真澄鏡

 高三の夏休み。何もかもが嫌になった日があった。

 模試の判定が一向によくならず、同じ志望校の子達と点数差がひらくばかりだった。受験を理由に振った元恋人も指定校で私大に行くことに決まったらしい。国立志望の私はペンだこが真っ赤になってもシャープペンシルを握って、問題集を擦り切れるまではぐって、復習ノートはあの時何冊目だったんだろう。要領の悪い自分に苛立って、周りと比べて卑屈になって、でも、どうしようもできなくて。

 起きて、勉強して、寝て。起きて、勉強して、寝て。

 毎日同じことの繰り返し。肩も腰も頭の痛みは慢性的。心だって声が枯れるほど悲鳴を上げ続けている。

 解いた問題が増えても不安は反比例で減ってくれないし、逃げ場がないのにずっと逃げたかった。電車で顔を合わせる友達がいや。塾にも行きたくない。家にも帰りたくない。勉強はやりたくないのにやりたい。


 アラームが鳴る前にセミの鳴き声で目が覚めた。

 二日酔いの兄には、落ちこぼれの私を嘲笑する嫌味を言われた。

 参考書のページで指を切った。絆創膏を貼ったら紙が右手でめくれなくなった。

 家を出てすぐに靴紐が解けた。しゃがんだ目線の先に干からびたミミズがいた。

 最寄り駅まで歩くと車に泥をかけられた。お気に入りの白いスニーカーに茶色いシミができた。

 横断歩道で点字ブロックに躓いて、反対側の中学生には笑われた。

 いつもより問題集は一冊少なかった。それなのにリュックサックの肩紐はギチギチとくい込んで、駅までの一キロちょっとの道のりがものすごく遠かった。八時前。気温は三十度前後だったはず。じんわりと背中を伝う汗が気持ち悪く、前に進むことがいっとう重苦しく感じた。

 改札は目の前にある。定期は右手に握っている。

 あと五分。夏休みなのに毎日乗る電車はホームに止まっている。冷房の効いた車内はすぐそこにある。


 あ、行きたくない。


 漠然と。突然の拒否反応。


 まわりと一日分の学力差ができてしまう。

 親に怒られる。先生にも呆れられる。一緒に頑張る友達にもうっとおしく理由を問い詰められる。


 それでも行かなきゃ。わかってはいるの。


 何を躊躇ったか呆然と私は立ったままだった。

 電光掲示板の文字が点滅する。

 今ならまだ間に合う。階段をかけ降りれば乗れる。

 だらだらと冷汗ばかりが流れ出て、肝心の一歩が出ない。呼吸の仕方を忘れたようにはくはくと唇を動かしても酸素はうまく取り込めなかった。

 ゆっくりとしたモーター音がして、銀色の車両が通り過ぎたことを知った。三十分後の発車予定が繰り上がった。


「終わった」


 一連の流れがスローモーションのように感じた。

 人の歩みもゆっくりで、むわっとした夏の熱気は身体にまとわりついた。彩度が落ちた世界に私一人が取り残されてしまった感覚に陥る。

 呆然とまばらに降りてきた人を見ていた。

 近所の高校の学生たち。デザインは違うのに一様に臙脂色のジャージと学校名の入ったリュックサックとエナメルバック。第二ボタンまで開けた男子高校生。リボンを外して気だるげな女子高生。数人のサラリーマン。片手にペットボトルのおじいちゃん。旅行カバンを持った父母と走り回る子ども。


 夏休みだった。


 学校の夏期講習をサボって毎日予備校に通っていた。

 欠席連絡はいつも「腹痛のため」。

 三日目に担任から電話があって、ただの仮病と自白していた。みんなそればっかよなぁ、と学年の半分近くが休んでいることを愚痴られた。受験生は毎年出席率がよろしくないらしいが知ったこっちゃない。

 学校に行く気は今日もなかったけど、懲りずに「腹痛」の連絡をして、明日が最終日だったかとリマインダーの文字を確認した。結局一度もクラスメイトと机を並べずに夏休みは半分過ぎてしまったらしい。

