そしてまた彼女はタバコを変える
『今日叶の家に泊まりに行っていい?』
ついに紗綾から泊まりのメッセージが来た。おそらく元カレがマンションに乗り込んできたのだろう。メッセージを受け取った後、午後の講義を休みマンションに戻って掃除をした。
徹底的に掃除だ。
キッチンにたまっている生ごみ。一月も使ってなかった掃除機を起動させて、ひと月分の砂と埃を吸い取り。今まで拭きもしなかった窓ガラスを帰り際のホームセンターで窓ふきセットを買ってきれいに。そしてベッドシーツの予備を買っておいた。
インターホンが鳴った。紗綾が来たようだ。
「ごめんね急なお願いで」
「いや、ちょっと片づけるだけだから」
紗綾の手には小さなハンドキャリーが握られていた。緑の布製のハンドキャリーにはところどころ汚れており、使い込まれた感がある。彼女が旅行に行った話は聞いたことがなく、どこで使われたのか僕は考えないようにした。
「上がり込んで悪いけどお酒飲んでいい? ちょっと気分悪くて」
「かまわないよ。台所の下にチューハイの素があるから使っていいよ」
台所へ向かう紗綾がぺたぺた音を立てながら、白い素足の裏足が見えた。
「これ叶の実家から持ってきたの?」
「いや自分で買った。一々チューハイの缶を買いに出かけるのはめんどくさいからな」
「へー、いいなぁ。私タバコを買い過ぎて金欠だから、こうした買い方はできなかったなぁ。ねえ久しぶりに私がチューハイ作ってもいい?」
紗綾は冷蔵庫から大量の氷と炭酸水を取り出して、グラスの中に注ぐ。そこにチューハイの素を流し込む。その手さばきは高校の時から変わってない。もう実家から離れて三年が経とうとするのに、体は覚えているものだ。僕とのことは今でも覚えているのだろうか。
チューハイの水槽の中で氷がおしくらまんじゅうしているグラスをぶつけ合って、僕らは乾杯した。
「あーうまい。自分で作ったものはサイコーにほわほわするね」
「おいおいまだ一口なのに、もう酔ったのか」
「違う。ほわほわは、なんか気分がいいとか。気持ちがいいってこと」
マンションで何があったか口にしていないが、中で修羅場があったことが彼女の語録から推察できる。家を出てから紗綾と顔を合わせ、元カレの話を聞く機会が増えたからか紗綾語録を今では完全に訳せるようになった。ついでにタバコの銘柄も。
紗綾はあっという間にチューハイを空けると、続いて二杯目をつくっては流し込んだ。
「うまい。やっぱり部屋越した方がいいかな」
「彼氏から逃げるため?」
「それもあるけど、今住んでいる部屋管理人がうるさくてタバコは一階の喫煙所しかダメだって。でもめんどくさくてベランダでこっそり吸っているんだけどね」
彼女はあの大学生と付き合ってから、すっかりニコチンにべったりだ。今までの男もみんなタバコの臭いが染みついていた。おそらく彼氏と付き合っているのではなく、ニコチンを含んだ男を蝶が花の蜜を吸う感覚で近づいているのだと思う。
「なあもう今の男と別れるのなら、タバコもいっそきれいさっぱり止めたらどうだ。今非喫煙者が多いんだから、そっちの人と付き合ったらどうだ」
「叶みたいな人とか」
びくりと体が震えた。来た。僕は身構えた。
紗綾は片足を曲げて立て、そこに肘を乗せると口元に人差し指と中指をあてて、タバコを吸う構えをする。がタバコがないことに気づいたのか、テーブルに置きっぱなしにしていたココアシガレットを一本勝手に取ってそれをタバコ代わりに口に咥えた。
「あれからずっとやめようとしていたんだけどさ、自販機の前を通った時いつのまにか手にピースの箱手にしていたんだよね」
「なんの話?」
「タバコってやめられないんだよね。苦いし煙たいんだけど、あの匂いと肺にニコチンを溜める感覚が忘れられないんだよ」
いかん。話が読めない。頭の中の紗綾語録に今までになかった言葉が展開されて僕は混乱する。
「色々考えた。なんでタバコを吸う男に近寄るのかさ。逆なんだよね。タバコの匂いがさ蚊取り線香の役割しているんだよね」
「蚊取り線香?」
「私さ、高校の頃から私に近寄ってくる男いたんだよね。興味のない人に好きって言われてもうれしくないし。おまけに痴漢にもあって。電車じゃないよ。普通の飲食店でだよ。店長に相談しても効果がなくて繰り返し。叶の家ならおばさんが追い返してくれたから、あそこでしか働けなかった」
