泡沫の

 二十一時三十分。駐車場からアパートの外階段。

 扉を開けるまでの数分で身体は白に薄化粧。

 玄関に鍵をかけ、手探りで電気をつけた。払ったはずの雪はまだ肩につもったままで、ため息をつきながらびしょびしょになっているハンカチでぬぐい取った。エアコンのスイッチを入れて冷え切った部屋に暖かい空気を送る。カーテンを閉めようと覗いた窓からやっぱり横殴りに雪が降り続くのが見えた。


 いつの間にか雪景色にわくわくを見いだせなくなった。

 今日だってそう。教室の子どもたちは朝からランドセルを真っ白にして、おでこに前髪を貼り付けてずいぶん誇らしげにおはようを言っていた。

 比べて私は? 通勤時の渋滞にイライラばかりが募って、遅刻についてぐだぐたと長ったらしい上司からのお小言と午後からの出張を考えて憂鬱な気持ちでいっぱいなままの「おはよう」

 大学を卒業して二年目。まだまだ若造でガキンチョみたいな新米教師。それでも子どもたちと同じ純白な心は持っていないんだよな、なんてわかりきっていたことを寂しく思ってしまった。車道の雪みたいに鈍色で、新雪をひがんで自分はまだ白いから、とくすんで見えるくせに自分基準を押し付けようとするんでしょう。


 チェスターコートを暖房の風にあてる。消雪パイプとわだちの雪にまみれたブーツに新聞を詰め、つま先の濡れたタイツは洗濯機に放り込む。

 明日までに乾くかなぁ、なんて最近増えたひとりごとをぼそぼそと呟いて、冷凍のご飯をレンジに入れた。二分を待つうちに冷蔵庫の中を見る。もやし、アルコール。ほぼ空じゃないか。ギリギリの生活費で飲み会ハシゴした学生かよ。あの日よりは稼ぎがあるはずなのに未だに当時と同じ食事ばかりしている自分に嫌気がさした。

 お腹が空いた。もやしで何作ろう。

 お酒も飲みたい。つまみは切らしてる。

 電子レンジの無機質な音が部屋に響く。

 お茶碗にあけようとラップの端を摘む。


「熱っつ!!」


 まだかじかんでいる指先は自由に動かなかった。

 ぼとり、とフローリングに湯気の経つ白米が落ちた。

 あーあ。嫌んなっちゃう。自分が惨めで仕方ない。泣きたい。そっか、今日はダメな日なんだ。

 もうコドモじゃないから瞼を閉じてもお母さんも、お父さんも来てくれない。いつも隣で手を差し伸べてくれた幼なじみも駆け寄っては来てくれない。大人になるってこういうことか、なんて傍観している自分がいた。

 キッチンペーパーでご飯を掴む。食欲をそそる真っ白な湯気はお腹を満たしてくれなかった。給食のたび、三秒ルールに躍起になってる教え子達は私を見てどう思うだろう。セーフだよ、と言われても橘先生は床に落ちたご飯は温かいままでも生ごみにしか見えないんだ。


 適当にもやしの醤油炒め。冷凍のネギを散らして終わり。バランスの良い食事をしようと教室で言っていたのは紛れもない自分なのに。やってられるかよ。一品作っただけでも偉いでしょ。

 冷蔵庫から缶ビールを取り出す。


 嫌なことがあるとお酒に逃げてしまう自分が嫌。


 ローテーブルにもやし炒め。ベッドに腰掛けてプルタブを開ける。カシュ、と炭酸の弾ける音が耳に心地いい。

 鼻の奥を抜けるアルコールの匂い。パチパチと喉がひりついた。


 今日はついてない日だったんだ、と恋人に甘えることが出来たなら。


 録画した恋愛ドラマを見ながら、可愛らしいヒロインと自分を比べた。

 栗色の髪の毛を緩く巻いて、アイボリーのピッタリとしたニットワンピ。睫毛が長くて、大きな瞳は零れそうで、くるくると表情が変わる売り出し中の元アイドル。

 守ってあげたい、そんな感じ。ふわふわしてるを体現してる。

 今日は嫌でも自分に無いものを探してしまうみたいだ。

 スマートフォンの通話履歴をスクロールして、柄にもないこと出来ないよなぁ、とボヤきながら「高倉春真」の文字を見つめる。私の恋人はドラマの主人公みたいに甘えられて欲しいのかしら。私のことを可愛げのない女だと思っていないかしら。あれ、最後に会ったのいつだっけ。彼の声をどのくらい聞いてないんだっけ。