 夏期講習を受けていたら私の成績は上がっていたのだろうか。一週間で私はどれだけ賢くなれただろう。

 ずるずると足を引きずって壁際に寄る。

 リュックサックを地べたに置くと、ごちんと鈍い音が聞こえた。

 次の電車が来たとて乗りたいとは思わない。乗らなきゃとは思うけど、今日はもう、行きたくない。

 握ったままの定期を見つめても高校の最寄り駅までの区間が示されているだけ。行先は示されているのだから身を任せて乗ればいいのに。

 足元に下したリュックサックを引き寄せて、汗ばんだ背中を壁に付ける。そのまま溶けるようにしゃがみこんだ。

 どうしたらいい。

 どうすべきだ。

 わかってはいるの。良くないことをしていると。

 ここに居たら誰にも叱られない。手を握って進むべきところに連れて行ってくれる人も来ないでしょう。

 座り込んでさっき通れなかった改札をじっと見つめる。


「……おなかいたい」


 きっと気の所為。

 それでも仮病を事実だと信じないと涙を堪える理由にも、次の電車のアナウンスを無視する理由にも辻褄が合わないから。胃がキリキリする。吐きそう。思ってるだけでもいいじゃない。仮病を信じようとする小学生みたい。アホくさい。ばかばかばか。

 予備校からのメール。親からの電話。駅員からの呼びかけ。偶然通り過ぎる知り合いからのだる絡み。

 何だっていい。怒るでも心配でもどっちでもいい。

 誰か私を助けて欲しい。

 他力本願? だから何だって言うのよ。

 ぎゅうと身体を縮こまらせて俯く。視界に何も映したくなくて目を閉じた。睫毛が震える。涙、零れたんだ。


 何で隣に君はいないの?

