僕が先に好きだったと後からわかった
小さい時からの悩みはうちに裏口がなかったことだ。
固くて苦そうな板チョコの扉を見る必要もないし、中でタバコと酒の臭いの中を通る必要もない。けど結局僕が家を出るまで裏口は作られることはなかった。
「ママ。ウイスキーロック一つ」
「はい、ウイスキーロックね」
「ついでにおっぱいもひとつ」
「はい一千万ね」
「私のは安くないんだよ」
家に帰ると、アルコールでできあがったシャツとネクタイのおじさんたちが下品な冗談を笑いながら注文する。母さんは受け流すが、隣でお客さんの酒をつくっていた僕にとっては苦痛でしかない。
「どうぞお酒です」
「坊主いい加減覚えろよな。これがウイスキーロックでこっちが麦割。社会人になったら酒の種類覚えとかないと」
この人毎週来ている。いやなおやじだ。役職が何かわからないけど、脂ぎってテカテカした肌に肥えた腹、高い地位にいるのだろうけど、こんな場所で偉そうにしないほしい。それに結局何を飲んだかレシート見ないとわかんないだろうにあんたら。
ガランガラン。店のドアが開く。入ってきたのは、この店には入ってはいけない黒髪ショートの少女だ。けどみんな彼女が来ると見るや「いらっしゃい」「待ってたよ神無月ちゃん」と僕が帰って来た時より朗らかな声で出迎えた。
「お手伝いに来ました。おばさん今日もよろしくお願いします」
「はいよ。裏でエプロンつけてきな」
紗綾は僕と同じ高校に通っているクラスメイト。お小遣い稼ぎのために家が近いうちのスナックでバイトをしている。専ら給仕でお客の相手はしないのだが、お客の反応がいいからといるだけで結構人が入る。五十路の母さんと男の僕とでは見た目も華やかになるし、何より女子高生というブランドがより引き立てるのだろう。
店の奥から着替えた紗綾がぴょんと表に出てきた。もちろん制服なんて来てなく、色気のない黒のシャツにジーンズ、その上に洗剤や酒の痕が点々とついたエプロンを被せただけ。けどそれがおじさん的にはいいらしい。
次のテーブルに持っていくチューハイレモンを運ぼうとすると、紗綾がカウンターの前に立ってグラスを奪った。
「それ僕が運ぶから」
「いいよいいよ。ほらおじさんたちこいこーいしているし」
「そんなこと口にしてないだろ」
「目が言ってるの」
「おーい、早く持ってきてくれ」
さっきまで催促するような素振りもしていなかった手前の眼鏡の人が手を挙げて呼ぶ。紗綾は「はーい」と営業スマイルでチューハイを運んでいった。
紗綾には独特の感性を持っている。その人の特徴や欲しいものを見抜く能力がある、その見抜く力をうまく言語化できないらしく独特な言葉で表現する。未だに僕は彼女の言葉の意味をちゃんと理解できてない、あいつの言葉を理解するには神無月辞書が完成するのが先か死ぬのが先か。
「ビールよっつ」
「はい」
またお客が入ってきた。すでに近くの居酒屋で飲んだらしく、顔が真っ赤なサラリーマンの集団だ。顔が横に広いサラリーマンの人がカラオケのリモコンをいじりながら、ズボンのポケットに入れていた赤と白の箱からタバコを口に咥えた。
「火つけてくれ」
顔が広いサラリーマンは首をくいっと上げて、そんなことを言った。
うちはキャバクラじゃないからそんなサービスしてないし、そもそも母さんも僕も酒をつくっているから手が離せないのが見えてないのか。カウンターと真っ正面なんだぞ。
「ごめんね。今手が離せないの」
「なんだと? 俺を誰だと」
「僕行くよ」
「お前はいらん。ガキは帰れ!」
ぷっ。咥えていたタバコを僕に向けて吐き出す。さすがにテーブルからカウンター裏にまで届かず、床に落ちていった。実害はない。でも手に持っているチューハイグラスに力が入り、帰るなら今にでも帰りたくなった。
ボッ。サラリーマンの手元にライターの火が上がった。いつの間にか移動していた紗綾がライターのスイッチを押して差し出していた。
「すみません。お待たせしました」
「おう。待たせたぞ」
顔の広いサラリーマンは機嫌が直り、新しいタバコを取り出して口に咥えながら紗綾が付けた火に接近する。
ずるいよな。こんな商売しているのだったら女に生まれたら、客から冷たい目で見られることもないし、タバコを投げつけられることもないのに。いや無理か。僕は愛想もよくないし、酒の種類も覚えられない。紗綾が特別なんだ。だから客にもてるんだ。
タバコに火が付いたようでそのサラリーマンは満足げにヤニが染みついたソファーにもたれかかる。が、見逃さなかった。その男が紗綾の臀部を撫でていたのを。一瞬だったが、あの男の顔が満足げに口角が上がっているのが証拠だ。紗綾は気づいていないのだろうか、表情はニコニコ笑顔のまま。いや気づいているはず、でも求めているから無視しているんだ。僕があそこにいたら、テーブルをひっくり返す。知らないタバコ臭い男に触られるなんて、絶対嫌だ。
「生四つお待ちしました」
ドスンと抵抗とばかりに、乗っていた泡を揺らして台無しにした。
紗綾は「失礼します」と店の裏に戻ってしまった。
「夏樹。裏からビール樽持ってきてちょうだい」
泡だらけのジョッキを手に持っている母さんの代わりに、裏に入る。うちのバーには裏口がないため、荷物をうちの中に入れなければならない。そのため一階のキッチンに樽や予備の酒瓶が積みあげている。
