2.秋

 夜の冷たさが、少しずつ表情を変えてくる。

 暑さに浮かれていた虫の声も、寒々と寂しげに響き渡るようになる。

 季節は秋を迎えていた。

 少女は相変わらず、魔女の家を訪れていた。

 その日は、いつもより早い時間に玄関がノックされた。

 だがその音は、少女のたてるものではなかった。乱暴で、どこか怒りを帯びている。

 ドアの前に立っていたのは、大人の男だった。

 あの少女の父親だとすぐに思い出した。

 とりあえず中に招き入れた。他人に見られたくないだろうと思ったからだ。

 娘と関わるのは、もう止めてくれ。

 いきなり本題だ。よほど早く済ませたいらしい。

 私は別に、来てほしいと頼んでない。魔女のところに行ってはいけないと、あの子に言えばいいのでは?

 もっとも、そう言われて素直に従う子だとも思えないが。

 娘に一体何をしたんだ?親のいう事に逆らわない子だったのに、ここのところいちいち質問してきたり、親に意見するようになったんだぞ!

 成長した証じゃないか。お前の教育は、聞き分けのいいお人形さんを作る事なのか?

 嫌味は通じたらしく、次の瞬間横っ面に衝撃が飛んできて、視界が暗転する。

 景色が戻ってきた時、父親は魔女の上にのしかかっていた。

 その眼には、邪な光が浮かんでいる。

 それですべて察した。

 最初からそれが目的だったのか、途中ですり替わったのかは分からないが、父親は自分のベルトを外しているところだった。

 痛いのは嫌いだが、これは痛い上に気持ち悪いので、もっと嫌いだ。

 事の間は、自分の心にベールをかけ、好きだった物語の場面を思い出す。

 やり方は、幼い頃にすでに身につけていた。

 勝手に満足して、早く終わってもらうに限る。

 ふと、ドアの横の小窓で、黒いものが動いているのが見えた。

 あの子だ。

 心のベールが、ぶわっと剥ぎ取られたように、魔女は我に返った。

 中から声がするから、様子を見ようと、足場になるものを探しているのだ。

 見慣れた顔が、小窓からこちらを覗き込んだ瞬間に凍り付く。

 おそらく、魔女も同じ顔をしていたのだろう。少女は足場から降りたのか、すぐに見えなくなった。

 男は無心に上下運動をするばかりで、全く気付いていないようだ。

 おかげで両腕は自由に動かせたので、魔女は無防備な男のみぞおちに一発見舞った。

 男が体制を崩した隙に、魔女はテーブルの上にあった瓶を掴み、男に投げつけた。

 コルクの蓋が外れ、赤い粉が辺りに舞う。鼻腔を刺激するにおいが立ち込めた。

 咳き込む男の目には、恐怖しか浮かんでいなかった。

 それは呪いの粉さ。顔が爛れて、失明する事もあるよ。

 せせら笑いながら、怒りなのか自己嫌悪なのか分からない感情が、魔女を包んでいた。

 私は年中吸ってるから耐性があるが、あんたはどうだろうね。

 脱兎の如く駆け出した背中を見送りながら、唐辛子のにおいに魔女もむせ返ってしまった。南国の希少な唐辛子だったのに、もったいない事をした。

 殴られた頬が、ようやく気付いたかと言わんばかりに、激しく痛み出す。

 魔女は、家の裏を流れる小川に向かった。食器を洗ったりするのに使っている小川だ。

 案の定、少女は川べりにうずくまっていた。

 ごめんなさい。

 泣きそうな目で、少女はそう言った。

 どうして君が謝る?

 だって、お父さんがあなたに怖い思いをさせたから。

 頭がくらくらした。

 あれを怖いと思ったという事は、あれを見て、聞いて、感じた事があるからだ。

 それも込みで「オヨメサン」教育という事か。

 少女は、濡らしたハンカチを差し出した。赤い繊細な刺繍が、今は少女を絡めとる茨にしか感じられない。

 私は大丈夫だから、今日はもうお帰り。

 少女を抱きしめながら、自分に言い聞かせるように、魔女はそう言った。

 少女を見送り、家に戻ると、魔女は仕事にとりかかった。

 昼下がりの光は、徐々に夕焼けの斜光に変わる。

 魔女は裏口の扉の前で、座り込んでいた。

 胸の前で組まれた手の中には、青い石の原石がある。

 家の中には物音ひとつない。

 時折、傍らの黒猫が、不安げに主を見上げてにゃあと鳴くだけだ。

 魔女は思い出していた。

 今日これまでの人生を。

 思い出した記憶は、魔女の手を通して、石の中へ複写されていく。

この個人的な魔法を、気味悪がる者も多かった。それでも、故人や大切な者を思い出すよすがにしたいと、魔法の込めた宝石を求める者は大勢いた。

 正直、自分の人生を残したいなど思っていない。

 ただ、これまでの旅で見たもの、聞いたもの。

 美しいものばかりではなかったが、それでもあの少女にはっきりと伝えたかった。

 魔法のないこの世界も、なかなか捨てたものではないと。

 森の外の方から、大勢の気配が近づいてくる。

 どうやら、時間だ。

 魔女は手にした石を、少女のハンカチに包み、黒猫の首にくくりつけた。

 お前も、上手くやるんだよ。

 主の心情を察したように、猫はわずかに空いた裏口から、するりと外に出て行った。

 その姿が茂みに消えたのを確認し、魔女は扉を閉めた。


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