 いつかのように黙ってそばにいてよ。


「……あきひと」


 誰でもいいなんて嘘。アンタじゃなきゃ嫌。

 ぐずる私を宥めて、抱きしめて、大丈夫だよってくしゃくしゃな笑顔で笑ってよ。


「美冬」


 懐かしい声がする。


「美冬」


 あるわけない。

 白昼夢ってやつだよ。


「美冬」


 だって中学の卒業式から一度も会ったことなかったじゃん。そんなアンタの声が聞こえるわけないじゃない。


「おい、美冬」


 頭をポンポンと軽く叩かれる。

 親、予備校、友達、知り合い、駅員。全部違った。

 目を開けると視界いっぱいに幼なじみの顔があった。

 独り言で呟いた、一番に会いたかった人。


「あき、ひと?」


 ぐわぁんと揺れた。何かがあの時ひどく揺さぶられた気がした。


「どした? こんな暑っちぇ中で」


 眉毛をだらしなく下げて、しゃがみこんで聞いてきた。

 なんでアンタって人は。いつもこうやって助けて欲しい時に来るんだよ。


「あきひと」


 衝動。そんな言葉がちょうどいい。

 同じ目線の少年を抱きしめた。

 カッターシャツの襟元から制汗剤の匂い。私と一緒で汗で湿って、夏の暑さで火照っている。


「久しぶり秋人」


「久しぶり。美冬」


 小麦色に日に焼けた肌が眩しかった。


「珍しいね。ハグなんていつぶりだよ」


「夢と知りせばさめざらましを、ってやつ」


「なぁんだよ、それ」


 小刻みに震えながら笑う彼からそっと離れる。

 中学の卒業式以来に出会った彼は少しだけ大人びて見えて、駅のすみっこで燻っている私がよけい子供らしく思えた。


「ねぇ、私なんかに構ってていいの? ガッコ、だいじょぶそ?」


 どうかこのまま離れないで。私を置いて行かないで。


「駅でうずくまってる幼なじみ見たら補講とかどうでも良くね?」


 胸が痛い。これは仮病なんかじゃない。

 罪悪感。安堵。動揺。躊躇。

 きっとどれも違う。

 なんだろう。欲しかったコトバだけれど、素直に受け取ってもいいものなのだろうか。


「いや、学校行けよ」


「俺今日はサボるわー」


 ケラケラ笑いながら彼は隣に座った。

 ずっと変わらない距離感。会話のテンポ感。

 ああ、私、秋人と話してるんだ。

 いつの間にか息はしやすくなっている。


「で、どしたん? 美冬、何かあったんろ?」


 少し高めで、二月の雪みたいに硬く冷たいアンタの声が、どうしてか、この日はやわらかくあったかく感じたんだっけ。


「今日、朝から全然ついてなくて、ダメな日なんだなって思ってて」


「うん」


「そしたら、よびこー、行きたくないなって思ったら足うごかなくなっちゃって」


「うん」


「でんしゃも乗れなくて」


「そっか」


「そしたら秋人きてくれた」


 会いたかったのは親でも担任でも友達でもなかったのかもしれない。

 幼なじみ。藤原秋人。

 そっと隣で寄り添ってくれる人。いつも私を救ってくれる人。


 にい、と微笑んだ。手元のスマートフォンを見て、あぁ! もう! と秋人は頭をガシガシと掻いた。伸びかけのツーブロックの髪が揺れる。シトラスの香りがした。


「美冬、俺は今日学校サボる。お前も予備校サボれ」


「お、おう」


「で、泣き虫お嬢さん。どこ行きたい?」


 いつだって君の提案は突然だ。


 いたずらっ子みたいに上目遣いでニヤニヤ笑って。

 ああ、そうだ。アンタってそういう人だったよね。

 ぐるぐるとループしがちな私の思考をおちゃらけているくせに汲み取ってくれる気使い屋。

 委ねてもいい? 私の全部、託してもいいよね。


「とおくに行きたい」


「遠く?」


「どこか遠くに連れてって欲しい」


 何が嫌なのかわからなくなっちゃったんだ。何がしたいかもわからないんだ。

 家にも学校にも予備校にも行きたくない。遊びに行きたいかもよくわからない。もちろんここにも居たくない。

 だからさ、秋人。全部全部気にしなくて済むくらい遠くに連れて行って欲しい。昨日のことも、明日も考えないから。だから今日をアンタに丸ごとあげる。


「秋人とならどこ行っても後悔しないから」


 バッと彼は勢いよく立ち上がった。おもむろに私のカバンを背負って、自分のほぼ空のリュックサックを私に背負わせた。


「え?」


「定期どこまで。残高いくら」


「新潟と五千円ちょっと」


「財布は」


「え、と、チャージ分と同じくらい」


「昼は」


「おにぎりあります」


「よっしゃ行くぞ」


 腕を掴まれて改札を駆け抜ける。

 待ってくれ。まてまてまて。

 勢いはそのままに階段を下って三、四番線のホームに。


「上と下なら!?」


「うえ!!」


 まてまてまて。待ってくれよ。

 ガラガラの車内に二人で乗車。

 四番線に停車中の電車はすぐに扉が閉まった。


「ちょっと!? 突然すぎない!?」


「こんくらいがお前にはちょーどいいんだって」


「それにしたってやり方ってあるじゃん!」


「後悔しないって言った」


「……言った」


「下の方が本当は良かった?」


「どっちでもよかった」


 ガタゴトと揺れる車体。ずっと広がる田園風景。見たことない。知らない沿線だ。


「てかさ、これどこ行き?」


 目の前の少年は満面の笑み。

 口の両端をにい、と歪まして得意げに言った。


「海」


「ばかあああ」


 頭を抱えた。私は文字通りに頭を抱えた。


「どこの海だよ!! 往復でお小遣い全部スるじゃん!!」


「大丈夫、大丈夫。俺が何とかしてやるから」


 ばかあああ!!

 ほんとにばか!!


 現在地を検索しようとポケットからスマートフォンを取り出す。


「みーふーゆー??? 今日はスマホいじるの禁止な」


 右手からするりとスマートフォンを取られ、代わりに秋人の左手が絡まる。

 指先からじんわりと体温が伝わる。


「で、わかった?」


 私は黙って頷くことしか出来なかった。

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