射干玉の

 いつの頃からか漠然と「運命の人」は「藤原秋人」だと思っていた。映画や小説なんかよりずっとフィクションみたいなノンフィクション。少女漫画よりもチープな関係にだってあったはず。

 生年月日、血液型、家族構成、連絡先、住所、身長、体重、靴のサイズ、好きな食べ物、嫌いなこと、将来の夢、好みのタイプ、あと何だっけ。知らず知らずに把握済みだったよね。

 最低限の言葉。目を合わせただけ。いや、足音だけでもその時の気分、考えていること、伝えようとしていること。何となくを全て理解してしまっていた。阿吽の呼吸があるように、あの時はアンタの吐いた空気を読めてしまっていたんだよ。ねえ、アンタも同じでしょ?

 手を伸ばせば届く距離にずっとあったから。

 声をかけずともアンタは隣にいたから。

「さよなら」とはいつも言わなかった。「また今度」がいつの日か、ううん、「いつも」あったから。


「ねぇ、おめでとうって言わないとだめだよね」


 秋人と繋いだ手が震えた。再び視界が霞んでいく。

 馬鹿だなぁって言われるだろう。「おめでとう」が「さようなら」になってしまいそうで言いたくないんだ。祝いの言葉が呪いの言葉になりませんように。


「……俺は、美冬に……」


「認めてはいるよ。祝いたくないわけじゃない」


 自分が知らないところで。自分が知らない人と。それでもアンタが幸せだって言うんなら構わない。私だってアンタの幸せは嬉しいんだよ。一緒に喜ぶべきなんだ。

 ぶんぶんと握った手を振る。手の甲にポタリポタリと涙の粒が落ちてく。


「またね、を言いたくないから来たんだよ」


 オマジナイ。おまじない。お呪い。

 かけられるようならかけてあげたい。ゆっくり積み重ねてきた呪いで、身体ごと蝕まれてしまえ。

 気付かなければよかったのに。知らないふりして「またね」を言う相手を忘れてしまえばよかったのに。……そしたら私も、ううん。それでも私は自分を縛ったままだったんだろうね。


「おめでとう、がさよならになりそうで言えないんだよ」


「またね」は「いつか」の約束になってしまう。いつのまにか自分も縛られていた。ふたり揃って優しい鎖に繋がれていたんだよ。柔い檻の中にいたんだ。今更気付いてしまった私をアンタは哀れに思っているだろうか。


「明日、何時に行くの」


 つなぎ止めていた鎖は緩いでしょう。一重、二重と絡まりをほごせるもの。「地元」っていう優しい檻は、鍵なんて誰も閉めていなかったんだよ。出たければ出ればいい。呪いなんて、呪いなんてそんなものだ。


「昼過ぎの新幹線乗ってく予定。見送ってくれんの?」


「……奥さんも?」


「一緒に行くよ。美冬にも会って欲しいなー、なんて」


「……うん」


 どんな顔して会えばいいの。どんな顔で送り出せばいいの。ねぇ、わかんないよ。もう何もわからない。


「私、見送り行きたくない」


 だって今手を繋いでいる。


「見せる顔がない」


 彼氏がいるのにキスをした。


「行ってらっしゃいってアンタたちに言えない」


 ぼろぼろと止まらない涙は、蓋を閉めてもこぼれてくる秋人への気持ちのようだ。言葉にならない思いを涙に乗せるなんて小学生と同じだ。怒りも悲しみも喜びも。全部全部言葉にできないからひとつ残らす汲み取ってよ。


「あきひと」


「うん」


「あきひと」


「いるよ。ここにいる」


 指先に力がこもって、ぎゅっとふたりが固く結ばれても、アンタはいなくなる。離されてしまうんだ。

 いつかのように慰められても、泣きやめやしないんだよ。今日中には「美冬と秋人」の関係が切れてしまう。名前の無い関係に終止符が打たれてしまう。カウントダウンは玄関を開けた時から始まっていたんだ。


「……何時までうちに居れる?」


「……終電まで」


「次に会う時、他人のフリしない?」


「できねよ」


 さらさらの前髪の奥から熱っぽい瞳が覗く。

 馬鹿な子。哀れな子。

 アンタは今日ここに来るべきじゃなかった。私たちは逢うべきではなかった。秋人、アンタは私に何も伝えずにこの街を出ていくべきだったんだよ。

 惹かれ合うように唇が重なる。ラムネ味のファーストキスを白桃のアルコールが再度上書きした。ダウンジャケットは脱げると同時に溶けた雪をフローリングに落とした。思い出の中のシトラスは煙草の煙の向こう側だ。

