第38話 フウソクゼロメートル
◇◇◇◇◇
降りはじめた雨は一向にやむ気配を見せず。
とめどなく降りしきる雫が草花を上下に揺らし、茎を伝う雨粒が吸いこまれるように大地へと流れていく。
風はない。
雨はただ、静かに降りつづけていた。
見晴らしのいい小高い丘の上で、ミズホはただ一点を見据えていた。
透明なビニール傘に当たる雨音だけが鼓膜を揺らす。
彼女のかたわらに横たわるシュウの体を、しとしとと降り注ぐ雨が容赦なく濡らしていた。
「本当に一人で来たのね。そんなに、この子が大切?」
ミズホの視線が、あざ笑うように細められる。
その視線の先で、ハルは静かに歩調を止めた。傘もささずに、彼女は鋭い眼光をミズホに向けている。
「その人を返して」
冷めた声色が、淡々とそう告げる。
ミズホはハルから視線をそらさぬまま、小さく鼻で笑った。
「だーめ。あなた、あたくしたちのところに来る気はないのでしょう?」
ハルの考えなどお見通しだとばかりに、ミズホは大げさに肩をすくめてみせた。
「約束が違うもの。それじゃあ彼は渡せないわ」
「だったら、力ずくで奪い返す」
「そう。おもしろいこと言うのね」
次の瞬間、ハルは勢いよく地面を蹴った。
もはや手段など選んでいられない。
シュウを見殺しにするつもりもなければ、身代わりに敵の手に落ちるつもりもない。
はじめから交渉など無意味なのだ。
きっとそれは、ミズホとて同じことだろう。
前ぶれもなく現れたペッカートが、黒い壁となってハルの行く手をさえぎる。
「あの方のご命令なの。あなたにはどうあっても、あたくしと一緒に来てもらうわ」
ハルに向かって伸ばされたいくつもの腕が、彼女を捕らえようと交錯する。
次の瞬間、耳ざわりな雄叫びに空気が震えた。
ハルとミズホを隔てる壁が崩落し、二人の視線がぶつかりあう。
「ハル! こっちはあたしに任せないさい!」
「ホノカ!」
再び沸き出したペッカートを見据えて、ホノカはハルと背中を合わせた。
「あんたはシュウを優先して」
「わかった」
その言葉を合図に、ハルは一気に地面を蹴った。
「ふふっ、交渉決裂ってわけね」
「はじめからね」
地面を這うようにして現れたペッカートを、ハルは瞬時に一掃する。
「あら、なかなかやるじゃない」
次から次へと出現する敵を斬るハルを眺めながら、ミズホは笑みを浮かべていた。
「だけどあたくし、あなたのことが嫌いなのよ。あの方はいつもあなたのことばかり」
一瞬、憎悪にも似た歪んだ表情を見せたミズホが、足元に横たわるシュウを一瞥する。
「あたくしのほうが、あの方に尽くしているのに。おそばにいるのはあたくしなのに……。これ以上、あの方のお心を乱すのはやめて」
口内で紡がれるミズホの声は、モルテを浴びながら舞うハルには届かない。
傘をさしたまま上体を曲げたミズホが、横たわるシュウの顔を覗きこんだ。
「仲良しこよし馴れ合ってて楽しい? あんたたちを見てるとね」
シュウの襟首をつかんだミズホが、片手で易々と彼の上体を引き起こす。
「虫酸が走るのよ!」
次の瞬間、ミズホは後方に向かってシュウの体を勢いよく投げ飛ばした。
遠心力も相まって、意識のない彼の体はなす術もなく空中をすべっていく。
「シュウ!?」
「ふふっ、せいぜい必死に追いかけなさいな。このままだと彼、死んじゃうわよ?」
気づけばハルは、嘲笑を浮かべるミズホの脇をすり抜けて駆け出していた。
遠のいていく体。縮まらない距離。
この程度の速度ならすぐに追いつけるはずなのに、あと少し届かない距離がもどかしい。
――早く早く早く!
思うように動かない足を叱責しながら、ハルはシュウに向かって懸命に腕を伸ばした。
――あとっ、少し!
右手がシュウの腕をつかんだ瞬間、ハルは力任せに彼の体を引き寄せた。自身の勢いは殺さずに、遠心力に乗せて進行方向へとまわりこむ。
「っく……!」
直後に背中を大木へと打ちつけ、次いでシュウの体を受け止める。一瞬詰まった息を再び吐き出すのと同時に、ハルはずるずると地面に膝をついた。
衝撃の弾みで切れたヘアゴムが、ポタリ、と地面へ落下する。
「……っ! ……オ、レ……?」
シュウがわずかなうめき声とともに小さく身じろぎをした。
全身を揺さぶった衝撃に、彼は重たい体を引きずるようにして起き上がる。
「オレ、なんでこんなところに……?」
丘の向こうに見える黒い塊。
こちらをじっと見つめる、見覚えのある女の姿。
覚醒しきれていない頭をフル回転させてみても、状況の理解が追いつかない。
「なにが、どうなって……?」
まるで長い夢でも見ていたような心地だった。
雨で濡れた前髪から、ポタリ、と雫が落ちる。
「……シュウ?」
背後から聞こえた声に、彼は反射的にうしろを振り返った。
大木を背に、苦痛に顔を歪めて座りこむハルの姿に、シュウは弾かれたように彼女の前に膝をついた。
「ハルっ!? お前なんで……!」
正確な状況はわからない。だがここは戦場で、にもかかわらず自分は無傷で。
「ハル? まさかお前、オレをかばって……!?」
腹に手を当ててうずくまるハルの肩を、シュウは咄嗟につかんだ。
短く息を詰まらせたハルが、彼の腕をやんわりと押し返す。
「っハル……!」
「少し、待ってて」
シュウの声をさえぎり、ハルはゆっくりと立ち上がる。
ほどけた長い黒髪を煩わしそうにうしろへ流し、待ち構えるミズホへ向かって歩きだした。
しかし、その足取りはどこかおぼつかない。
ふらつくことこそないが、いつも戦場で見せる凛としたとした力強さに欠けていた。
「……ねぇ、力が欲しい?」
脇目もふらずにまっすぐに向かってくるハルに、ミズホは冷ややかな笑みを投げる。
「本当は、つらいのでしょう? 立っているのもやっとなんじゃない? そうまでして守りたいの? すべてを」
周囲にこだまする雨音をものともせず、ミズホの声だけがハルの鼓膜を揺らしていた。
「でも、あなたにその力はあるの? いまのままで、大切なものすべてを守りきれる? ねぇ、自分でもわかってるんでしょう?」
脳内に響くミズホの声が、見えぬ刃となってハルに突き刺さる。
水に落ちた絵の具のように、彼女の言葉がじわりじわりとハルの心を侵食していく。
「そんな力、あなたにはないわ」
「っ……!」
ミズホは鋭い口調でそう告げた。
その瞬間、ハルの歩みが止まってしまう。刺すようにミズホに向けられていた視線は、いまや濡れた地面を不安定にさまよっていた。
「そこにいるかぎり手に入れることはできないわ。でもあの方なら、それができる」
完全に歩みの止まってしまったハルに、ミズホは貼りつけていた笑みを妖しく歪めた。ゆっくりと、目の前の女の思考をいざなうように言葉を紡いでいく。
「力が、欲しくはない?」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます