深海松の
六年前。私は彼に何を伝えたんだっけ。あの海で何をしたんだっけ。思い出せ。早く思い出せよ。
雪で冷たくなった秋人をギュッと抱き締める。
シトラスの香りはしない。
ほのかに香るのは煙のにおい。
「秋人、なんでいつも突然なのさ」
「美冬が呼ぶから?」
偶然でしかないはずなのに口元が緩む。
私が呼んだら会いに来るの?
もっと早く君を呼んだら違ったのかな。
「……ずっと待ってた。なんでもっと早く来ないの」
「高三以来、まともな連絡してこなかったの誰だよ」
「今日だってしてない」
馬鹿だな。あの夏みたいにぐずってる。
自分は情けなくて、意気地無しだ。嗚呼、なんて不甲斐ないんだろう。
アルコールで涙腺はゆるゆるで、子どもみたいにわがままを言いながらポカポカと叩く。きっと酷い顔をしている。涙でマスカラが剥がれても、しゃっくりを上げたまま泣きやめやしないんだ。
君だけなんだよ。こんなに弱い自分を見せても恥ずかしくない相手は。
「泣き虫お嬢さん」
君の存在はキレイな思い出に留めておきたかったから。
また出会ってしまったら戻れないと思ったから。
これ以上「藤原秋人」が自分の中で大きくなるのが怖かったから。
こんな理由を君に伝えるなんて出来ない。私は臆病だから。変わることを恐れて、どこにも行けず、抱え込んで、うずくまってしまう人間だもの。
「おじょーさん」
ゆっくりと腕を解かれて目が合う。
左右非対称の二重。真っ黒な瞳。長い睫毛。
変わらない。欲しい。
すっと両手を伸ばして頬に触れる。
冷たくて、あたたかい。
指先で感じるだけの熱ではもう足りない。
「目ぇ閉じて」
背伸びをして身長差をゼロにする。
この感覚を私は知っている。
忘れていた。見ないふりをしていた。それでもちゃんと覚えていたみたいだ。
瞼を開けるとまた目が合った。
「酔ってる?」
「人違いしたかも」
君は知らないでしょう? ビールとチューハイだけで私は酔えないよ。
まだ、ぬるい夢に浸っていたいんだ。
アルコールじゃない。秋人、私はアンタに酔ってるの。熱っぽい視線の理由をお酒のせいと勘違いしていればいいんだよ。気付かなくていいよ。
「夢と知りせばさめざらましを」
「橘美冬」が呼んだから来ちゃったわけじゃないんでしょ。「藤原秋人」は理由があってここに来たんでしょ。
「……あのなぁ、美冬」
嗚呼ほら。聞きたくなかった話が始まる。
「だいじなお話なんでしょ。私に会いにこなくちゃいけない、おっきな理由があったんでしょ」
「……うん」
だらしなく眉毛が下がって、幼子みたいに声が震えてる。
あやす様にトントンと背中をさする。
纏う香りが変わっても、髪が伸びて明るくなっていても、ピアスが増えていても、私の胸の中に収まるのは私が知っている「秋人」なんだ。
「秋人、私、アンタの話聞かないとなんでしょ。駄々こねるわからず屋のまんまの美冬で居られないんでしょ」
わかるから。離れていた時間が長くてもわかるよ。
秋人がいなきゃ私は橘美冬じゃないの。
私がいるからアンタは藤原秋人なんでしょ。
「俺、この街出てくんだ」
「わざわざ伝えに来なくても良かったんに」
優しく頭を撫でる。
お互いにいい大人になってしまった。
離れていた時間は一度も交わっていなかった。別々の人生だったんだよ。
私だって就職と同時に実家を出て一人暮らししてるし、恋人だっている。なんでも話せる秋人を避けてだっていた。
「高校卒業した後、すぐに就職したんだよ」
そんなの知ってる。地元に残って働いてるでしょ。
「成人式の時に頑張ってるらしいよって聞いた。会えるかなって馬鹿みたいに探してたのに秋人来なかったよね」
「……ごめん。インフルだった」
「マジで心配損だわ」
仕事の都合かな、なんてあの日は一人で納得した。それなのに、病欠って。なんだよもう。
言われてみれば、学生時代もほとんど毎年インフルエンザで休んでいたなぁ、だなんて詰襟姿の秋人を思い返す。ランドセルを背負っていた時分は、私にも移されて二人仲良く出席停止になっていた気がする。
……変わらない。思い出だけは色褪せない。
やんちゃ坊主の傷だらけにした黒いランドセルがない机も、雪でびしょびしょにした居眠り頭がない教室も、何年前だった? アルバムのページをはぐる度に、君の聞こえないはずの声がずっと頭の中で響いているんだ。セピア色だった思い出は、君の言葉ひとつでフルカラーに変わってしまう。
顔を上げると目が合った。真っ黒な瞳から目が離せない。トクントクンと静かに脈打っていた音が徐々に速くなるのを感じる。
しまった。やらかした。
あの夏から覗いていないレンズ越しに、私は今日、何枚シャッターを切ればいいんだろう。
「……もっと連絡して欲しかった。もっと会いたかった」
何年越しにピントが合ったのだろう。
「……年賀状だけじゃ俺らは足りなかったよな」
ふわふわと上気する身体、ドクドクと波打つ拍動。酔いが回っている? こんなのまるで、ああ、馬鹿みたい。気付かないふりを出来る余裕が今は無いよ。
わかんない。わかんないよ。足りなかった、って言葉の意味がわからない。切なそうに眉尻を下げるアンタの気持ちがわかんない。
「なんでよ。私ばっか会いたがってんだって思ってたのに! なんでよ。わかんないよ。なんで今さらこんな……知りたくなんてなかった」
触れられる距離に来るなよ。私の被写体のままでいろよ。
あの夏。今、繋いでいる君の手の温もりを。
高鳴って止まらない鼓動を。
衝動的に零れてしまいそうな隠していた本音を。
「出会わなければよかった」
今日も。あの夏も。……いや、ずっと前から。
藤原秋人と交わらない人生が過ごせていたならどんなによかっただろう。出会わない世界線だったなら、こんな気持ち知らないまま一生が終われたのに。
「俺らの始まりはいつだったんだろうな」
「知らない。それでも終わりは今日なんでしょ」
「……ケジメつけなきゃって思ったんだよ」
ガシガシと濡れた頭を搔いた。困った時の癖だとわかった。冷たくなった手を包み込むようにして取ると、だらしなく眉毛が下がって、消えそうな声の「ありがとう」が聞こえた。
「さよならを言いに来た」
息が詰まった。暖房で温められたはずの空気が冷たく感じた。漠然とした予感は当たっていた。そんなことだろうとは思っていた。信じたくなかった。嘘、だと言って欲しかった。……口から零れる言葉が、外の雪と一緒に溶けてしまえばいいのに、と思った。
「いってらっしゃいを言わないとだね」
泣いて喚いて「いかないで」って縋れる女になりたかった。秋人とは恋人じゃない。もちろん家族でもないし、友達と言うのもきっと違う。「離れないで」を言える関係ではないから。私はあくまで幼なじみ。ううん、もっと別の名前があったはず。
「俺さ、明日引っ越すの」
「うん」
「東京の方」
「そっか」
「……結婚したんだ」
「……へ」
「春に子どもも産まれるんさ」
「そっかぁ」
遠くに行ってしまう。私の知らない秋人になってしまう。いや、もう私も秋人もお互いを知らない。
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