 ごめんなさいなんて思わない。悪いなんて思ってやらない。最悪な思い出で「藤原秋人」の存在に最後のシャッターを切ってやるんだ。


「あきひと、アンタ幸せ?」


「とっても」


 馬鹿な女だよ、私は。

 世界で一番愛した男は自分の手を二度と引いてくれない。関係を壊したくなくて留めた想いを伝える以上に惨めなことを始めている。自ら忘れられない存在に、今しているんだ。


「わたしも、好きな人いるの」


 首筋を甘噛みされながら何を言っているんだろう。

 髪をとかれて、温い手で柔く胸を揉まれる。優しく丁寧に、割れ物でも扱っているつもりなのかしら。たまらず艶声が漏れて、嗚呼、私は女だったんだと感じた。

 誘ったのは私。きっかけは秋人。責任は誰にあるって、両方でしょ。二十数年見ないふりしてきた「幼なじみ」を初めてそういう目で見た。無意識下の線引きを撤廃して、ここにいるアンタはもう、一度寝た男。ゼロをイチにしたんだ。元には戻れない。

 恋人の名前は春真くん。アンタと違って髪は黒髪のストレートだし、ピアスもしてない。煙草も吸わない。家にも突然やってこない。思い出のアルバムは秋人とのより薄いけど、


「わたし、しあわせなんだよ」


 頬を伝う涙は生理的な涙だから。

 こっち見んなよ、はよ目を逸らせ。しゃあつける殴るぞ。


 秋人、もっとぐちゃぐちゃに私を絆して。もっと私に冷たくあたって。もっと乱暴してよ。快楽なんていらない。蔑んだ目で私を見て。おもちゃみたいに「いらないよ」って早く捨てて。アンタのことを世界で一番大嫌いになってやる。


「みふゆ、もういっかい」


「ばか」


 形勢逆転。未だに熱を持った瞳の秋人を押し倒す。


「シンデレラは秋人なんよ」


 枕元からは秒針の音。

 エアコンの生ぬるい空気が素肌を撫で続ける。

 床に散乱していたブラウスで汗を拭う。結露で水溜まりを作った缶を手に取り、白桃味のアルコールを流し込む。


「魔法が解ける前にやめよう」


 私の身体にアルコールが回っている間。酔って見た幻だって信じてしまえるでしょう。魔女との約束をちゃんと守らなきゃシンデレラにボロが出る。

 アンタは悪い王子様にたぶらかされてたんだよ。私を選ぶのは選択ミス。みんなの憧れるシンデレラストーリーにはならないよ。正規ルートに早くお戻り。アンタの王子様にはドレスを脱いだなんて決して知られてはいけないんだから。


「ほら、脱いだドレスを着て。プリンセス」


「みふゆ」


「帰りの馬車無くなるよ」


「馬車ってなんだよ」


 笑ってる秋人にトレーナーを投げる。


「ガラスの靴のお忘れ物がないよーに!」


 ふふふ、と私も笑いながらクローゼットから出した部屋着のパーカーに袖を通した。

 私は王子様なんかじゃない。シンデレラと結ばれる王子様にはなってはいけない。思い上がるな。キスしたくらいで、一度抱かれたくらいで本気にするな。


「秋人、アンタは酔った幼なじみに押し倒されただけだよ。欲求不満な幼なじみが、自分の彼氏だと勘違いして襲っただけだよ」


「秋人ってちゃんと名前言ってるじゃん」


「たまたま彼氏の名前もアキヒトだって、いう、ことにするには無理があるか」


「聞かれるまで黙ってれば問題ねぇろ?」


 いたずらっ子のように八重歯を覗かせてニタニタ笑う姿は、大人になっても変わらないんだな、なんて思ってしまった。


「そうやっていつも浮気するんだ」


「ばぁか! これまでもこれからもやらねよ!」


「お、美冬ちゃんは例外か」


「お前は……そうだな。美冬は浮気相手というか……うん、今の俺は千夏一筋だから」


 クシャりとはにかむ姿なんて初めて見た。秋人ってこんな幸せそうに笑うんだ。胸がチクリと痛んだ。


「チナツさん、か。ほんとに大好きなんね」


「めっちゃ好き」


「数分前に抱いた女の前で言うことかよ……」


「千夏は大好きな人。お前は別じゃん。美冬は俺の、いや、お互いにとって唯一無二の存在じゃん」


「何それ」


「幼なじみ」


 グッと息が詰まる。

 そうだ。当たり前だよ。私たちの間には甘い空気なんて必要なかった。家族、友達、恋人。どれにも属さないけれど、全部に属している。彼らが見た事のない顔を、彼らの知らない思い出の全てがアルバムに刻まれている。


「幼なじみなんてやーよ」


 もっと特別な名前が欲しい。たった一人の「幼なじみ」なんて秋人の記憶に残すには淡白だ。

 自分は何を望んでいるの? 秋人の何になりたいの?