 だんだんと気持ちが沈んでいく。

 こくり、と喉を鳴らして缶の中身を空ける。

 目頭がきゅうっと熱くなる。きっといつもより酔いが回るのが早いだけ。雪が降るから寂しがり屋な気分になったんだ。そう、今だけは言い訳させて欲しい。

 スマートフォンを布団の上に投げる。ぽす、と気の抜けた音と共に沈んだ。

 タイトスカートの皺をそのままにお代わりの桃味のチューハイを手に取る。

 プルタブを開けてぐびぐび飲んだ。

 口の中は甘さでいっぱいなのに、鼻の奥がツンとしている。薄桃色のこの缶が結露で濡れるのと、私の頬が涙で濡れてしまうの、どっちが先なんだろう。

 テレビ画面のヒロインは相変わらずの甘えたで、恋人の名前を見つめるだけの私は相変わらずの意気地無し。


「はるまくん」


 名前を呼んでも返事なんてあるはずもなく。

 スマートフォンの画面を裏返し、空になった皿の横に置いた。うんと伸びをして、ベッドの上で体育座りをすると生足がやけに冷たく感じた。

 指先、まだひんやりしてる。私の隣に体温を分けてくれる人、貴女と違って居ないんだわ。

 膝に顔をうずめて、耳障りな猫なで声を聞く。

 もうテレビも消してしまおうかしら。何も考えたくないのにぐるぐると余計なことばかりを考えてしまう。桃の甘さは感じている。それなのに炭酸が弾ける度に苦くてしょっぱくて、酔いたいのにどんどん冴えていく。


 雪が酷くて遅刻しちゃったの。

 先生方に怒られちゃった。朝の会には間に合ったけど、子どもたちに笑っておはようを言えなかったの。

 午後から出張だったんだけど、会議が長引いちゃった。

 おろしたてのブーツもね、びちょびちょに濡れてしまって、もちろんコートもなんだけど、明日までに乾かなさそうなんだ。

 ご飯もね、せっかく温まったのに落としちゃった。

 はるまくんに今日ついてない日なんだって言いたかったんだけど。はるまくんに久しぶりに電話しようかなって思ったんだけど。……思ったんだけど。


 変なところで意地を張る。

 愚痴を言うも構っても、なんで貴方に出来ないんだろう。


 自分が一番面倒くさいって知ってるよ。

 助けて欲しい。堂々巡りの一人反省会から救ってよ。

 溜息ばかりがこぼれるの。

 息が詰まって、気持ちよく酔えやしないの。

 どうしようもない気分よ。

 こんな時はさ、ねぇ、アンタはいつも隣に居てくれたじゃん。時々夢にだけ出てくるアンタよ。ぱっと思い浮かんだ人、会いたくなるのがなんて馬鹿げているんだろうけど。


「……あきひと」


 桃色の吐息で名前を呼ぶよ。

 恋人に電話をかけれないままスマートフォンを握りしめて。


「あきひと」


 コールボタンを押す気は無い。

 ホーム画面の恋人を指の隙間から見つめたままで。


 君から連絡が来ないかしら。

 玄関のドアベルが鳴らないかしら。

 今晩夢で出会えれば十分だけれども願ってしまう。


 会いたいの。ずっと思い出の中の君に縋っている。


 右手の薄桃の缶を傾ける。

 甘ったるくて、むせてしまいそう。

 自堕落な自分みたいにもたもたしてる。そんな味に思える。


 〜♪♪


 突然の着信。聞き慣れた電子音楽が一回、二回、三回目。

 手のひらで振動が続く。ディスプレイには「藤原秋人」


 そうだよ、アンタよ。今日だけじゃない。いつも、ずっと待っていた。


 恋焦がれる想い人でもない。

 大好きな親友でもない。

 なんでも話せる兄弟でもない。

 それでもこんな時は君の声が聞きたいの。


 酔って見た幻覚でもいい。

 私にはアンタがいた、って確認できただけでも十分だから。


「もしもし、私、美冬だよ」


「久しぶり。俺、秋人」


 この声が聞きたかった。

 少し高くて、優しいとは言えないぶっきらぼうな声。

 数年前まで毎日聞いてた懐かしい、声。


「どうしたん? なんかあった?」


「まぁ。とりあえず玄関開けてくんね?」


「え、どゆこと」


 催促するようにインターホンが鳴った。

 まさか、ねぇ、どういうこと。

 半分ほど残っている缶をローテーブルに勢いよく置き、バタバタと足音を立てて玄関の扉を開ける。


「美冬、久しぶり」


 ああもう。なんでよ。なんでアンタってヤツは。


「久しぶり、秋人」


 最後に会ったあの夏の日と同じようにぎゅうと抱きしめる。冷たくて、頭には雪が積もっていて、微かにタバコの匂いがする。


「なぁんだよ、急に。酔ってんの?」


「ううん。夢と知りせばさめざらましをってやつ」


 何言ってるか分かんねーと眉毛を八の字に下げて笑う。よかった。この顔だけは変わってない。


「まぁ、上がってきなよ」


「そのつもり」


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