたことも忘れて、女性の技の巧みさに驚いていた。

 ボケッと大口を開けて感嘆している私を見て、ポニーテール女性は無表情に言った。


「ホウなんとかが誰かは知らないが、人も獣も、心の臓を強く敲(たた)けば、死ぬ」

「ああ、心室細動」


 生き物の心臓は普段、ドクン、ドクン、と正常に収縮して脈打ち、全身に血を送り出す。

 しかし病気や大きな衝撃、怪我などのショックでその機能が損なわれ、心臓自体がプルプルと細かく痙攣することがある。

 それを心室細動と言い、お医者さんの電気ショックはその細動、痙攣を除去して、正常なポンプの機能、脈動を心臓に戻すために行われる。 

 と、中学校の救命訓練で、消防署の人が教えてくれました。


「なんだそれは。美味いのか」


 通じなかった。

 って、そんなこと言ってる場合じゃない。


「な、なんでもないです。気にしないでください。助けていただき、本当にありがとうございます」


 なにがどうなってるのか、いまだによくわからない。

 服に付いた水や泥を軽く払い、居住まいを正して私はぺこりと、その女性に頭を下げた。

 いやはや本当に、命の恩人なのだ。

 中学生の小娘、いやもうすぐ高校生だけど。

 その私が人生において他人に命を助けてもらう機会なんて、そうそうあるものではなかった。

 どうすれば感謝が伝わり、恩義を返せるのだろうか、それも全く分からないけども。


「気にするな、あの駄犬は私が追い回していたからこそ、逃げてあなたの所へ向かったのかもしれん」

「はあ」

 

 ここにぶっ倒れてもうじき血流不全、酸素不足で死ぬであろうデカい獣は、犬に準ずるなにかであるらしい。

 私は猫も犬も両方愛でる派だけど、コイツはもう二度と出くわしたくない。


「そのせいで道行く誰かが食い殺されでもしたら、私も寝覚めが悪い。叫び声を上げてくれて、お互いに良かった」

「どういたしまして?」


 恩に着せようという雰囲気は、みじんもなかった。

 ありがたいことである。

 ただこの人、やけに無表情なので、感情がわかりにくい。

 でもとりあえず、悪意とかそういう嫌な感じは漂わせていない。

 私は初対面者の正しい礼儀として、自己紹介を述べることにする。


「重ね重ね、誠にありがとうございます。私、北原(きたはら)麗央那(れおな)って言います。中学三年です」

「キタ……なんだって? それは名前か?」


 うまく理解されなかった。

 

「ええと、漢字ではこう書きます」


 私は木の棒を拾い、河原の泥砂になっている箇所に、自分の名前を書いた。

 できるだけ綺麗に、わかりやすく、大きな字で。

 それを読んだ女の人は、ふむ、と小さく呟き。


「麗(れい)、央那(おうな)さんか。変わった名前だな。北原(ほくげん)県からはるばる来たとは驚きだ。道中、大変だっただろう」  


 うーん?

 通じている部分と、通じていない部分と、誤解されている部分と。

 複雑に入り組んでいる気がするぞ。


「いえあの、北原、が姓で、麗央那が名前です。北原(ほくげん)県と言うところは知りません。埼玉県から来ました」

「サイタマ……それも聞いたことはない。遠い南の方か?」

「南と言えば、南かもしれませんけど」


 ここは東北地方、あるいは北海道なのかな?

