第39話 ボーダーライン

 モニターに映し出される光景を、全員が固唾を飲んで見守っていた。ユキノリは片時も視線をはずすことなく、画面越しの戦場を凝視している。補佐官のアキトともに司令室へ呼ばれたキョウヤも同様に、祈るような思いでモニターを見つめていた。


 画面上のハルの歩みが、パタリ、と止まる。


「あなた、これはまさか……」

「あぁ、彼女はたしか、精神侵食型だったはずだ」


 マリアの言葉に声を抑えてそう返したユキノリは、固く口を引き結ぶ。

 ミズホがハルを洗脳しようとしていることはあきらかだ。

 シュウに対してもそうやって言葉巧みに誘惑し連れ去ったのだろう。少し前までただの一般人だった彼には、当然ながらそれにあらがう術はない。


 だがハルは違う。

 誰もがそう信じていた。ハルがあんなにもわかりやすい洗脳に引っかかるわけがないと。


 しかしもしも、ハルが女の言葉を受け入れてしまったとしたら。

 はたして自分たちは、ハルを敵とみなして戦えるだろうか。

 モニターの向こうで動きを止めたハルの姿に、嫌な想像が脳裏をかすめる。それを振り払うかのごとく、誰かが頭を左右に振った。


『力、か……』


 スピーカー越しに聞こえた声に、誰もが目を見張った。それはまぎれもなくハルのもので。

 モニターの中でうつむいたまま動かない彼女は、独り言のようにぽつりと言葉を発した。


『……わたしは、強くなりたい……。強く、ならなきゃいけない……』

「ハルだめだっ!!」


 おもわず叫んだキョウヤの声は、戦場に立つハルには届かない。

 司令室に集まった面々も、ハルには届かないとわかっていても口々に声を上げる。


「ハル! に行ってはだめっ……!」


 マリアの悲痛な叫びがこだました。

 しかし彼らの願いとは裏腹に、再びハルはゆっくりと前へ進んでいく。まるでいざなわれるように、小さな歩幅を引きずるようにして。


「シンクロ率急上昇! 限界点、突破します!」

「な、んですって!?」


 室内に響いたアキトの言葉に、マリアは慌てて計測器の前に駆け寄った。

 モニターに表示された数種類ものデータグラフが、リアルタイムでせわしなく変動している。

 キューブとのシンクロ率を示していた黄色のバーは、数値が大きくなるほどオレンジ色へと濃く変化している。その先端が、赤いボーダーラインを越えようとしていた。


 それが示すのは、限界点。


 理論上スペラーレなしでシンクロ可能な最大値とされているが、実際そこに到達した者は過去にはしかいない。


「まさか、これが狙いか……?」

「え……? あなた、なにか言った?」

「いや。ハルに影響がなければいいが……」

「そうね……」


 心配そうにモニターに視線を戻したマリアが、祈るようにハルを見つめていた。

 全員が、同じ気持ちで戦場を見守る。


――とはいえ、ハルにまったく影響がないはずはない……。


 ハルの身を案じる一方で、ユキノリは研究者として心がうずくのを感じていた。




 いつしか雨はやんでいた。

 まるで空間が切り離されたかのように、ペッカートの断末魔も戦闘の衝撃音も聞こえない。


「……強く、ならなきゃ……」


 ハルのつぶやきをさらうように、冷たく湿った風が戦場を吹き抜ける。

 雨ですっかり濡れてしまった体から、急激に体温が奪われていく。

 肯定の言葉とともに再び歩きだしたハルに、ミズホは無意識のうちに声を上げて笑っていた。こんなにも自分の思うように物事がうまく運ぶことほど愉快なことはない。


――やっぱり、所詮はただの小娘ね。


 ミズホはハルに向かって手を差し出す。


「さぁ、いらっしゃい! ともにあの方のもとへ!」

「……ちから……、みんなを、守る力……」

「さぁ!!」

「わたしは……、強く、なりたい……!」


 うつむいたままのハルの表情は、長い黒髪に隠されて見えない。

 ふらふらと左右に揺れながら、彼女はうわ言のように何度も同じことをつぶやいた。


「ふふっ、あははっ」


 ミズホは歓喜に打ち震えた。

 勝利は目前である。己に警戒心をいだく者が、こうも容易く落ちるとは思ってもみなかった。沸き起こる優越感が抑えきれない。


「だけど!」


 だが次の瞬間、ハルが膝を曲げ前傾姿勢をとる。同時に上げられた顔に迷いはない。

 まっすぐにミズホを射抜いた視線は、確固たる意志を宿している。


「あんたたちの手は、借りない!!」

「なっ!?」


 ハルは一瞬で間合いを詰め、ミズホの懐に飛びこんだ。

 二人の足元で泥水が跳ね上がる。

 思いもよらなかったハルの行動に、ミズホは咄嗟に体が動かない。自身の勝利を確信していただけに、それはあまりにも突然のことだった。

 手離した傘がふわりと風に舞う。

 ミズホはそのまま腹に強烈な蹴りを食らい、それまで余裕さえ見せていた表情が崩れる。

 倒されまいとなんとか両足を踏ん張るも、雨でぬかるんだ地面をすべるようにして体は後方に飛ばされてしまった。


「っ……! あんた! あたくしをだましたわね!?」


 ぬかるみに足をよろめかせながら叫んだミズホの顔は、こみ上げる怒りから醜く歪んでいた。



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