 どろどろと渦巻く劣情に、いつから気付いて見ないふりをしていたのだろう。秋人に向ける独占欲をもう隠せやしないだろう。


「一蓮托生って言ったった。一生アンタに私を忘れさせない」


 電車の中で言った。青い海で言った。

 燦々と照りつける太陽の下で、潮騒に消えないように。

 潮風が一つにまとめた髪を揺らして、海の青と白いシャツのコントラストが眩しかった。


「イチレンタクショー……って言った」


 だらしなく眉毛が垂れて、くしゃくしゃな笑顔。ねぇ、何で今、私の大好きな顔で笑っちゃうかな。目尻の笑いじわが前より深くなってる。口元のえくぼがよく見えるようになった。


「死ぬまで忘れてやらねてば」


 サラリと髪を撫で、頬に手が伸びる。

 親指で荒く目元を拭われた。


「覚えてるよ。ずっと」


 水分でキラキラと飽和した瞳が静かに決壊した。長いまつ毛が濡れている。


「俺には美冬がいるって忘れないから」


 あの海と同じだ。困ったように笑ってくれるな。泣きながら微笑むな。あどけなさの残る少年が纏った磯の香りがフラッシュバックする。あの夏の一枚に色が付く。


「私も。私にも秋人がいる」


 今日はきっと雪の匂い。雪の白と夜の黒のハッキリしたコントラストの一枚だろう。


「駅までおくるよ」


 最後のギリギリまでそばにいたい。さよならのその時まで、一瞬一瞬を丁寧なポートレートに残そう。

 思い出だけを手元に残したいの。忘れたくないのに、無かったことにしたいの。綺麗な思い出の一枚を切り取って残そうが、幼少のアンタから今の今までの何千万枚もの藤原秋人は埃をかぶっていてくれない。風が吹けば花びらのように舞い上がって、表裏と返しながらはらはら落ちるんでしょう。二度と見ないカメラロールだからってデータを消してしまえたならどんなによかったんだろう。私の記憶域はすぐに現像したがる。フィルムはそのまま転がしておけばいいのに。撮りためたポートレートはスクラップブックに自動記録。説明書きもいらないほどコマ撮りでこちらを覗くのに、書きたい記事が多すぎる。膨大なデータのせいで、アンタを考える時間も比例するなんて……アンタには、一生言ってやらないけど。

 忘れたいのに忘れたくない。手のひらのぬくもりを忘れてしまえるほどの冷たさに触れたい。甘い空気の香りがわからなくなるほど鼻の頭が冷たくなればいい。分け合った体温が雪に溶けて、手も足も寒さに凍えて麻痺してしまえば、今日が無かったことにできるだろうか。


 乾きかけの湿ったコートを羽織って、マフラーを巻く。

 崩れたメイク、ラフな部屋着。手櫛で整えただけのボサボサの黒髪。それなのになんで私はよそ行き用のマフラーの巻き方をしているんだろう。


「アンタといると調子くるう……」


「それ俺も」


 はぁ、と盛大なため息と共に、巻き込んだ髪の毛をマフラーから出す。

 ダメなところしか見せていない。嗚咽混じりの泣き顔、体調不良の顔面蒼白、駄々こねて不貞腐れて、相手が引くほど怒って。誰も知らないアンタだけが知ってる私。

 猫かぶってニコニコして、綺麗に手入れの行き届いた指先、シワのないスーツ、ツヤツヤの髪、薄く色付く桜色の唇、まつ毛のカールに至るまで。着飾った橘美冬をアンタは知らないんだ。

 よく見られたい、なんてアンタに限って今更すぎた。


「美冬は酔ってます」


 後悔は夏の海より青い。甘酸っぱい想いはアルコールの後味とお揃い。


「秋人は、まっさらな美冬を愛してくれましたか」


 ガチャりと玄関の扉を開ける。

 アパートの外は相変わらずの白い夜で、一足先に出た私は返事なんて聞くつもりは無かった。

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