 電車や電線が通ってないのも、すごい田舎だからだろうか。

 そんな田舎が東北や北海道の秘境にまだ残っているのかどうか、詳しくは知らない。

 私の困惑をよそに、女の人はなにか一人で納得したように、勝手に話を進める。


「見慣れない品だが、上等な服を着ている。それなりのお嬢さんなのだろうに、伴(とも)とはぐれて、こんなところで心細かっただろう」


 私の着ている服は量販店の綿パンとパーカー、名も知らぬ謎ブランドのスニーカーである。

 1ミリたりとも、お嬢さんの要素なんてまるでなかった。

 勝手に私の境遇を想像して同情したのか、彼女は腰に下げていたひょうたんを私に差し出した。


「遠い旅なのに荷物もない。賊どもにでも奪われたか。ふびんなことだ」


 遠慮なくぐいっとやれ、と視線や顔の動きで促される。

 言われてみると喉が渇いてる気がする私は、素直に従った。

 ぐびぐび、と勢いよく飲み下した、その液体の味は。


「ぶっは!? こ、ここ、これ、お酒じゃないですか!!」


 死ぬわ、と勢いで吐き出した。

 しかも、おそらく蒸留酒だ。

 喉が焼けるように熱いし、口の中が刺激臭で充満されてしまった。

 抗議する私に呆れるように、女の人は言った。


「いや、怪我をしているようだから、傷口を洗ってはどうかと思って渡したんだが」


 よく見ると、ひょうたんには「薬精(やくせい)」と漢字で彫られていた。

 消毒用アルコールなわけね。

 確かに私はバケモノから逃げるために、あちこち擦り剥いて、服も穴が開いてしまっていたのだ。

 うん、お互いすごく、ディスコミュニケーションすぎる。

 ゲホゲホと咳き込んでいる私の代わりに、女の人はその強い酒でもって、私の肘や膝、おでこの擦り傷をぬぐってくれた。


「ギィ」


 沁みる~~~~~~~!!

 思わず変な声出ちゃった。

 でも、厚意であろうその手当を、私は我慢しながら、感謝しながら、大人しく受け入れた。


「こんなものかな。おっと、挨拶が遅れていた。私は紺(こん)。紺、翔霏(しょうひ)と言うものだ。ここからちょっと行った先の邑(むら)に住んでいる」


 私がしたのと同じように、女の人は地面に自分の名を書いた。

 カクカクした機械的な書体で、几帳面で神経質そうな雰囲気を表している。

 紺さん。

 紺、翔霏さん。


「翔ける……なんだろう」


 私は雨かんむりに非と書く、その字の意味を知らなかった。

 クソゥ、あれだけ勉強しまくったのに、まだまだ知らない漢字が世の中にはたくさんあるなあ。

 

「雪がこう、風に吹かれて舞うというような、そういう意味の名前だ」


 指をひらひらと中空に泳がせながら、説明してくれた。 


「ああ、霏は雪片で、それが飛んで翔けるから『翔霏』さん。素敵な名前ですね。風にふわふわ舞う粉雪。可愛らしいな」


 教えてもらうと、納得した。

 ただ、この人の場合、お上品に舞い散る粉雪よりは、真夜中に荒れ狂う暴風雪、猛吹雪で一面ホワイトアウト、というイメージの方が似合いそうだけど。

 しかし、翔霏さんは私の言葉に顔の筋肉は動かさず、目だけ若干泳がせ、顔を少し赤らめながら。


「そ、それは、どうも。さすが、都会のお嬢さんだな、軽い口調で、素敵だ、可愛いなどと、面と向かって言えるのだな」

 

 今度は分かりやすく、照れていた。

 可愛いなこの人。

 ギクシャクしている翔霏さんを、少し面白くなって観察していたら。


「おーい、翔霏ー、無事かー? 獲物は仕留めたかー?」


 高くて軽めの、男性の声が近くに響いた。

 それを聞いて翔霏さんは石仮面の無表情に戻り、チッと舌打ちした。


「軽螢(けいけい)め、やっと追いついて来たか。もう終わってると言うのに呑気な奴だ」


 翔霏さんはそう言って、倒れている怪物を見やり。


「いかん、忘れるところだった」


 小声で呟いて、獲物の左耳を切り取り、懐に仕舞った。

 作業を終えると私の手を引っ張り、藪を越えた先の道に連れ出した。

 人が通る道は、ちょっと草木をかき分ければ見つけられるくらい、すぐ近くにあったのだ。

 私は、その目の前の河原で一歩を踏み出すのに逡巡していた。

 そうして、悪魔の犬に襲われ、食べられるところだった。

 自分の行動力、思い切りのなさに、暗い気持ちで溜息を吐かざるを得ない。


「とりあえず、軽螢と私とで、あなたを私たちの邑まで連れて行く。細かい事情は邑の長老たちがいるところで話してくれ。これからどうするのか、色々決めなければならないからな」

「は、はい、わかりました。そうしていただけると、助かります」


 翔霏さんに手を引かれ、今後のことをまとめて説明される。

 私は沈んだ気持ちで後ろを歩いた。

 

 商店ビルの火災、あの地獄がもし夢だったとしても。

 今見ているこの景色と、翔霏さんが幻だったとしても。


 私はそのどちらでも、なにも自分で決めず、自分で動かず。

 臆病と優柔不断とがあいまって、うろたえて、立ちすくんでいるだけだったから。

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