「蚊取り線香ってどういう意味なんだ」
「叶のアドバイスと同じだよ。金髪にしてからそういう輩が減った。タバコを吸い始めたら、痴漢も減った。タバコの煙で余計な男を追い払っているんだよ。そしてタバコの匂いがする数少ない人しか来なくなり、私も手放せなくなった」
パリッと紗綾の口の中でココアシガレットが割れる音が部屋に響く。
蚊取り線香。紗綾語録の意味を頭の中で咀嚼しながら、ようやく飲み込めた。彼女にとってタバコは身を守るための防具ということ。彼女が泣いていたあの日のことを僕は思い出した。そして彼女が初めてタバコを口にした日のことも。紗綾はそうして自分を守り、男を選別していた。
それは僕自身が、直に体験している。無臭だった彼女の口から吐き出されたヤニ臭さ、悪臭。それが僕も選別された虫の一匹ということになる。残酷だ。
「もしまた付き合うのなら、タバコを吸う男しか付き合えないのか」
「そうなるだろうね」
紗綾はそう答えて、小さくなったココアシガレットを飲み込みそれを溶けた氷で薄くなったチューハイで流し込んだ。
紗綾は僕のベッドで寝ている。その所有者であった僕はフローリングの上に買ってきたシーツを敷いて横になっていた。もちろん眠れない。彼女がひとつ屋根の下で寝るのは初めてで、緊張していたのもある。
ゆっくりと体を起こして紗綾の顔を覗く。化粧を落として、静かに眠る彼女は高校生の彼女に戻ったように幼い顔をしている。大学にいるときはニコチン中毒ですがとアピールしているが、もしもこの姿を見せれば吸っているんですかと驚かれるだろう。いや、あえてそういう化粧で彼女は舐められないようにしていたのだろう。
僕は財布を持って部屋を出た。この辺はマンションが立ち並ぶ住宅街で、夜になれば鳩の夜鳴きしか聞こえない。赤々とした看板のやかましい明かりが爛々としていた僕の実家とはまるで異なる静かな世界。でも僕の胸の奥はざわざわと騒がしい。
坂を下りた先にある青に牛乳の缶マークのコンビニに入って、店員に注文する。
「ピース一つお願いします」
コンビニから出て、薄いビニールの包装を破くと深海のような深い青の箱が現れた。中を開けると彼女が吸っていたのと同じタバコ。鼻のそばに寄せるとほんの少し苦い臭いがする。
ポケットの中から紗綾から受け取ったジッポライターを取り出して、火をつける。タバコの先端が燃焼されてあの臭いが目の前で立ち込める。そしてそれを口に含んだ。
「げほっ。がはっ。おえっえ」
咽た。持っていたタバコを落とした。
苦い、のどが拒否反応を起こすほどの煙。想起させられるスーツを着たおじさんたちの顔。僕はまだ残っていたタバコの箱をゴミ箱に投げ捨て、唾液をアスファルトに垂れ流す。
僕には無理だ。あの強烈な臭いを共有するのはやっぱり。
喫煙所にいるのだってずっと我慢していたのに、こんな体の悪いものを直に体に居れ続けるなんて。
汚れた肺を必死に空気を入れ替えて洗浄する。脳裏に浮かぶのは紗綾ではなく、赤々とした中で酒とタバコを飲んで下品に嗤う中年のサラリーマンだった。
翌日、彼女は僕の部屋を出ていった。スマホで新しい部屋を見つけたらしい。
その間に僕と彼女の間には何も進展せず、ただ六百円を損して終わった。
***
ある日、紗綾とすれ違った時、鼻に抜ける爽やかな匂いがした。香水かと思った。
振り返ると彼女の髪はプリン頭から昔のような黒髪に戻していた。しかし彼女の手には根本のフィルターまで白いタバコが人差し指と中指に挟まっていた。
「叶、今日お昼付き合う?」
紗綾が僕に気づき振り返る。彼女は新しいタバコを隠そうともしない。
「いや、金ないからカップ麺にする」
「そっか。まあ今度奢るわ」
にっと黄ばんだ歯をハニカムで彼女は食堂へ向かう。そして僕はそっとポケットの中に入れ続けていたココアシガレットをクズカゴ入れの中にそっと捨てた。
(終)
ヤニ好きの彼女は、なめられたくないことを僕だけが知っている。 チクチクネズミ @tikutikumouse
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