ヤニ好きの彼女は、なめられたくないことを僕だけが知っている。

チクチクネズミ

また別れたそうだ。

 ニコチンを含んだ白煙が神無月紗綾さあやの両唇から吐き出た。ひとしきり白煙を吐き出した後、ため息が漏れて、肺に残っていた白煙を最後まで出し切る。


「また別れたの」

「違う。浮気してやがったから逃げた」

「それを世間では別れたと言うんだけど」


 僕がそう指摘するが、彼女はカラコンを入れた赤い目をこっちに向けず吸い殻入れの前に両肘を組んで、タバコを咥える。

 別れた報告を聞くのはこれで三度目だ。その間に変えたタバコの銘柄も三度。最初はメビウス、次にキャメル、今はピース。俺には味も旨さもわからないが、飽きずに吸い続けているというのだから、吸い続けるには飽きないのだろう。


「叶さぁ、毎回思うけどタバコ吸わんのになんで喫煙所ここにいるのさ。ココアシガレット咥えても、貧相なだけなのわかる?」

「ここじゃないと愚痴らないだろ。紗綾、彼氏別れた話するの最初に僕を通してからじゃないとサークルの女子に話せないじゃないか」

「彼氏気取りか」


 脇腹を殴られた。痛くない。

 でも僕は痛がるふりをして「ぐふっ」と声をわざと鳴らした。一度反応しなかったら彼女の機嫌がちょっと悪くなって、しばらく黙ってタバコで遊んでしまった。

 ポケットからコンビニで買った青のココアシガレットを口に咥える。

 甘い。ラムネ菓子だから当然だが。しかしタバコよりは健全だろう、脳の血糖値が上がるし、ゆったりとした気持ちにさせて紗綾の愚痴を聞ける。


「浮気ってどのあたり? キス?」

「子供かよ。ベッドアウト直後だよ」

「アウトってなんだよ。インならわかるけど」

「やり終わった後のこと。ドア開けたらノーパンの彼氏でお出迎えされたあたしの心情分かる。部屋の奥からブラつけるの手伝って〜なんてわたがしみたいな声聞かされてさぁ」

「わたがしって。ああ、甘い声で誘ったのか」


 紗綾は独特の表現をする。なので愚痴を女友達に口に出してもその独自表現に意識が持っていかれて、イマイチ理解してくれない。僕が一度校閲するように一度聞いて分かりやすい言葉に変換する。

 紗綾は馬鹿ではない。安いブリーチで染めた髪にてっぺんから黒髪が生えてプリン頭。初対面の人なら馬鹿女の風貌だが、この辺では有名な高偏差値大学に入学できたし、GPAも三を超える。この見た目も相手の男の好みに合わせたらしい。だが髪に関しては大学に入ってからほぼ変わってない、いや彼女が好きになった男がことごとくそれがタイプな男だった。そして三回も浮気で別れることになった。


「浮気の気配なかったのか」

「あった」

「おいおい、放置したら相手の男調子に乗るだろ」

「だって、証拠つかめてなかったし。それで詰められてもヒスんなよって躱されるヤニ吹かすしかなかったもん」


 くにっと紗綾が咥えたタバコの根元が潰れた。中の葉苦くないのだろうか。

 少し遠くに目をやると、リュックを背負った男が彼女と思われる女性の頬をツンツンと可愛がっている。思い起こせば、紗綾の彼氏いちゃつくようなことしてなかったな。肩に手を回して、連れそうぐらいで。あれは俺の所有物だみたいなマウントなのだろうか。今までの彼氏は紗綾にそんなことしたのだろうか。

 こんな質問今したら、根性焼きされるな。


「彼氏の電話消した」

「消した」

「マンション変える?」

「ん~しばらくまだいい」

「大丈夫か。その彼氏所有欲高そうだから、押しかけに来るかもしれないぞ」


 それを口にしたとき、彼女の目じりがぎろりとこちらを向いた。思わず口に咥えていたココアシガレットを離して、ポトンと落ちてアリの餌。

 まずいNGワードだったか。

 短くなったタバコを吸い殻入れに落とし込み、新しいタバコを口に咥えると銀のライターを投げつけてきた。紗綾はくいっと首を上に向けてあげる。

 火か。

 もらったライターが困ったことにジッポライターだ。この前持っていたのは百円の安いライターだったから、おそらく彼氏の所有物をパクったものだろう。この形式火傷しやすいから苦手なんだよな。小さいころお客さんに火をつけたら、火力が強すぎて指に水が入ってぐじゅぐじゅになった。

 ジッポライターに付随している車輪を回す。一回目は空回りして、火がつかなかったが二回目で火が上がった。燃える赤い火を紗綾の咥えているタバコに近づけると、紙が燃え、次第にタバコの葉に燃え移りだして一筋の白煙が立ち上がる。


「引っ越しの金が、ない」


 ああ、そっちか。元カレのことを言われて怒ったのかと思った。と胸をなでおろして、僕も箱から新しいのを取り出す。

 ココアシガレットと言えば、ラムネ味とコーラ味の二つがあるが、偽タバコとしてはどちらもクオリティが低い。コーラ味は見た目が真っ赤過ぎてまごうことなき偽物だ。ラムネ味は白すぎる。本物のタバコはフィルター部分に黄緑のチップペーパーを巻いている。おそらく子供が間違えないようにするために本物らしくはしない配慮だろう。だから七十年経ってもタバコに片思いし続けている。


 そんなことを考えていると、紗綾はもうタバコを吸いきってしまった。箱を開けると中は空っぽ。どうやら切らしてしまったらしい。


「買ってこようか」

「いい。捨てるのもったいなかったから。それに叶この後必修講義あるんでしょ」


 ぷっと口からタバコを吐き出して、吸い殻がダイブ。お行儀が悪い。

 半透明のガラス戸に手をかけようとした紗綾が足を止めた。


「あのさ。もし今のマンション住めなくなったら、あんたのところに避難させてくれる」


 そう言い残して、紗綾が去る。

 僕は一瞬それが何の意味か理解できなかった。しかし心臓は正直に高鳴りを上げた。高校のあの日以来。

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