もちろん樽がそこらに転がっていたらじゃまなので、階段の裏に置いているのだが、なぜか今日は樽が階段裏から出ていた。そこから紗綾の声が聞こえた。
「こんなところでなにやっているんだ」
「ちょっと疲れただけ」
紗綾はうずくまりながら、答える。ただ、声が籠ってて聞き取りずらい。
「毎度のことだけどできあがっている人のところに近づくな。調子に乗る奴は母さんが追い出すから」
「でもその間に叶がキリキリのイライラする思いさせるの嫌だし」
キリキリのイライラ。たぶん嫌な思いって言いたいのだろう。
紗綾は幸福な王子タイプなんだ。相手の求めるものを与えるだけ与えて、自分はみすぼらしい姿になる。でも本人はそれで幸せだと暗示する。でもこの姿を見れば紗綾は幸せではないだろう。欲しいものを与えられるなら、もっと欲しいと欲をかく人が来るのがうちの店。紗綾の感性はここだと食いつくされてしまう。
「別にうちにこだわらなくても、ほかの店でも働けるだろ」
「……無理。叶の家でないと私働けない」
困った人だ。それでも僕は彼女を見捨てることはできなかった。
「あのさ、うちの母さん髪染めているだろ。あれ男除けだって」
「男除け?」
「黒髪だと清楚とかのイメージになるけど、逆におじさんが近寄ってくるんだって。金髪だと」
「ほんと?」
「うん」
根拠が薄いにもかかわらず僕は肯定してしまった。
次の週、学校へ向かう商店街近くの散髪屋から金髪の僕と同じ制服の少女が出てきた。その子の顔を見るまで、彼女が紗綾と気づかなかった。出てきた彼女の髪の毛は黒から安物の金髪ブリーチに染められていた。紗綾が僕がいるのに気づくと、近づきその髪を一房僕の前に差し出した。
「叶。どう、これぐらいでいい?」
「どうって。本当に染めたんだな」
「うん。どこでやればいいかわかんないからここでやってもらったけど、どうかな」
そうして僕の手の上に黒髪が混じったブリーチしたての髪を落とした。最初に入ってきた情報は、作り物かと思った。いつも触っている自分の髪はゴワゴワで太さがあるのに、紗綾のは柔らかくすっきりした糸のように細く繊細だ。指の腹で髪をずらすと金髪の中に染めきれなかった黒髪が何本か顔を見せる。そして紗綾の顔を見ると頬を赤く染めて、何か期待しているような表情をしていた。
「もうちょっと髪を伸ばしたいいと思う。そしたらちょっと近寄りにくい感じ出る」
「よしやった」
小さくグッと拳を握る彼女の横顔に、心臓が跳ねた。何でもないはずの一場面なのに。
***
翌日から髪を染めた紗綾が店に現れるようになった。
「神無月ちゃん髪染めたんだ」
「せっかくの黒髪がもったいなぁ」
おじさんたちが紗綾の髪の変化におおむね残念がる様子を見せた。その影響は大きく、露骨に彼女の体を舐めまわすような輩が減った。そして数カ月経つと髪の毛をロングボブまでに伸ばして、前髪も分けてちょっとガラの悪い女風になった。
「紗綾なんか雰囲気変わったな」
「うん。叶のアドバイスのおかげだよ。案山子だよこの髪は」
ふんふんと鼻歌を歌いながら、マドラーを回してチューハイグラスの液体をかき混ぜる。僕としては黒髪の方が紗綾に合っていたが、彼女が喜んでいるなら余計な考えだ。与えられ続けるだけですべて奪われるよりかは。
「ごめんママ。昨日タバコ忘れていたんだけどまだ残っているかな」
「タバコ? えっとあったかな」
「おばさんあのメビウスのじゃない」
「ああ、あれね。置いてあるよ」
母さんがレジの下の引き出しから青が目立つスタイリッシュなタバコの箱が現れた。しかしなぜ青の箱でなく『メビウス』という銘柄の名前が出てきたのだろう。
「けどよく覚えていたね」
「彼氏が吸っているタバコのと同じものだったので」
「神無月ちゃん……彼氏できたんだ……」
「しょうがねえよ。花の女子高生、いつか摘まれるものさ。ママー! ウォッカある?」
「だらしないねえ。大の大人が嫉妬なんて、ここにもうら若き乙女がいるじゃないぃ」
母さんが腕を上げて誘うポーズを恰好する横で、僕はビールを溢れさせてしまった。バーを慌てて止めて、紗綾の横顔を見る。
笑っている。朗らかに、カウンターの前には誰もいないのに、目の前にその彼氏がいるみたいで。
「紗綾。いつの間に彼氏作ったんだ」
「ここのバーにたまに来る大学生の人なんだけど、先月連絡先交換してね。なんか今まで一歩引いていたんだけど、この髪にしてから高嶺の花って言うのかな。垣根を越えれたみたいで。昨日もぎゅーって抱き寄せられて」
「青いねえ」と顎に手をやる母さん。手で顔を覆うサラリーマンたち。ぼんやりとグラスを拭く僕。
先月、ああ、馬鹿だ。アドバイスしただけで僕に気があると思い込んでいたなんて。いつか
彼女ももらう側だとの考えを忘れて。
「叶、ありがとね」
その言葉が出た時、僕は一歩後ろに引いてしまった。彼女の口から今までしなかった強烈なニコチンの匂いがした。その奥からあの男の幻影が今にも僕の前に立ち塞がってきそうで。怖くなってしまった。
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